とある魔術の禁書目録13 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》…ルビ |…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)その赤い|瞳孔《どうこう》が拡縮する。 [#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから〇字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録13  学園都市に、ローマ正教『神の右席』の一人、『前方のヴェント』が侵入した。彼女が操る謎の魔術により都市機能は完全麻痺、大部分の人間は意識を奪われ倒れていった。  彼女の狙いは、|上条当麻《かみじょうとうま》  ローマ正教が公式に認めた敵。  同時刻。  最強の|超能力者《レベル5》・|一方通行《アクセラレータ》が彼を支える少女『|打ち止め《ラストオーダー》』を護るため、科学者・|木原数多《きはらあまた》率いる武装集団『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』と激突した。  魔術と科学、二つの惨事が同時に学園都市を襲う。  上条当麻、インデックス、|一方通行《アクセラレータ》、|打ち止め《ラストオーダー》。四者四様の想いが交差するとき、物語はは始まる———! [#改ページ] 鎌池和馬 今年も四月に出す事ができました。しかし作中の時間経過はようやく二ヶ月半ぐらいです。そう考えると、我ながら不幸な主人公を書いているなあとしみじみしてしまいます。 イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。新居へ引っ越して数ヶ月、布団もベッドも無いまま寝袋で眠る生活にすっかり馴染んでしまいました。慣れって怖いもんですね……。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録13 [#改ページ]    c o n t e n t s      第六章 冷たい雨に打たれた街 Battle_Preparation.    第七章 雨粒を血の色に変える Revival_of_Destruction.    第八章 神の右席と虚数学区と Fuse=KAZAKIRI.    第九章 立ち塞がる障害の違い Two_Kinds_of_Enemies.    第十章 彼らのそれぞれの戦場 The_Way_of_Light_and_Darkness.    終 章 正と負の進むべき道へ The_branch_Road. [#改ページ]    第六章 冷たい雨に打たれた街 Battle_Preparation.      1  九月三〇日、午後六時三三分。  学園都市の第三ゲートを『神の右席』の一人、『前方のヴェント』が物理的に突破。  同時刻より正体不明の|攻撃《こうげき》が発動、治安維持を務める|警備員《アンチスキル》、及び|風紀委員《ジヤツジメント》に|甚大《じんだい》な被害を及ぼす。  警備が|手薄《てうす》になった結果、ヴェントの手によって統括理事会の内の三名が殺害される。  同日、午後七時二分。  学園都市統揺理事長アレイスターはヴェントを止めるために、米完成の虚数学区・五行機関の使用を決定。  雨の降り注ぐ夜の街で、|木原数多《なはらあまた》率いる『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』が行動開始。  彼らの目的は|検体番号《シリアルナンパー》二〇〇〇一号『|打ち止め《ラストオーダー》』の回収。  その障害になると判断された|一方通行《アクセラレータ》への|強襲《きようしゆう》を木原数多自身が行い、これに成功。  学園都市最強の|超能力者《レペル5》と言われる彼をほぼ|完壁《かんぺき》な形で無力化させるに至る。  ただ、彼ら『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』はここで一つの小さなミスを犯した。 「助けて……」  それは、一人の少女を取り逃がしてしまった事。  そして、 「あの人を助けて! ってミサカはミサカは|頼《たの》み込んでみる!!」  その声が、とある少年の耳に届いたという事だった。      2 「そこで何をしているの?」  雨の強さは増していた。  ざーざーと降りしきる雨滴の中、暗い夜の街に響《ひび》かせるように、少女の声は地面を|這《は》って『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』や|木原数多《きはらあまた》、そして|濡《ぬ》れた路上に倒れる|一方通行《アクセラレータ》の耳へと|染《し》み込んだ。  黒い夜の中に、白い修道服が浮かび上がっている。  インデックス。  |華奢《きやしゃ》な少女だった。シルエットが大きく|膨《ふく》らんだ修道服をまとっていても、小柄であるのは隠せない。腰まである銀色の髪、緑色に|輝《かがや》く興大きな瞳それら一つ一つのパーツは触れれば|壊《こわ》れる精巧な細工を思わせた。おまけに両手で小さな|三毛猫《みけねこ》まで抱えている。 (最悪だ……)  |一方通行《アクセラレータ》は崩れ落ちたまま、ぼんやりと思った。  場違いにもほどがある。チャンスどころか、これでは|厄介事《やつかいごと》が増えただけだ。銃器を手にした『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』はおろか、そこらの裏路地で程ている不良にすら|太刀打《たちう》ちできなさそうだ。  事実、木原も|眉《まゆ》をひそめていた。  新たな戦力に対する分析や思考などは一切行っていない。例えば野球の試合中に、突然マウンド上にヒヨコが歩いてきた事に気づいた、という感じの表情でしかない。  この白衣の男が指示を出せば、あの修道女は数秒で|挽肉《ひきにく》になる。  自動車のドアを穴だらけにするほどの威力を持つサブマシンガンを使えば、あの柔らかそうな人間の肌と肉がどういう風に変化するかは|誰《だれ》でも分かるだろう。 (取るべき道は何だ。見捨てるか。助けるか。それとも利用するか……)  |一方通行《アクセラレータ》は自分の首につけられた、チョーカー型の電極に注意を向ける。  まだ能力は使えるはずだ。  だが、全身のあちこちに刻まれた傷が、体を動かす事を拒んでいる。 「どうしますか」  周囲を固めている黒ずくめの一人が、木原に耳打ちした。  木原数多はつまらなそうに息を|吐《は》くと、 「どうするって、お前」  一言。 「消すしかねぇだろ」 (チッ!!)  |一方通行《アクセラレータ》は舌打ちする。  このインデックスは『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の活動を|目撃《もくげき》している。そもそも存在自体が隠されているであろう非公式工作組織を、だ。それが示すのは当然口封じという言葉だった。彼女はもう、ここから逃げた所で延々と追跡される立場にある。おそらく三日と|保《も》たないはずだ。 (どのみち|黙《だま》っていたって|俺《おれ》が殺される事に変わりはねェ。ならやってやろォじゃねェか!!) インデックスを助けるというより、むしろ木原数多に|吠《ほ》え|面《づら》をかかせる事を目的として|一方通行《アクセラレータ》の意思に爆発力が戻る。 (こンなシスターなンざどォでも良いが、やられっ放しってンじゃ収まらねェ。今度はオマエが|歯噛《はが》みする番だぜエ、|木《き》ィ|原《はら》ァ!!)  首筋にあるチョーカー型電極のスイッチは、さっきから入りっ放しだ。  後は命じるだけで能力は発動する。  そのために、彼は|全《すべ》ての位置を確認する。  |一方通行《アクセラレータ》を中心として、半径一〇メートル以内に、三台の黒いワンボックスが取り囲むように停車している。黒ずくめの『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の数は二〇人前後。一番の問題である木原|数多《あまた》は|一方通行《アクセラレータ》のすぐ近くに立っているが、彼を|攻撃《こうげき》するのはほぼ不可能と言って良い。|一方通行《アクセラレータ》の防御『反射』は木原の攻撃を防げないし、風のベクトルを操って暴風を生み出しても、特殊な音波を使ってベクトルを乱され、無力化されてしまう。  そして。  インデックスは、ワンボックスの輪の外、およそ一五メートル先に立っている。 (コイツらの|職滅《せんめつ》ァ後回しだ)  |一方通行《アクセラレータ》はうつ伏せに倒れたまま、指先で|濡《ぬ》れたアスファルトに触れる。  感触を、指の腹で確かめる。 (今ここでやるべき事は一つ。安全な場所まで逃げ切る事。あのシスターも連れてなァ!!)  その赤い|瞳孔《どうこう》が拡縮する。  能力が発動する。 「おおおおおァああッ!!」  |一方通行《アクセラレータ》は絶叫すると、片足の|爪先《つまさき》を地面に押し付け、倒れたまま思い切り|蹴《け》る。その拍子にベクトルを制御する。ロケット並の爆発力を得た彼の体がアスファルトから浮き、恐るべき速度で黒いワンボックスの後部スライドドアへと激突した。  鉄球でも喰らったように、金属のドアがレールから外れて車内へと押し込まれる。  |一方通行《アクセラレータ》の体が、ワンボックスの後部座席へと収まった。 「ッ!?」  運転席で待機していた黒ずくめの男が反応する前に、|一方通行《アクセラレータ》は|潰《つぶ》れて押し込まれたドアに手を伸ばしスライド部分の金具を|毟《むし》り取る。ギザギザに|尖《とが》った、幅五センチ、長さ二〇センチほどの棒状の鉄片を握り|締《し》めると、それを勢い良く運転席の背もたれの真ん中に突き刺す。  ずぶり、と。  音というより感触のようなものを得た。 「ぃ———ぁっ!!」  悲鳴すら上げる事もできず、運転席に|縫《ぬ》い止められた男に、|一方通行《アクセラレータ》は語る。 「進め」  一切の|容赦《ようしや》なく。  静かに、ただ事実のみを。 「オマエは三〇分で死ぬ。さっさと病院に行かねェと手遅れになるぞ」  応急キットでどうにかなるレベルでないのは、男も痛みの程度で分かるだろう。それにそもそも、あの[#「あの」に傍点]|木原数多《きはらあまた》が負傷し足手まといになった部下をどのように扱うかは、|誰《だれ》よりも理解できているはずだ。 「ひっ!?」  決断は速かった。  ガォン!! という甲高いエンジン音と共に、|一方通行《アクセラレータ》を乗せた黒いワンボックスがヒステリックな挙動で発進した。  進路上にいた黒ずくめ|達《たち》がバラバラと左右へ飛び|退《の》く。  木原が|木原が|忌々《いまいま》しげな表情で何事かを怒鳴った。  その間に|包囲網《ほういもう》を抜ける。  自分の後方で男達が次々と銃口を向けてくるのが分かる。  運転席越しにフロントガラスの先を|睨《にら》み、|一方通行《アクセラレータ》はインデックスのいる場所を把握した。 「左へ寄せろォ!!」  |一方通行《アクセラレータ》は絶叫し、ぽっかりと空いた出入口から|邪魔《じやま》なスライドドアを投げ捨て、さらに  そこから身を乗り出す。  車の向かう先、車道の真ん中に、白いシスターは突っ立っていた。 「チッ!!」  彼は車外へ腕を伸ばす。  インデックスは両手で|三毛猫《みけねこ》を抱えている。|掴《つか》むなら二の腕の辺りしかないが、限界まで腕を伸ばしても届くかどうかの保障はない。  それでも腕を伸ばす。  パン!! という銃声が|響《ひび》いた。  顔のすぐ横を弾丸が|掠《かす》めたが、|一方通行《アクセラレータ》は無視してインデックスの腕を掴んだ。そのままベクトルを操作し、強引に車内へと釣り上げる。 「わ、わああ!!」  インデックスが場違いな悲鳴を|漏《も》らした。  |一方通行《アクセラレータ》は運転席の背もたれを隠すように、自分の体の位置を調整する。ついでに背もたれを貫通している鋭い金属の凶器を、指先で軽く触れた。 「い、がっ!?」  ビグン!!と運転席の男が大きく|震《ふる》える。  |一方通行《アクセラレータ》はインデックスに聞こえないよう、小さな声でささやいた。 「……|騒《さわ》ぐンじゃねェぞ。イイから直進しろ。時間がねェのはお互い様だろ?」 「お、お客さん、どちらまで……?」 「イイ医者を知っている」|一方通行《アクセラレータ》はあまり興味がなさそうな声で答えた。「普通の医者じゃダメだろォな。そこまで案内して欲しけりゃしっかり働けよ、運転手」      3 「あーあーあーあー」  |木原数多《きはらあまた》は小さくなっていく黒いワンボックスを眺めながら、気の抜けた声を出した。  右手を差し出す。 「あーあーあーあーっ! アレだアレぇ、アレェ持って来い!!」  ムチャクチャ過ぎる注文の出し方だが、部下は従順に応じた。残るワンボックスの中から迅速な動きで携行型対戦車ミサイルを木原へ受け渡す。  それでも木原はさっさとしろ間抜けと怒鳴って部下を|殴《なぐ》り飛ばすと、プロのオペレーターがキーボードを|叩《たた》くような正確さと素早さで、一気に砲を組み立て安全装置を解除していく。  その動きには一切の迷いがない。  むしろ、うろたえたのは『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』の部下の方だった。 「う、運転手は!?」 「関係あるかよヤッハーッ! 脱走兵は即刻死刑! さようなら子犬ちゃん、あなたの事ァニ秒ぐらいは忘れませんってなぁ!!」  ガコッ! と木原は全長一メートル、太さ三〇センチほどの砲を肩に|担《かつ》いで側面のスコープに目を通す。  照準を合わせる。  追尾ミサイルの引き金に指をかける。  数十メートル進んだワンボックスは通りの角を曲がろうとしている所だった。木原は笑った。 間に合う。たとえ自動車が完全に曲がりきっても、ミサイルが車を追って斜めに進み、角のビルの壁にぶつかれば、コンクリート片の|嵐《あらし》を|喰《く》らってワンボックスはひっくり返るはずだ。  |一方通行《アクセラレータ》は死なないだろうが、とりあえず確実に足をなくす。後は傷を負ったその他二名ともども、|一方通行《アクセラレータ》をじっくり料理すれば良い。 (甘々だぜェ、|一方通行《アクセラレータ》! 車なンか使っちまったら、もう|繊細《せんさい》な風の操作は使えねェってのをアピールしてるようなモンじゃねェかよォ!!) 「あばよクソ野郎! その白い体ァ黒焦げにしてやらぁ!!」  ハイな笑みと共に引き金を絞ろうとする木原数多。  が、 「?」  スコープ型の照準が黄色一色に染まった。  縮尺のズレた何かが|遮《さえぎ》っているのだ、と思った|木原《きはら》がスコープから目を|離《はな》すと、わずか一〇メートル前後の位置に奇妙な女が立っていた。  冷たい雨粒が路面を|叩《たた》く。大きな通りには、|他《ほか》に自動車も歩行者もいない。ビルの窓から投げられた白々しい照明や信号機の光が|濡《ぬ》れた路面を照り返す中、その女はただ一人、ポツンと現れた。  今まで全く気づけなかった。  顔面に無数のピアスをつけているため、左右の対称が崩れている女だった。目元には強調するようなキツい化粧が|施《ほどこ》されている。他人からどう思われるかを全く考えていない顔つきだった。黄色を主体としたワンピースみたいなものを着ているが、どうにも古いというか、時代がかっている。まるで中世ヨーロッパの人間みたいだ。  が、木原にとって、そんな事はどうでも良い。  今重要なのは、この|馬鹿女《ばかおんな》に気を取られたせいで、ワンボックスが通りの角を曲がって消えてしまった事だ。 「……、」  木原の顔から、一気に表情が消えた。  ともすればポカンとしているようにも見える顔のまま、無造作に引き金を引く。  対戦車ミサイルが発射された。  噴射煙が一直線に走り、障害物となっていた女の胸のど真ん中にミサイルが突き刺さった。 彼女が顔色を変えたかどうかも分からない内に、砲弾は中から爆発し、|衝撃波《しようげきは》と爆炎を周囲に|撒《ま》き散らす。  ゴン!! というアスファルトを揺らす|轟音《ごうおん》が|炸裂《さくれつ》した。  幅広の路面に膜のように張っていた雨水がまとめて吹き飛ばされ、周囲のビルの看板がビリビリと|震《ふる》えた。街路樹からは大量の葉が叩き落とされて宙を舞う。  至近|距離《きより》で爆発したためか、木原の周囲にいた黒ずくめ|達《たち》が|煽《あお》りを受けて吹っ飛ばされる。  赤い炎と黒い煙が、|綿飴《わたあめ》のように木原の視界を遮っていた。  ただし。  時間にして、わずか五秒ほどだったが。  ビュオ!! という烈風が|全《すペ》てを吹き飛ばす。  炎も煙も、爆心地で巻き起こった新たな|嵐《あらし》によって跡形もなく消え去った。  焼け、砕け、飛び散ったアスファルトの中心点に、女は変わらぬ様子でそこにいた。  衣服も、髪の一本にも傷や焼けた|痕《あと》はない。 「良い街ね」  黄色い女は唐突に言った。  |木原数多《きはらあまた》など見ていなかった。 「もっと早く『侵食』が進むものだとばかり思っていたけど、そんなコトはなかった。構成員の大半が教員や生徒だってのは反則じゃない? そういうのが相手だと、私の侵食速度も遅れて当然、か」  もっとも、とあちこちにピアスを貫いた顔で女は木原を見て、 「……アンタらは例外的に真っ黒みたいだけど」  ここにきて、木原はようやく口を開く。 「何者だ」 「殺しの商売|敵《がたき》」  女はワンボックスが消えた曲がり角を振り返って、 「あの中には私のターゲットも含まれているってコトよ。別に|誰《だれ》が殺してもイイんだけど、横から取られるのは|性《しよう》に合わない」  付き合いきれん、とばかりに木原はため息をついて、 「殺せ」  指示を出した途端、周囲にいた黒ずくめの一班が一斉に銃を構えた。  が、 「やめとくコトね」  引き金は一度も引かれない。  その直前で、|呻《うめ》き声と共に男|達《たち》はバタバタと倒れていく。一切抵抗はなかった。むしろそちらの方が違和感を覚えてしまうような、あっさりしすぎる|攻撃《こうげき》だった。  雨に|濡《ぬ》れた路面はもちろん、中には|一方通行《アクセラレータ》に|破壊《はかい》されたワンボックスの|残骸《ざんがい》の上に直接倒れ込んだ者もいる。にも|拘《かかわ》らず、身じろぎ一つなかった。|完壁《かんぺき》に無力化されているのだ。  一体どんな現象が起きたのか。  |木原《きはら》は、ミサイルの砲身をコツコツと軽く|叩《たた》いた。  その場の|誰《だれ》も理解できなかったが、少なくとも女の方はその力を信用していたらしい。一歩間違えば|蜂《はち》の巣にされていたかもしれない状況でも、顔色が変わる様子はなかった。  女は退屈そうな顔で、 「にしても、顔色一つ変えずに『殺せ』ときたか。殺意はあっても敵意がない。[#「殺意はあっても敵意がない。」に傍点]敵を敵とも思っていないから、そもそも罪悪感すら抱いていない。雑草を引っこ抜くのと変わらないのかしら。最初の一発目といい今回といい、アンタ本当に性根が腐ってるわね。少なくとも、私と同じぐらいには」  木原は取り合わない、  自分の周りにいた黒ずくめの一人に向かって、億劫そうに手を振った、 「班を二つに分けろ」  弾を失った対戦車ミサイル砲を適当にその辺へ投げると、 「今いるメンバーの中から使えないヤツを順番に一〇人集めて足止めさせろ。その間に俺ともう一班は『|別荘《ほんぶ》』に移動する。分かったか?」  あまりにもザックリした命令だが、従わなければ体中に銃弾を浴びせられるのは目に見えている。それに、木原でなければ|一方通行《アクセラレータ》を|潰《つぶ》せないのもまた事実だ。  目の前の不審な女と木原|数多《あまた》と|一方通行《アクセラレータ》。  どれが一番『恐ろしくない相手』か判断すると、不気味ではあるがやはり目の前の女が一番難易度は低そうではある。  命令を出すだけ出して、木原はさっさとワンボックスに乗り込む。  その背中に女は声をかけた。 「アンタ、敵意がないのね」 「向けて欲しけりゃ、もうちょっと有能になる事だ」  木原はそれだけ言うと、運転手の後頭部を|殴《なぐ》ってワンボックスを発進させる。  後に残されたのは女と|囮《おとり》だけだ。 「……まぁ、そっちが何者かも知っときたいトコだけど、尋ねる前にくたばりそうよね。ったく、私は情報収集にゃ向いてないんだよ。|潰《つぶ》しすぎても面倒ってコトか」  女は首をコキコキ鳴らすと、舌を出した。  じゃらり、と口の中から|鎖《くさり》が落ちる。 「さて、と。随分ナメられたモンだけど、アンタらはお役に立てんのかしら」      4  |上条当麻《かみじようとうま》と|打ち止め《ラストオーダー》は立ち尽くしていた。  二人とも傘も差していない。黒い|詰襟《つめえり》の下に赤系のシャツを着ている上条も、青系のワンピースの上に男物のワイシャツを着ている|打ち止め《ラストオーダー》もずぶ|濡《ぬ》れだ。彼女のおでこにくっついている電子ゴーグルもびっしよりだったが、軍用なので案外問題はないのかもしれない。  小さな少女に案内されたのは、地下街の出入り口からさして|離《はな》れてもいない、大きな通りの一角だった。最終下校時刻と共に電車やバスもなくなったせいか、真っ暗になった道路に人影は一切ない。  少なくとも、二本の足で立って歩いている、普通の人影は。 「———、」  地面には複数の人間が倒れていた。  雨脚の強くなった夜空の下、|水溜《みずたま》りに体を沈めるように、黒一色で統一された男|達《たち》が転がっている。街灯の光を照り返しているのは合成素材の装甲服であり、|薄《うす》い水膜に浸されているのは|禍々《まがまが》しいサブマシンガンだった。ヘルメットや伸縮性の高いマスクで顔面を|覆《おお》ったその格好は、どう考えても一般人ではない|匂《にお》いを漂わせていた。  ぱちぱち、という音が聞こえる。  火の|爆《は》ぜる音だ。  男達が倒れている所からほんの数メートルの位置に、グシャグシャにひしゃげたワンボックスがある。それが|薪《まき》だった。自動車はガードレールを突き破って、歩道の真ん中に|停《と》まっている……と表現して良いのだろうか。飛び散っているという方が正しいのでは、と思ってしまうほど、ワンボックスは原型を失っている。辺りには、|他《ほか》に車はなかった。となると、あれは倒れている男達の車なのだろうか。  |打ち止め《ラストオーダー》は倒れている男の一人を指差した。  顔を真っ青にしたまま、彼女は言う。 「この人達に|襲《おそ》われたの、ってミサカはミサカは本当の事を言ってみる」  本当だよ? と彼女は繰り返した。  上条は改めて、倒れている男達に目を向ける。 (|警備員《アンチスキル》じゃ、ない?)  全身黒ずくめという|戦闘《せんとう》装備にごまかされそうだったが、よくよく観察してみると、普通の|警備員《アンチスキル》の装備とは規格が違う……気がする。もっとも、どこぞの軍事関係者ではあるまいし、パッと見ただけで型番まで分かるほど詳しい知識もないので断言はできないのだが。 (でも、|警備員《アンチスキル》じゃないとしたら、こいつら一体|誰《だれ》なんだ? 下手すると|警備員《アンチスキル》より高そうな装備を使って、複数で|襲《おそ》ってくるなんて……)  しかも、当の|襲撃者達《しゆうげきしやたち》の方がバタバタと倒れている。  状況が|掴《つか》めない。  |上条《かみじよう》は|打ち止め《ラストオーダー》の方を見て、 「ここで襲われてたのって、お前の知り合いなんだろ?」 「そうだよ、ってミサカはミサカは答えてみたり」 「これって、そいつが返り討ちにしたって事なのか……?」 「それはないかも、ってミサカはミサカは首を横に振ってみる。あの人は気が短くてケンカっ早いから、あれだけやられたのに仕返しがこれっぽっちだなんて考えられないもん、ってミサカはミサカは簡単に推測してみたり」  一体どんなヤツなんだそいつは、と上条は心の中でツッコミを入れる。  しかし、 「……、」  能力者は無敵ではない。  |打ち止め《ラストオーダー》の知り合いがどんな能力を使うか知らないが、|超能力者《レペル5》の|超電磁砲《レールガン》などというイレギュラーでない限り、訓練された集団に銃器で襲われたら、返り討ちにはできないだろう。 |無能力者《レペル0》の上条に言えた義理ではないが、能力者というのは基本的に学生なのだ。その力も『学校の中では通用する』程度のものだと思って差し支えない。  こんな戦場にポンと投げ出されても、何もできない。機転を|利《き》かせれば……というのも、そもそも『機転を利かせる』だけの心の余裕がなければどうにもならない。そんな風に覚悟を決めて戦うなど、ただの学生にはできないだろう。  普通なら死ぬ。 (とにかく通報しないと……)  |打ち止め《ラストオーダー》の知り合いが捕まったのか逃げている最中なのかは判然としないが、いずれにしても急を要する事態なのは変わりない。ここは素直に|警備員《アンチスキル》に協力を仰いだ方が良さそうだ、と上条はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。  が。 「……?」  しかし、ボタンを押す直前で、上条は携帯電話から顔を上げた。 (……何で……|誰《だれ》も通報してないんだ……?)  目の前を見る。グシャグシャにひしゃげたワンボックス。発火から少し時間は|経《た》っているようだが、それでも大きな光が衰えない炎。これだけの事が起きれば、誰の耳にも届ずだ。遠くから見たって火事が発生しているのは分かるだろう。|上条《かみじよう》が携帯電話を使うまでもなく、すでに誰かが通報しているのが普通だと思うし、|野次馬《やじうま》だって集まっていない。 「……、」  上条は周囲を見回す。  明かりの消えた街。|騒《さわ》ぎの起きない、|徹底《てつてい》して静寂に包まれた景色。  もしも。  騒がないのではなく、騒げないのだとしたら。  建物の中では、あの|警備員達《アンチスキルたち》のようにたくさんの人間が倒れているとしたら。 (何が……)  人為的な|攻撃《こうげき》なのか、意図のない現象なのか。  それすらも明らかにされない、|完壁《かんぺき》なまでに自己主張のない非常事態。 一番怖いのは、その静けさではない。 上条が問題に気づいた時には、すでにシロアリが木の柱を食い|潰《つぶ》すように学園都》っているようだが、それでも大きな光が衰えない炎。これだけの事が起きれば、誰の耳にも届いているはずだ。遠くから見たって火事が発生しているのは分かるだろう。|上条《かみじよう》が携帯電話を使うまでもなく、すでに誰かが通報しているのが普通だと思うし、|野次馬《やじうま》だって集まっていないとおかしい。 「……、」  上条は周囲を見回す。  明かりの消えた街。|騒《さわ》ぎの起きない、|徹底《てつてい》して静寂に包まれた景色。  もしも。  騒がないのではなく、騒げないのだとしたら。  建物の中では、あの|警備員達《アンチスキルたち》のようにたくさんの人間が倒れているとしたら。 (何が……)  人為的な|攻撃《こうげき》なのか、意図のない現象なのか。  それすらも明らかにされない、|完壁《かんぺき》なまでに自己主張のない非常事態。  一番怖いのは、その静けさではない。  上条が問題に気づいた時には、すでにシロアリが木の柱を食い|潰《つぶ》すように学園都市の機能が停止に追い込まれつつあったという事実だ。  それは期末試験の最中に居眠りしてしまって、『あと一〇分』という試験官の声で目を覚ました状況にも近い。  |白紙《ちんもく》の|答案《まち》を前に、少年の全身から脂汗が噴き出る。 (この街では今、何が起きてんだ?)  そこで、身動きの取れない上条の視界に、動きがあった。  |打ち止め《ラストオーダー》は倒れた男達の|側《そば》に|屈《かが》み込んで、装備品をいじくっていた。その彼女が、突然何かに気づいたように顔をあげると、慌てて上条のいる方へ走ってきたのだ。  と、彼女は雨水で冷たく|濡《ぬれ》た手で彼の手を|掴《つか》むと、ぐいぐいと引っ張り始めた。まるでデパートのオモチャ売り場へ親を連れて行こうとするようにも見えるが、 「早く、ってミサカはミサカは警戒を促してみる」  それにしては、異様に切迫した声だった。 「ヤツらがきた、ってミサカはミサカは路地裏へ体を隠しながら報告してみたり!」  |打ち止め《ラストオーダー》に引っ張られるまま、上条はすぐ近くに|停《と》めてあった路上駐車の自動車の陰に隠れた。『ヤツら?』と|眉《まゆ》をひそめながら。  この辺りの排水溝が落ち葉などで詰まっているのか、車の周囲は池みたいに巨大な|水溜《みずたま》りができていた。一歩|踏《ふ》み込んだだけで、靴下まで水分が|染《し》み込んでいく。  しかし文句を言っている暇はなかった。  ガロロロ、と低いエンジン音が|響《ひび》いてきたからだ。  やってきたのは、ヘッドライトを|点《つ》けていない、奇妙な黒いワンボックスだった。  忍び足みたいに低い排気音を出しながら、車は黒ずくめの男|達《たち》が倒れている場所で停車した。後部のスライドドアが開き、そこから全く同じ装備の人間がぞろぞろと出てくる。ザッと見ただけで一〇人近く。仮に相手が素手だったとしても、絶対に勝てない数だ。  その上、 「……くそ。あんだけの銃をどこから手に入れて来るんだ」  思わず|呻《うめ》いた。  黒ずくめの男達は、全員|揃《そろ》えたように同じサブマシンガンを|肩紐《かたひも》で掛けていた。おそらく|他《ほか》にも|拳銃《けんじゆう》やら|手榴弾《しゆりゆうだん》やらで身を固めている事だろう。  学園都市の治安を守る|警備員《アンチスキル》には見えない。  友好的にも見えない。  むしろ|上条《かみじよう》達がこうしている事を発見すれば、即座に銃弾を|撃《う》ち込んできそうな|緊張感《きんちようかん》がここまで伝わってくる。  彼は自分の右手に視線を投げる。  そこに宿る|幻想殺し《イマジンブレイカー》は、|超能力《レペル5》の|超電磁砲《レールガン》すら軽々と受け止められる。が、一方で異能の力が一切|絡《から》まない銃弾には何の効力もない。  黒ずくめ達は路上に倒れている(おそらく)|同僚《どうりよう》を|担《かつ》ぐと、乱暴にワンボックスの中へ放り込んでいく。そういった作業の|傍《かたわ》らで、別の動きをする人間がいた。ファミリーサイズのペットボトルを三本ぐらい縦に|繋《つな》げた程度の、透明の円筒容器を背中に担いだ男だ。容器の|尻《しり》にはノズルが取り付けてあり、男は火炎放射器を構えるようにそれを|掴《つか》んでいる。 「アシッドだよ、ってミサカはミサカは通称を呼んでみる」 「何だそれ?」 「|酸性浄化《アシツドスプレー》……特殊な弱い酸をばら|撒《ま》いて、指紋とか|血痕《けつこん》のDNA情報とかを|潰《つぶ》していくの、ってミサカはミサカは証拠隠滅マニュアルから情報を引き出してみたり」 「……、」  まずいな、と上条は思う。  あの集団はそこまで大掛かり練穣備を用意してでも、証拠を隠滅する必要を感じているようだ。そういう連中が万が一にも目撃者などを発見すれば、どのような行動に出るかは想像するまてもない。  結論としては、 (———そんな事態になったら、逃げ切れる自信が全くない)  ごくり、と|喉《のど》が鳴る。  ちゃぷ、という水音が。耳についた。 「———、」  上条は自分の足元に目をやる。  排水溝が詰まっているのか、池のような|水溜《みずたま》りがあった。そして、そこに浸る自分の足が小刻みに|震《ふる》えている。その震えが、水面に小さな波紋を作っていた。盾にしている車の下をくぐって、その向こう側にまで。  しかし、これぐらいで気づかれるはずがない。  降り注ぐ雨粒だって水溜りを|叩《たた》いている。この暗さなら目を|凝《こ》らしても水溜りの様子など観察できない。だから|大丈夫《だいじようぶ》だ、と上条は祈るように考えていたが、  グルリ、と。  少し|離《はな》れた所にいる黒ずくめ達が、一斉にこちらを見た。      5  あれから一〇分ほど走った。  車で一〇分、と言えば『そこそこ』の|距離《きより》だと|一方通行《アクセラレータ》は思う。しかし、逆に言えば『そこそこ』程度でしかない。可能性は低いが、連中が大っぴらに衛星などを使ってこちらの逃走ルートを追跡していれば、あっという間に追いつかれるぐらいのものだ。  運転席のシート越しに|一方通行《アクセラレータ》に背中を刺されている男は、ガタガタと震えながら、|掠《かす》れるように小さな声でこう言ってきた。 「(……ま、まだ走るのかよ。はは、冗談じゃねえ。このままじゃ本当に死んじま———)」 「(……|黙《だま》れ。|俺《おれ》が|停《と》まれっつーまで停まる訳ねェだろ)」  ささやき返すと、|一方通行《アクセラレータ》は運転席を貫通している鋼鉄の凶器を軽く動かした。ビグン!! と男の体が大きく震えて、|呻《うめ》き声が車内に|響《ひび》く。  それを聞いたインデックスが、わずかに顔を上げた。 「どうしたの?」 「何でもねェよ。なァ?」  |一方通行《アクセラレータ》は前方の運転席のシートに体を頂けるようにして、インデックスから凶器を握っている事は隠している。  運転席の男は脂汗をだらだら流したまま、こくこくと|頷《うなず》いた。インデックスは|眉《まゆ》をひそめていたが、今の状況には気づかなかったようだ。 「しっかし……」  |一方通行《アクセラレータ》は思わず声を出した。  後部ドアのない、いかにも盗難車ですゴメンナサイみたいな不審ワンボックスが街を走っていれば|警備員《アンチスキル》にぶつかるかと思ったのだが、どうもそういった気配が全くない。あわよくば|黄泉川《よみかわ》とコンタクトを取る手間が省けるかも、と|踏《ふ》んでいた|一方通行《アクセラレータ》としては何だか拍子抜けだ。 (まさか、この静けさも[#「この静けさも」に傍点]|木原《もきはら》のクソ野郎が手間暇かけた演出の一つってェワケじゃねェだろォな……)  今、|一方通行《アクセラレータ》はチョーカー型の電極を通常モードに戻している。  これは単純に節約のためだ。元々バッテリーは能力使用モード下では一五分と|保《も》たない。木原との|戦闘《せんとう》で随分と削ってしまったし、それ以前にも|普段《ふだん》の生活で少しずつ消費していた。  バッテリーの残量を考えると、フル戦闘はあと七分もできない。  当然、今は最低限の『反射』も使っていない。木原|達《たち》と戦うためには、節約が必要だった。しかし現在、例えば|一方通行《アクセラレータ》が|襲撃《しゆうげき》に気づく前に、いきなりこのワンボックスにミサイルでも|撃《う》ち込まれたらそれでアウトである。  そういう事情があるからこそ、|一方通行《アクセラレータ》はドアの消えた出入り口から、流れるような夜の街並みに目をやっている訳だが、 「あっ、『|醜《みにく》いアヒルの子』発見!」  すぐ|隣《となり》では、何だか世界観が合致しない真っ白なシスターが、盗難車の後部座席をゴソゴソ|漁《あさ》っている。  おそらくこの車の本来の持ち主が子持ちなのだろう、硬い厚紙で作られた幼児向けの絵本をインデックスは引っ張り出していた。彼女の|膝《ひざ》に乗っている|三毛猫《みけねこ》は、表紙に描いてあるデフォルメされたアヒルに狩猟本能を刺激されるのか、何やらジリジリと|距離《きより》を測り始めている。 (何だよこの本好き。目の|輝《かがや》き方がハンパじゃねェぞ……) 「|呑気《のんき》なヤツ。っつか、オマェは何であンなトコにいやがったンだ」 「ん?借りてた物を返しに来たんだよ」  インデックスは修道服の|袖《そで》の中にごそごそと手を突っ込むと、 「ほらこの最新鋭日用品! こんな大事な物を預けっ放しにしちゃ|駄目《だめ》なんだよ! 困ってたでしよ、でもこれでもう|大丈夫《だいじようぶ》なんだから!!」 「|馬鹿《ばか》じゃねェのかオマエは!? こンな使い捨てでなおかつグシャグシャに丸まったポケットティッシュなンざ返してもらっても迷惑だ闘�」  え、そうなの? とインデックスはビニール袋に包まれていたポケットティッシュを、小さな手で|真《ま》っ|直《す》ぐに伸ばし直し始めた。  これはもう受け取るまで終わらないようだ、と|一方通行《アクセラレータ》はうんざりした顔でインデックスの手からポケットティッシュを奪い取った。適当な仕草でズボンのポケットにねじ込む。 「そういえば、|怪我《けが》は|大丈夫《だいじようぶ》なの?」 「あン?」 「だって、ほら。さっき倒れ———」 「何でもねェよ。あと、その話題をもう一度出したら、まァた暴れるかもなァ」  運転手がガタガタと|震《ふる》え始めている事に、インデックスは全く気づいていない。  |一方通行《アクセラレータ》の減らず口を聞いて、とりあえずは安心したのか、インデックスは手元にあった絵本へ目を移す。 「ふんふん。日本語だとこういう訳し方なんだね」  インデックスは童話の内容を知っているのか、パラパラと高速でページをめくっていき、最後のページだけを声に出して読んだ。 「ダメ子ダメ子と|罵《ののし》られていた|醜《みにく》いアヒルは、実は超エロカッコイイ白鳥さんだったのでした。おしまーい。……エロカッコイイってなに?」 「オマエの正反対に位置する生き物だ」 「ふうん」  インデックスはパタンと絵本を閉じると、 「……結局、生まれた時から白鳥の勝ちは決まっていたよって話だったね」 「『醜いアヒルの子』はそォいう話じゃねェよ」 「じゃあどんな話なの? 童話は解釈の仕方が多数分岐してて解読が難しいかも」 「はァ? つか、何だっけか。確かあのガキが言うには『アヒルさん|達《たち》と仲良くなりたかった白鳥は、自分が絶対に彼らの輪には加われない事実を突きつけられて本当に幸せだったのかな』だっけ」  チッ、と|一方通行《アクセラレータ》は|吐《は》き捨てた。  ガキというのは時々こういう|可愛《かわい》げのない意見を言うから手に負えない。  運転席の方からまた|鬱陶《うつとう》しい|呻《うめ》き声が聞こえてきたので、適当に座席シートに突き刺してある鋼鉄の凶器を前後に揺らして|黙《だま》らせる。  やはりインデックスは気づいていないらしい。  絵本から顔を上げて、インデックスはこう尋ねてきたのだ。 「あのガキっていうのは、あなたが捜していた迷子の人の事?」 「そォだよ。だが、正しくは今も捜してるって状態だがなァ」 「またはぐれちゃったの?」 「……、あァ。そォだ」  少し間を空けてから、|一方通行《アクセラレータ》は肯定した。 「|俺《おれ》はこれからあのガキを捜さなくちゃならねェ。手のかかる事に、アイツは自分の足で家まで戻って来れねェみてェだしな。だから、オマエとはここでお別れだ」 「私も捜すよ?」  インデックスは即座に返答した。  |一方通行《アクセラレータ》の赤い|瞳《ひとみ》から、|一瞬《いつしゆん》たりとも目を|逸《そ》らさないで。 「だって、あなたが困ってるの分かるもん。ここにいるのがとうまだったら、おんなじ事を言ってると思うし」 「ふン」  彼はつまらなそうに視線を外すと、運転手の男に声をかけた。 「この辺りで|停《と》めろ」  文字通り命を握っている|一方通行《アクセラレータ》の指示を受けて、男は路肩に車を停めた。  |一方通行《アクセラレータ》はインデックスを見る。 「協力しろ」 「うん。何をしたら良い?」 「この近くにデカい病院がある。徒歩五分から一〇分って所だな。そこに行って、いかにもカエルに良く似た顔の医者を見つけて来い。医者に会ったら……」  |一方通行《アクセラレータ》はそこで言葉を切り、自分の首筋をトントンと|叩《たた》いて、 「ミサカネットワーク接続用電極のバッテリーを用意しろと伝えろ。それで通じる。バッテリーってなァ大事なモンだ。ソイツがねェと人捜しができねェ。だからバッテリーを受け取ったら、オマエはダッシュでここに戻って来い。分かったな」 「分かった。�ミサカネットワーク接続用電極のバッテリー�だね」  |完壁《かんぺき》に復唱された。  もちろん自分の口で言ったミサカネットワークだの接続用電極だのの意味は分かっていないだろうが、意外に頭の回転は早いのかもな、と|一方通行《アクセラレータ》が思う間もなく、インデックスは|三毛猫《みけねこ》を抱えると雨の道路へ|躊躇《ちゆうちよ》なく出て行った。 「待っててね」 「あァ?」 「私が戻ってくるまで、ちゃんと待ってなきゃやだよ?」 「……、分かってる。良いからさっさと行け」  |一方通行《アクセラレータ》は答える。  インデックスは二回、三回とこちらを振り返ったが、やがてパシャパシャと|水溜《みずたま》りを|踏《ふ》みながら走って行った。その小さな背中が、|闇《やみ》の奥へと消えていく。 「クソッたれが」  思わず|吐《は》き捨てて、彼は座席の背もたれに体を預けた。  病院に替えなどない。電極自体が試作品なのだ。それに対応したバッテリーも特殊なもので、量産化などされていない。もしそうなら、|一方通行《アクセラレータ》は最初から大量のバッテリーをポケットにでも突っ込んでいる。  簡単な|嘘《うそ》だった。  カエル顔の医者の所へ行けという部分以外は、|全《すベ》て。  どこへ行っても危険なのは変わりないが、一番まずいのはあのシスターが一人になってしまう事だ。少しでも生存率を上げたいなら、人の多い場所へやった方が良い。あのカエル顔の医者の所ではかなり不安だが、何もしないよりはマシだろう。  これから始まるのは、簡単に言えば|木原数多《ほはらあまた》や『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』との、|打ち止め《ラストオーダー》争奪戦だ。ただでさえフル|戦闘《せんとう》では七分間も|保《も》たないほど戦力が不足している中、あれだけの敵を相手に、インデックスというお荷物を背負ったまま戦うなど|馬鹿《ばか》げている。だから彼女はあそこで切った。 |邪魔者《じやぽもの》は、邪魔にならない場所へと戻した。  それだけだ。  それだけで良い。 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》は|薄《うす》く息を|吐《は》いて思考を切り替える。 「車ァ出せ」 「ま……まだ解放してくんねえのかよ———ぁがっ!?」 「死ぬか生きるか、オマエが選べよ」  後部座席に突き刺さった鋼鉄の凶器を軽く揺すると、自動車は静かに発進した。  |一方通行《アクセラレータ》はさらに五分ほど走らせると、小さな公園の前で|停《と》まらせた。  ここは第七学区の端らしい。  すぐそこに、|隣《となり》の第五学区への交通表示板が立っている。  彼は後部座席の足元に転がっていた大きなバッグを|掴《つか》み、自分の横の座席へと置いた。おそらくは『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》」の装備品の予備だろう。合成革の死体袋みたいなバッグは、一メートル以上もの長さがある。  ファスナーを開けて中を|覗《のぞ》くと、殺人兵器がゴロゴロ入っていた。  |掌《てのひら》に収まるほど小さな|拳銃《けんじゆう》、百科事典のケースに隠れてしまいそうなサブマシンガン、そしてモップのような長さを誇っているのは、室内制圧用のショットガンか。|他《ほか》にも粘土みたいな爆薬とか信管とか、無線機やら顔を|覆《おお》うマスクやらがパンパンに詰め込まれていた。  とりあえず真っ先に、彼が求めているのは、 (|杖《つえ》の代わり、だな)  いつも使っているト字型の杖は、木原と|一緒《いつしよ》に暴れた時にすっぽ抜けていた。能力使用モード時以外では、体を支える|杖《つえ》が必要になる。どう動くにしても、まずはそれが必要だった。  |一方通行《アクセラレータ》はザッとバッグの中身を見回して、 「やっぱこのショットガンだなァ」  その中から適当に一丁を引き抜いた。  黒光りする金属で作られた、セミオート式のショットガンだ。銃口下面から引き金の一〇センチ手前までの部分が|全《すベ》て横倒しのマガジンとなっているらしい。三〇発ぐらい入っていそうだ。どこかのサブマシンガンでも同じような構造の装弾方式を採用していたと思う。  ショットガンは本体だけで一メートル近い長さを持ち、さらに後部のストックは好みに合わせて伸縮できるように作られている。上部にはスコープのようなものが付けられていたが、|覗《のぞ》いてみると倍率に変化はなく、スイッチを入れると中心に赤い光点が見えた。どうやらダットサイトらしい。好みにもよるが、普通の照準より正確に狙いをつけるためのものだったと思う。 (派手に弾ァばら|撒《ま》くショットガンに、この手の精密照準器って意味あンのか?)  |一方通行《アクセラレータ》は|呆《あき》れたようにダットサイトを|叩《たた》いたが、そちらは問題ではない。  ショットガンのグリップを|掴《つか》み、ストックを|脇《わき》で挟むようにすれば、かろうじて|松葉杖《まつばづえ》に見えなくもない。 (体重で銃身が曲がっちまうかもしンねェが、まァコイツは|撃《う》つためのモンじゃねェ。あくまで歩く補助になりゃアそれで良い)  などと考えていた|一方通行《アクセラレータ》の耳に、運転席から声がかかった。 「|無駄《むだ》だ……」  |掠《かす》れた声だった。  まるで何日間も水を飲んでいないほどに、男の体力は干上がっていた。 「……あの人にじかに会ったなら、分かるだろ。|木原《きはら》さんは、『絶対』だ。平和ボケしてヤキが回ったお前の付け焼刃でどうこうできる相手じゃねえ」 「———オマエ、弾いて欲しいのか[#「弾いて欲しいのか」に傍点]?」 「そ、それも良いかもな」  男の声は、|一方通行《アクセラレータ》の予想に反したものだった。 「死にたくはない。け、けどな、|俺《おれ》は木原さんの怖さも知ってんだ。知らなきゃ良かったよ。 お、俺は、もう、次の朝日を見る事はできねえ。あの人には、|容赦《ようしや》がない。加減じゃなくて容赦がない。俺は助からない。下手すると、こっ、殺してもらえないかもしれない[#「殺してもらえないかもしれない」に傍点]。き、木原さんは、ギネス記録を更新するとか、世界の三大事件を四大事件に増やしちまうとか、そ、そういう事を平気でやってのける人なんだよ……」 「ごッちゃごちゃ、やかましい野郎だなァ」  |一方通行《アクセラレータ》は|吐《は》き捨てるような声で|遮《さえぎ》った。  運転席を貫いている鋼鉄の凶器を五本の指で握り|締《し》めて、 「っつーか面倒臭ェ。殺す、なんて|曖昧《あいまい》な事ァ言わねェわ。コイツかき回して内臓メチャクチャにすンぞコラ! 口から血の塊と今日の昼飯を噴き出せェクソ野郎がァ!!」 「ひっ、ひぃいいッ!!」  耳元で大声を出しただけで、男の虚勢は|容易《たやす》く破られた。 『死』を実感していないヤツの寝言など、この程度の価値しかない。  運転手は眼球をグラグラ揺らしながら叫ぶ。 「くそ、ちくしょう!! いい加減にしろ! ここで死ぬのは嫌だ!! テメェらは二人とも|揃《そろ》って化け物だ! もう|関《かか》わりたくもねえ!! |俺《おれ》は家に帰ってシャワー浴びて酒でも飲みながら撮り|溜《だ》めした番組に目を通すんだ!」  そこに残されていたのは|醜《みにく》い希望だけだった。  自分の立場も|弁《わきま》えず、大物同士のいさかいに首を突っ込むとこういう事になる。  ガタガタと|震《ふる》える『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の男に、運転席のシートを挟んで後ろにいる|一方通行《アクセラレータ》が静かに声を投げかける。 「死ぬのは嫌か」 「あ、ああ」 「このまま生きてェか」 「ああ!! だから何だっつーんだよおおおおッ!! 俺だって生きてえよ! 死んだ方が良いなんて生き方じゃねえ! ちゃんと大手を振って生きてみてえよ!!|馬鹿《ばか》じゃねえのか!? 一番馬鹿なのは俺じゃねえのか!? なに語ってんだよ、できる訳ねえだろそんなの!!」  この男は|土壇場《どたんば》まで追い詰められているのだろう。  そうでもなければ、ここまで|飛躍《ひやく》した話は出てこない。 「よォーっく分かってンじゃねェか」  |一方通行《アクセラレータ》は、口元を引き裂くような笑みを浮かべた。  ルームミラーでそれを確認した運転席の男が、ひっ、と空気を|呑《の》み込む。 「今のオマエに救いの道が残されてると思ってンのか。こンな世界に生きて、さンざン人ォ|踏《ふ》みつけにして、おまけに|木原《きはら》のクソ野郎やこの俺を敵に回して、まだ幸せに生きてみたいだと? ふざけた事言ってンじゃねェよボケ」 「ぅ、うああ……」 「クズ野郎。オマエは今まで何人殺してきた?」 「……じ、一四人」  絞り出すような声だった。  しかし、それを聞いた|一方通行《アクセラレータ》は、思わず拍子抜けしてしまいそうになる。  何だ、その程度か。  そんなものなら、全然自分よりも平和な人間ではないか。  それを『平和な人間』と思っている自分の方が、よほど怪物ではないか。 「選べよ。ここで出血多量で死ぬか、|木原数多《きはらあまた》の手で爆笑必至の死体になるか」 「い、嫌だ。|俺《おれ》は死にたくない。俺だって死にたくない」 「はン。なら病院だな」  |超能力者《レペル5》は笑いながら続けた。 「オマエは死ねねェよ。簡単には死ねない。そンな|真似《まね》は俺が許さねェ。一〇〇回殺しても飽き足らねェクソ野郎を、こンなあっさり解放するとでも思ってンのか。苦しみを引き延ばしてやる。永遠に救いのねェ道を、この俺のストレスを解消するためだけに生き続けろヨ」 「ちくしょう……」  手当てを受けろと言われているのに、男は奥歯を|噛《か》み|締《し》めて|呟《つぶや》いた。 「殺される。木原さんは地球の裏側まで俺を追ってくる。絶対に助からない……」 「俺の知り合いのクソ医者は、アレでも一応自分の患者を見捨てるよォな人間じゃねェらしい。 涙が出る話だな?ま、一日ぐれエなら生きられンじゃねェのか」 「な、何の保障にもなってねえ」 「そーかァ。その間に木原の心臓が|扶《えぐ》り出されてるかもしンねェぞ」  男はしばらく| 男はしばらく|黙《だま》った。もしも本当に|一方通行《アクセラレータ》に木原がやられたら、自分は助かるかもしれないとでも考えたのだろう。  それから言った。 「どうせ木原さんには|敵《かな》わない」 「だろォな、俺はともかくオマエじゃ無理だ」  ショットガンの|他《ほか》に使える物がないか、死体袋のような合成革のバッグをごそごそと|漁《あさ》っている|一方通行《アクセラレータ》は、そこである機材を見つけた。  形はサイレンサーを取り付けた|拳銃《けんじゆう》のように見えるが、先端についているのはマイクのような、スポンジ状のセンサーが取り付けられている。そして、グリップより少し上の辺り拳銃で言うならハンマーのある部分に、三インチぐらいの小型液晶モニタがついていた。 「……そりゃあ、|嗅覚《きゆうかく》センサーだ」  ルームミラーで確認したのか、『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の男はそう答えた。 「香水や消臭剤の企業が使ってるヤツを、軍事に転用した……」 「よォは、警察犬の機械化か」  犬よりは利口だろう。五感情報をデータ化できるなら、複数混じった|匂《にお》いの中から必要なものだけを取り出したり、メモリに登録したりもできる訳だ。  匂いとはいくつかの種類に分類され、各ジャンルはそれぞれ似たような分子構造を持つ。おそらくその辺りからもアプローチしているはずだ。 「俺|達《たち》は、いつもそいつを使って標的の足跡を追う。迅速かつ確実にな。木原さんに|睨《にら》まれて逃げ切れたヤツを、|俺《おれ》は→度も見た事がねえ……」 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》は、つまらなそうな顔になった。 『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』を|叩《たた》き|潰《つぶ》すのに異存はないが、常に『相手から|奇襲《きしゆう》される』というパターンは好ましくない。こちらから『相手に奇襲する』構図を作った方が良い。 「車を使っても|無駄《むだ》だ。タイヤの|匂《にお》いを追って、このワンボックスを見つけて、そこからお前の匂いを追えば終わりだ。俺|達《たち》は、その背中を突き刺すまで標的を|狙《ねら》い続ける。こっちだってすぐ発見されちまうよ」  |一方通行《アクセラレータ》は男の声を聞きながら、|嗅覚《きゆうかく》センサーを|弄《いじ》り回した。 「コイツの使い方は? あのガキを捜すのに役立つかもしンねェ」 「……無理だ」  男はわずかに笑った。青白い、乾いた笑みだった。 「『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は、嗅覚センサーを打ち消す洗浄剤を持ってる。匂いの分子構造そのものに干渉するヤツだ。|襲撃《しゆうげき》地点でそいつを使っても何も|掴《つか》めねえ……」  男の話によると、洗浄剤にはメンバーの衣服にかけるものと、後から現場に散布するものの二種類があるようだ。 「オマエはその洗浄剤を持ってンのか」 「あればとっくに使ってる。所属が違う。足跡を追う係と足跡を消す係は分業だ……」  チッ、と|一方通行《アクセラレータ》は舌打ちした。  だが、嗅覚センサーをごまかせる物質が存在する、という事が分かっただけでも収穫だ。  嗅覚センサーをその辺に投げると、|一方通行《アクセラレータ》は言った。 「……聞きてェ事はもオねェな。オマエ、そこを動くンじゃねェぞ」 「ひっ?こ  もぞり、と後部座席で|蠢《うごめ》く|雰囲気《ふんいき》を感じて、運転席の男が引きつった声を出した。  やはり殺される。  そう思った男だが、予想に反して|一方通行《アクセラレータ》はドアのない出入り口の方へ動いていた。外へ出ようとしているのだ。 「どっ、どこへ行くんだ?」 「あン? |木原《きはら》を潰してガキを助けにだよ」  |億劫《おつくう》そうな返事に、男は|唖然《あぜん》とした。 「何で、 |諦《あきら》めないんだよ。どこまで逃げたって、木原さんは笑顔で潰しに来る。|戦闘《せんとう》準備なんてやってる暇もねえ。主導権は全部向こうに握られてる。それでもやるのかよ」 「当たり前だ」 「……そこで即答できる根拠は何だよ。こんな世界に浸ってんだ、自分がどれだけ分の悪い状況にいるかぐらい分かってんだろ」 「知るかよ」  |一方通行《アクセラレータ》は|吐《は》き捨てた。  カエル顔の医者に連絡するため、ドアのなくなった後部座席の出入り口に手をかけて、 「平和ボケしてヤキでも回ったンだろ」      6  判断は|一瞬《いつしゆん》だった。  隠れても|無駄《むだ》だと思った|上条《かみじよう》は、|打ち止め《ラストオーダー》の小さな体を抱えるように持ち上げると、上半身を|屈《かが》めるような格好で車の陰から飛び出した。  自動車は歩道|脇《わき》に違法駐車してあった。  一番近い路地の入口までは、およそ五メートル程度しかない。  だが[#「だが」に傍点]、  ボッ!! と。  鉄パイプで|薄絹《うすぎぬ》を突き破るような|破壊音《はかいおん》が|響《ひび》いた。  複数のサブマシンガンが即座に火を噴く。  一秒間に何発放っているかも分からないような高速連射だ。今まで盾にしていた自動車のガラスが砕け、ボンネットが|踏《ふ》み|潰《つぶ》されたようにたわみ、鉄板のドアに無数の風穴が空いてボロリと落ちた。座席シートが|弾《はじ》け、車内が綿だらけになっている。  破壊は|一瞬《いつしゆん》で起こり、それら|全《すべ》ての音が重なって一つの|炸裂音《さくれつおん》となる。  それでも上条は路地の入口へ向かう。  弾丸の尾が上条の逃走ルートを追い駆ける。  寸前で、ちようど目の前の、顔の高さにあるコンクリート壁に弾丸が飛んだ。進行方向に一発|撃《う》って、上条が|怯《ひる》んで足を止めた所で|蜂《はち》の巣にするつもりだったのだろう。思わず反射的に首がすくむが、かろうじて体は動いてくれた。砕けた小さなコンクリート片が、上条の髪を |掠《かす》めていく。  ほとんど転ぶような格好で、|濡《ぬ》れた地面に突っ伏すように路地裏へと飛び込んだ。 「生きてるか、|打ち止め《ラストオーダー》!」  上条が尋ねると、腕の中にいる小さな少女は無言で何度か|頷《うなず》いた。  ガチャガチャという金属を撚るような音が聞こえてくる。黒ずくめ|達《たち》の装備がぶつかる音だ。上条は舌打ちすると、|打ち止め《ラストオーダー》の体を抱え直し、路地裏の奥へと走り出した。  隠れる場所が欲しい。  右手に宿る|幻想殺し《イマジンブレイカー》では、あまりに相性が悪すぎる。|魔術《まじゆつ》だの超能力だのという、トリッキーでイレギュラーな相手なら活路はあるが、連中の銃器にはそういった付け入る|隙《すき》が全くない。下手に|殴《なぐ》りかかっても、ズタズタのボロ|布《きれ》みたいにされるのがオチだ。 「|打ち止め《ラストオーダー》、|妹達《シスターズ》を束ねてるって事は、お前も電気の力って操れるのか?」 「うん、|強能力《レペル3》程度のものしか使えないけど、ってミサカはミサカは答えてみたり」 「じゃあ電子ロックは外せるか。どっかの裏口から建物の中に入りたい。多分、この路地はそれほど長くないからな。そっちの出口で待ち伏せされてる可能性もある」  分かった、という返事があった。  |上条《かみじよう》は路地裏にある、手近なドアの前で立ち止まり、|打ち止め《ラストオーダー》を|傍《かたわ》らに下ろす。 「んっ」  |打ち止め《ラストオーダー》はワイシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出すと、電源を切った。どうも電気系の能力を使う時、集中の|邪魔《じゃま》になるようだ。彼女はその小さな|掌《てのひら》を、ドアの横に取り付けられたカードスリットに向けて、目を閉じる。  ガチャガチャガチャ、という黒ずくめ|達《たち》の金属音が聞こえる。  遠いのか近いのか、|距離感《きよりかん》は|掴《つか》めなかった。路地は直線的ではなく折れ曲がっていたため、いきなり出入り口から掃射される事はなかったが、それにしてもいつ追い着かれるか分からない状況で、じっと何かを待ち続けるのは想像以上にプレッシャーを与えてくる。 (まだか……?)  上条は|暗闇《くらやみ》の中で、重なるような足音だけに耳を傾けながら、待つ。 (くそ、まだなのか)  |打ち止め《ラストオーダー》に変化はない。  まさか|幻想殺し《イマジンブレイカー》のせいで変な|影響《えいきよう》が出てるんじゃないだろうな、と上条が心配になってきた所で、 「きた! ってミサカはミサカは目を開けてみたり!」  ピーッ、という高い音階の電子音が鳴った。  上条は鉄の扉のノブに手をかけ、回す。  |鍵《かぎ》は外れていた。そのまま|打ち止め《ラストオーダー》を抱えて建物の中へと|踏《ふ》み込む。  室内に光はなかった。  どうやらファミレスの|厨房《ちゆうぼう》のようだった。火を扱う場所だから、非常口でも用意してあったのだろう。まだ営業時間だと思うのだが、明かりが落ちているのが少し不気味ではある。非常口を示す緑色のランプが、ぼんやりと調理器具のシルエットだけを浮かばせている。 「これからどうするの? ってミサカはミサカは尋ねてみる」 「そうだな」  |上条《かみじよう》は、|打ち止め《ラストオーダー》を床に下ろすと、とりあえず目の前の扉へ向かう。とにかく光のある場所へ、人のいる場所へ行きたい。 「連中は車を持ってる。おそらく足で走っても追い着かれちまう。この時間じゃ電車やバスもないし、素人のタクシーを捕まえても逃げ切れないと思う」  |打ち止め《ラストオーダー》が不安そうな目でこちらを見上げてきた。  全部投げ出したくなるが、そういった|醜態《しゆうたい》は見せられないな、と上条は思った。 「とにかく人の多い所へ行こう。連中は|騒《さわ》ぎを起こしたくない。だから|俺達《おれたち》を追ってる。大量虐殺をしちまったら本末転倒のはずだ」 「こんなので、本当にあの人を助ける事なんてできるのかな、ってミサカはミサカは自分の力のなさを嘆いてみたり」 「さあな。でも、ここを生き延びない限り絶対に助けられない。ソイツを助けたかったらまずは自分が死なない事だ。ソイツだってお前が死んで喜ぶような事はないんだろ」 「……うん、ってミサカはミサカは首を縦に振ってみる」 「よし、じゃあ生きるぞ」  我ながらとんでもない|台詞《せりふ》だ、と上条は苦笑しながら目の前の扉を開けた。  そちらが、客が料理を食べるメインフロアらしい。白々しい蛍光灯の光に満ち、有線放送が場違いに明るい音楽を流していた。壁に埋め込まれた大型テレビにはCMが映っている。レトルト食品特有の、脂っぽい|匂《にお》いが鼻についた。  だが、 「……ここもかよ[#「ここもかよ」に傍点]」  上条|当麻《とうま》は思わず|呻《うめ》き声をあげた。  店内には複数の客がいた。カップルのような男女もいるし、仕事が終わった教職員らしき男性もいる。テーブルとテーブルの間にある細い通路には|可愛《かわい》らしい制服を着たウェイトレスがいた。レジの所にいるのは少し|歳《とし》を食った男の店員だ。  その全員が倒れていた。  ぐったりと力を抜いて、傷一つないまま。  店内にパニックが起きた様子はない。多少、フォークやスプーンが床に落ちているが、それはおそらく客がテーブルに突っ伏した時のものだろう。|誰《だれ》も彼もが、自分でも良く分からない内に倒れていた……という感じの光景だった。  地下街の出入り口付近で倒れていた|警備員《アンチスキル》のように、ただ眠るように倒れている者もいる。一方で、まるで石像のように固まったまま床に転がっている者もいた。全体を見ると、いくつかのグループに分けられる。  |厨房《ちゆうぽう》の様子も変だったが、向こうでも問題が起きていたのかもしれない。  ともあれ、これでは『人の多い場所』の条件には適応しない。  その全員が気を失っているのでは、|誰《だれ》も|目撃《もくげき》していないのと全く同じだ。 (どうなってる?)  |上条《かみじよう》は思わず|呆然《ぽうぜん》としかかった。 (あの黒ずくめの何人かも、似たように倒れてた。つまり、これは連中がやってるって訳じゃないんだよな。ちくしょう、問題は一つだけじゃないって事か!) 「|打ち止め《ラストオーダー》、とにかく外に———ッ」  言いかけた上条は、|打ち止め《ラストオーダー》に引っ張られて床を転がった。  ドッ!! と。  表通りにズラリと面したウインドウが粉々に砕け散った。誰かが道路から店内へ弾丸を|撃《う》ち込んだのだと気づくのに数秒かかった。外れた弾丸は有線放送のチューナーにでも当たったのか、スピーカーが一斉に|沈黙《ちんもく》する。テレビが割れて火花を散らした。  床やテーブルに倒れている客|達《たち》の上にも細かいガラスが降り注いだのを見て、上条の頭に血が上った。幸い、弾丸そのものは当たっていないようだが、そういう問題ではない。 (くそ、周りに普通の人達がいてもお構いなしか!!)  砕けたガラスの破片を|踏《ふ》んで、誰かがゆっくりとメインフロアに入ってくる。  上条は近くの床に落ちていたフォークを手に取った。  貧弱すぎて笑えてくる。  その上、今度は不意にフロアの電気が落ちる。上条達が入ってきたドアが、きい、と小さな音を立てて開いた。そこからゴキブリみたいに気配のない動きで、三人ほど黒ずくめが追加される。  上条と|打ち止め《ラストオーダー》を守るのは、フロアの中央にある大きな四角い柱だけだった。  二方向からゆっくりと標的を捜す黒ずくめ達に対して、こちらの死角はほとんどない。  上条は鈍く光るフォークを手に、柱に背中を預けた。  ふと上を見る。  ウインドウに撃ち込まれた初弾が当たっていたのか、自分のすぐ上に風穴が空いていた。 (貫、通? 盾になってない……ッ!!)  ギョッとする上条の筋肉が、必要以上に|強張《こわば》る。  ゆったりとした、極力振動を殺そうとしている足音が、少しずつ|包囲網《ほういもう》を|狭《せば》めていく。      7  |一方通行《アクセラレータ》は携帯電話を使おうとも思ったが、やはり少し歩いて公衆電話から掛ける事にした。もしかすると、|木原《きはら》達は電話回線上から番号を探知する機材を使っているかもしれない。  すっかり使われなくなって久しいのだろう、やや汚れた感じのする公衆電話のボックスに入ると、まずは照蕊。剛の赤いボタンを押してから、救急車を呼んだ。この辺りの|管轄《かんかつ》なら、おそらく指定しなくてもカエル顔の医者の所へ行くはずだ。  次に残り少ない硬貨を入れて、もう一度受話器を取る。わざわざ携帯電話のアドレスを確認しながら、公衆電話に一つ一つ番号をプッシュしていく。  番号は|打ち止め《ラストオーダー》の携帯電話だ。 「……、」  しかし、相手が出る気配はなかった。|黙《だま》って受話器を|掴《つか》んでいる|一方通行《アクセラレータ》 の元に、携帯電話の電源が入っていないか電波の届かない場所にいるかもしれない、という|旨《むね》のアナウンスが返ってくる。  彼は受話器を置いた。 (……まァ、予想通りってトコか[#「予想通りってトコか」に傍点])  狭い所に逃げ込んでいれば電波が届かなくなる事もあるし、着信音や振動音が辺りに|響《ひび》くのを|危惧《きぐ》しているかもしれない。  最悪の可能性も頭をよぎったが、|一方通行《アクセラレータ》は自分のやるべき事を実行していく。  もう一度電話に小銭を入れて、今度は別の番号にかける。  コール音がしばらく続いた。  その後に年配の女性看護師が応対した。|一方通行《アクセラレータ》はカエル顔の医者に取り次ぐよう命令する。  すぐに医者に換わった。 『こんな時間にどんな用件かな?』 「トラブルが起きた。デカいトラブルだ」 『一応、|御坂《みさか》妹さんとやらから大体の事情は聞いているよ? 彼女|達《たち》の電気的ネットワークを介して情報の交換が行われているらしいね』  なるほど、電話以外にもそういう手があるのか、と|一方通行《アクセラレータ》は感心した。  代理演算を間借りしているだけの彼には、そのネットワークの利用はできない訳だが。 「だったら話は早ェ。ソッチが知ってる情報を渡せ。あのガキはどォなってる?」 『今は「|猟犬部隊《ハウンドドツグ》」の別働隊に追われているようだね。たまたま居合わせた一般人と|一緒《いつしよ》に逃げている。まだ捕まってはいないようだが……正直に言おう。時間の問題みたいだ』  どうやら|打ち止め《ラストオーダー》は|木原《きはら》の元から|離《はな》れた後、周りに助けを求めたらしい。難点は、求められた方に期待していただけの力量がなかったという事か。  |一方通行《アクセラレータ》は舌打ちした。 「場所は?」 『彼女自身も掴めていないようだ。どこかのファミリーレストランのようだけどね?』  少し考えたが、|流石《さすが》にそれだけで場所を特定するのは不可能だ。  |妹達《シスターズ》の方も、そのせいで|打ち止め《ラストオーダー》の捜索には出せないと、カエル顔の医者は言った。もちろん、学園都市にいる一〇人前後の|妹達《シスターズ》も体を調整している最中なので、長時間、彼女|達《たち》を雨の中で歩かせるのも問題だろうが。  |忌々《いまいま》しいが、今は本来の仕事を果たす事にする。 「そっちに白い修道服を着たガキは来たか?」 『今、応対に困っていた所だよ。彼女、何で君の代理演算の事を知っているんだ』 「オマェにゃ関係ねェ」 『……もしかして、本当に新しいバッテリーが必要な状況なのかい?』 「そンなモンねェンだろ」  |一方通行《アクセラレータ》は、|吐《は》き捨てるように続けた。 「あと、そのバッテリーについて|喚《わめ》いてるガキは保護しろ。おそらくこれから二四時間程度は命を|狙《ねら》われるはずだ。目を|離《はな》すなよ」 『やれやれ。|警備員《アンチスキル》には任せられない問題なのかい』 「平和主義の教師どもに何ができる。敵のレベルが違うンだよ。死人を増やしたくなけりゃ、イイ加減に意識を切り替える事だな」 「……そりゃまあ。まさか、患者以外の命を守る羽目になるとはね?』 「なら患者も追加だ。もォ少ししたら背中を刺された男がソッチに届く。ソイツを適当に処置したら、|襲撃《しゆうげき》に備えろ。ソッチにどンだけの戦力がある?」 『戦力とは、また随分と|物騒《ぷつそう》な話だね?』  カエル顔の医者は|流石《さすが》に面食らったようだったが、|一方通行《アクセラレータ》はいちいち付き合わない。  時間が惜しい。 「……あのクローンどものネットワークを介して、状況は|掴《つか》ンでるっつったよなァ? なら、甘い事を言ってらンねェのも分かってるはずだ。さっさと教えろ。うろたえればうろたえた分だけ死亡率が跳ね上がンぞ」 『まったく……君もあの少年と同じぐらい、|怪我《けが》と入院がお好みらしいね?』  受話器の向こうからため息が聞こえた。  |沈黙《ちんもく》があった後、カエル顔の医者は答える。 『調整中の量産軍用|妹達《シスターズ》が一〇人ほど。あとは「実験」当時使われていた、対戦車ライフルのメタルイーターMXとF2000R「|オモチャの兵隊《トイソルジヤー》」が人数分あったと思うけど?』  |一方通行《アクセラレータ》は少し考える。  それから首を横に振った。 「その程度じゃ食い|潰《つぶ》される。そもそも現状のクローンどもは戦力にならねェ。万全でも無理だろォがな。病院にいる職員と患者を全員|退避《たいひ》させられるか?」 『僕に持ち場を離れうって? 一体、この病院にどれだけのベッドがあるか知っているかな』 「三〇〇ぐらいか」 『七〇〇だ』カエル顔の医者はあっさりと答えた。『新生児や重症者など、|迂闊《うかつ》に動かすのが危険な患者が五二名ほどいるね? 手術中の患者がいないのが救いと言えば救いだけど、この大移動がどれだけ|無茶《むちや》な事かは分かっているかな』 「……、」 『ここを|離《はな》れれば、急患が出た時はどうする? そちらの問題もあるんだけどね』  カエル顔の医者の言葉に、|一方通行《アクセラレータ》は下手な言い訳や|労《ねぎら》いはかけない。  そんな暇はない。 「できるか?」 『やろう』  質問には即答が返ってきた。  カエル顔の口調が、いつもの|瓢々《ひようひよ》としたものから、|全《う》く別のものへと切り替わっていく。 「発煙筒でも使って、火事が起きた事にする。何らかのテロ行為に結びつければ、全員を|退避《たいひ》させる大義名分ぐらいにはなるだろうね。動かすのが危険な患者もいるが、彼らの命を守るのが僕の仕事だ。何とかしてやるよ』 「自分から要求しといて何だけどよォ、本当にできンだろォな?」 『だからやると言った。自分でもこんなに話が上手く転がるとは思ってなかったのかい? 急患の件にっいても、いくつか代案がある。よその病院に割り振るとか色々ね? なければ首を縦には振らないよ』 「……、悪りイな」 『まぁ君|達《たち》の争いに利用されるのは正直|癩《しやく》だが、僕はどんな患者であっても平等に扱うからね。運ばれてくる患者を守れと言われたら全力を尽くすだけさ』  救急車のサイレンが通り過ぎた。  おそらく『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』のあの男は、すでに救急車に乗って病院へ向かっているだろう。  |一方通行《アクセラレータ》がサイレンに耳を傾けていると、不意にカエル顔の医者が言った。 『それで、君はどこまでやるつもりだい?』 「|木原《きはら》は殺す。「|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』も|潰《つぶ》す。そしてあのガキを無傷で助け出す」 『不可能だよ』  これも即答だった。  カエル顔の医者には似合わない、あまりにも端的で|冷徹《れいてつ》な声に、|一方通行《アクセラレータ》は|眉《まゆ》をひそめる。 『この限られた状況の中で、君はあまりに多くの行動目標を抱えすぎている。それでは絶対に達成できない。君の住んでいる世界は、あちこち寄り道しながらゴールを目指しても何とかなる程度のものなのかな?』 「……、いつから医者ってなァフザけたリップサービスまで始めるよォになったンだ? ソッチの世界の住人が、知ったよォなクチで|闇《やみ》を語るなよ」 『誤解があるようなら言っておくけどね?』  カエル顔の医者は、|臆《おく》しない。  |一方通行《アクセラレータ》に向かって、ただ事実を言う。 『僕は君以上の地獄を見てきているよ[#「僕は君以上の地獄を見てきているよ」に傍点]。医者という職業を甘く見てはいけない。多分君よりたくさんの血と涙を見てきていると思うよ。悲劇にはならなかったけどね。僕は「|冥土帰し《ヘヴンキヤンセラー》」とも呼ばれている。つまりそういう事さ。僕と君の違いは簡単だ。そこに留まっているか[#「そこに留まっているか」に傍点]、きちんと帰ってくるか[#「きちんと帰ってくるか」に傍点]。それだけでしかない』  医者は少し間を空けた。  それから続ける。 『君と同様、|闇《やみ》ってヤツを知ってる先輩からアドバイスをしようと言っている訳だ。目標は一つに絞れ。|木原《ぽはら》を殺す? 「|猟犬部隊《ハウンドドツグ》」を|潰《つぶ》す? そんなつまらない事は後でもできるだろう。 君が今ここでしなければならない事はたった一つのはずだ。それも分からないのかい?』 「|流石《さすが》は人命優先のお医者様だな。だが、あのガキを無傷で助ける事と、木原|達《たち》を潰す事は同じなンだよ。どちらかを切り捨て——— 」 『そうじゃない』 「あ?」 『|打ち止め《ラストオーダー》を無傷で助ける? まだそんな[#「まだそんな」に傍点]、できもしない事を言っているのかい[#「できもしない事を言っているのかい」に傍点]』 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》の血が凍った。  受話器の向こうにいるのは、|誰《だれ》だ? 『さっきも言っただろう。僕は、ミサカネットワーク経由で情報をやり取りしている|妹達《シスターズ》から直接話を聞いている。君の事情もある程度は理解しているつもりだ。その上で言うよ?』  カエル顔の医者は、ゆっくりと、なおかつ力のある声で言った。  まるで、説教でもするように。 『いい加減に現実を見るんだ。そんな事ができないのは、無様に|這《は》いつくばった時点で分かっているだろう? いいかい、君はただでさえ負けている。勝つ事すら難しい相手に対して、さらにそんな夢のある希望を並べた所で何になる。妥協をしろよ、|一方通行《アクセラレータ》。|打ち止め《ラストオーダー》はもう、無傷では助けられない。どんなに最高峰の手を打ったとしても、絶対に傷を負う』  心理的な死角から|一撃《いちげき》を|叩《たた》き込まれたような気分になった。  知らず知らずの内に、それだけこの医者に寄りかかっていたという事か。 「……クソッたれが。それを認めたくねェから、泥の中を這い回ってでも木原を殺すっつってンのが分かンねェのか」 「分からないね。望んだ程度で何でも上手くいくなら、僕は最初から医者になどなっていない。山に|籠《こも》って三六五日|瞑想《めいそう》しているだろうさ。そんな事じゃ物理的に人は救えないから僕は医者になった。はっきり言ってやろう。君の主張は|全《すぺ》て、実現性を無視した子供のワガママだ』 「ならどうしろってンだ? |木原《きはら》みてェなクソ野郎のせいで、あのガキがボロボロにされるのを見て、にっこり笑顔で良かった良かったって言えばハッピーエンドかァ?」 『そうだ。そのために医者がいる』  |激昂《げつこう》にもカエル顔は動じない。  すらすらと、流れるように言葉が続く。 『腕が折れようが|皮膚《ひふ》が|剥《は》がれようが内臓が|潰《つぶ》れようが、生きて僕の元まで連れて来れば必ず治す。命を守り傷跡も残さず精神的なケアまで含めて|完壁《かんぺき》な形で君の大切な人を救ってみせる。 その期待に|応《こた》えるのが医者ってものだ。だから|一方通行《アクセラレータ》、君は余計で|無駄《むだ》な高望みなどせず、ただただ|打ち止め《ラストオーダー》の「命」を助ける事だけを優先しろ。それが一番大切なものだ。僕みたいな未熟者の腕では取り返せない唯一のものだ、違うかい? もしも違うというのなら、あの子の命よりも大切なものを今ここで言ってみろ』  いや、何も思っていないはずがない。  大人の都合で子供の命が奪われようとしている、この事態に対して。  そして。  彼は自分の立場を完壁に理解している。慌てふためき、|喚《わめ》き散らしても何も解決しないと分かっているからこそ、ひたすら『医者』として戦おうとしているのだ。 『木原? 「|猟犬部隊《ハウンドドッグ》」? そんな退屈な|前哨戦《ぜんしようせん》はさっさと終わらせろ。|打ち止め《ラストオーダー》を早く僕の元へ回して決勝戦を始めさせてくれ』  その後、|一方通行《アクセラレータ》は、カエル顔の医者が病院を一時放棄したらどこへ身を隠すのかを教えてもらった。|打ち止め《ラストオーダー》を回収した場合はそちらへ回すように、との事だった。  彼は受話器を置く。  公衆電話のガラスの扉に背中を預ける。 (……、無傷では助けられない。どんな最高峰の手を打ってでも、必ずあのガキは傷を負う、か〉  |一方通行《アクセラレータ》は一度息を吸って、|吐《は》いた。 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は|嗅覚《ほゆうかく》センサーを使っている。自分はもちろん、|打ち止め《ラストオーダー》の探索にも利用しているだろう。ただでさえ彼女は|窮地《きゆうち》にいるのに、さらに|魔《ま》の手が伸びる速度は増している。  余裕はない。  だから覚悟を決める。 「上等じゃねェか……」  全てを受け入れた後に残ったのは、笑みだった。  ブチリと裂けた、この世のものとは思えないほどに恐ろしい笑み。 「———あのガキを救い出すためなら、善人でも悪人でもぶっ殺してやる」 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は|嗅覚《きゆうかく》センサーを持っている。  この位置も、すぐに|木原数多《きはらあまた》や『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は突き止め、|襲撃《しゆうげき》をかけてーるだろう。  まずはこれを迎撃する。  そのための戦場が欲しい。こんな所でのんびりしている暇は、ない。 [#改ページ]    行間 六  |土御門元春《つちみかどもとはる》は学園都市外部へ|繋《つな》がるゲート目指して走っていた。  降りしきる雨脚は弱まる気配を一向に見せず、月の光は|遮《さえぎ》られ、雨音が集音作業に|悪影響《あくえいきよう》を及ぼし、周囲の|匂《にお》いまでも消し去っていた。ずぶ|濡《ぬ》れの景色は、それだけで夜戦の死亡率を格段に引き上げている。 (都市機能の大半が死んでやがる。暴動だの略奪だのが起きていないのは幸運だな)  走る勢いを落とさず、それでいて周囲をくまなく観察しながら、土御門は心の中でそう|呟《つぶや》いた。  街の治安を|司《つかさど》る|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》はほぼ|壊滅《かいめつ》状態と言っても良い。一部のメンバーはまだ動けるようだが、たったそれだけの人数で学園都市全域をカバーできるはずがない。もしもこの都市機能が|麻痺《まひ》した状態に|誰《だれ》かが気づけば、店のレジや商品棚などはあっという間に|襲撃《しゆうげき》、|強奪《ごうだつ》されるだろう。  今の所そうなっていない理由としては、学園都市は基本的に終電終バスが最終下校時刻に設定されているため、大半の人間が『外の異変』に気づいていない事、そして『外の異変』に気づく前に、やはり学生の多くも正体不明の攻撃にさらされ、意識を奪われた事などが挙げられる。  攻撃。  より正確には、|魔術《まじゆつ》サイドからの攻撃だ。  その言葉に、土御門元春は奥歯を|噛《か》む。  もっとも、|戦闘下《せんとうか》において、彼の思考は極限まで均一化されているため、それは分かりやすい感情の波としては表れないが。 (『神の右席』か。話に聞いた事ぐらいはあったが、まさかここまでやるとはな)  静まり返った街を走りながら、土御門はむしろ感心していた。  彼は優れた魔術師だ。  にも|拘《かかわ》らず、これだけ大規模な魔術攻撃にさらされてなお、自分|達《たち》がどういう種類の術式を受けているのかが全く分析できない。|完璧《かんぺき》に|煙《けむ》に巻かれていた。 (しかし、アレイスターの言う一人だけで済むはずがない。必ず|他《ほか》にも集団がいる。都市機能が麻痺しかかっているこの状況で、そんな連中にまで踏み込まれればこの街は終わりだ) 『神の右席』のメンバーと同時に戦闘部隊が踏み込んで来なかったのは、奇妙と言えば奇妙だった。だが、それは単に人数の問題かもしれない。例えば一万人ほどのメンバーが外で待機しているのだとすれば、彼らが最初から学園都市に|踏《ふ》み込んでも、二三〇万人全員と戦う羽目になる。しかし『神の右席』が手始めに学園都市の戦力を|削《そ》ぎ落としてしまえば、侵攻部隊の損耗率は格段に低くなるはずだ。  敵戦力の数は不明。  学園都市外周に、どのように配置されているかも不明。 (……だが、今すぐ踏み込んでくるほどでもない、か)  学園都市の総員は二三〇万人。これに対し、例えばローマ正教側が一〇〇〇万人を投入してきた場合、わざわざ外周で待機する必要はない。ヴェントの先攻もいらない。力押しで制圧しようと考えるはずだ(もちろん、学園都市の超能力や兵器群は単なる人員だけで計算できない部分もあるが、ローマ正教が適切にそれを認識しているとは思えない)。  現時点では、意外に待機組の人数も少ないのかもしれない。  ヴェントを先攻させ、|沈黙《ちんもく》した街の『後始末』をするぐらいの数しか。 (それでも、一人でやり合える人数じゃあなさそうだがな)  |土御門元春《つちみかどもとはる》に求められているのは、敵の|繊滅《せんめつ》ではない。  学園都市の都市機能が回復するまで、街の外で待機している侵攻部隊を絶対に|敷地内《しきちない》に入れない事。それが彼の勝利条件だ。アレイスターの、ではなく、土御門元春が自分で決めた勝利の。ヴェントの方は|他《ほか》の人間に任せるしかない。  しかし、どれだけいるかも分からない敵を、いつ都市機能が復旧するかも分からない状況で足止めし続けるなど、ほとんど自殺行為にも等しい。 (普通の警備員も使えない。オレと似たような連中[#「オレと似たような連中」に傍点]も別口の用件がある)  他に協力してくれる仲間はいない。  状況を打破できるスペシャルな兵器や|魔術《まじゆつ》にも当てはない。  だが、 (この街には|舞夏《まいか》がいる)  魔術の世界になど何の縁もなく、ただ家政婦を目指している妹の事を、彼は思う。  それだけで戦う覚悟は決まった。 (その他|全《すべ》てを裏切っても良いが、オレはアイツだけは絶対に裏切らない)  警備機能が完全に失われた第三ゲートをくぐり、土御門元春は学園都市の外へ出る。  |陰陽道《おんみようどう》を極めた魔術師として。  役にも立たない能力者として。  目的は一つ。  大切な者のいる世界を守るために。 [#改ページ]    第七章 雨粒を血の色に変える Revival_of_Destruction.      1  |黄泉川愛穂《よみかわあいほ》は車のハンドルを握っていた。  見た目は国産の安っぽいスポーツカーだが、エンジン音が妙に低い。逃走者を追うために、見えない所をガチガチにチューンしているのだ。ギアが七速まで入るという辺りで、どれぐらい|無茶《むちや》をしているのかを想像して欲しい。  今日の午後にマンションからいなくなった|打ち止め《ラストオーダー》を捜して、適当に車を走らせている訳だが、 (……?どうにも、道が|空《す》いているような……)  元々、学園都市は学生の街だ。  教員や業者、大学生ぐらいしか車を使えないため、普通の大都市圏に比べると交通量はそれほどでもない。  しかし、それにしても今日は車がない。  定期的にワイパーの動いているフロントガラスの向こうに広がっている道は、それこそただの滑走路のように見える。 「どうなってんだか……」  黄泉川はつい|呟《つぶや》いた。  その時、カーオーディオの代わりに突っ込んである車内無線のランプが光った。彼女はウィンカーをつけると、速度を落として路側帯へ車を寄せて停車する。  無線機の方を見ると、ガーッ、という低い音と共に葉書サイズの紙切れが|吐《は》き出されてきた所だった。  デジカメ用の小型プリンターと原理は同じだ。|警備員《アンチスキル》の司令本部から各端末へ、指名手配者の顔写真などを送る時に使われるものだ。  写真は粗かった。|遠距離《えんきより》から撮ったものだろうか。カメラが揺れていたらしく、輪郭もぼやけている。それでも、大勢の|警備員《アンチスキル》が倒れている中、黄色い服を着た女が突っ立っているのが分かる。 「?」  黄泉川は戸惑った。  普通なら、写真の|他《ほか》にも現場の情報などの文字情報もプリントされているはずだが、それがない。これでは、そもそも写真の女が何をやったかも不明だ。何らかの事件の容疑者なのか、それとも保護対象なのかも判断がつかない。  迷子になっている|打ち止め《ラストオーダー》も気になるが、やはり優先順位は「迷子』より『事件』だ。  |黄泉川《よみかわ》は無線機のスイッチを押して、それから言った。 「こちら黄泉川から本部へ。コール334についての詳細を求める」  連絡ミスかな、と思って確認を取ろうとしたのだが、返事がない。  サーッ、という低いノイズだけが彼女の耳に届く。  その後も何度か無線機に向かって話しかけたが、応答が返ってくる事はなかった。 「……、」  黄泉川は無線機のスイッチを切る。  路側帯に|停《と》めた車の中で、黄泉川は葉書サイズの紙切れを改めて|掴《つか》んだ。そこには、雨の中で倒れている|警備員達《アンチスキルたち》と、その真ん中に突っ立っている黄色い服の女が写っている。 (この女……)  もう片方の手の指で、写真の中の女を|弾《はじ》く。 (一体これは何なんだ。見た感じじゃ、保護対象ってツラじゃないじゃんよ。まるで、ウチの|同僚《どうりよう》を|叩《たた》き|潰《つぶ》した後みたいな……)  不気味な感触が、黄泉川の背筋を駆け抜ける。  それと同時に、自分の同僚が地面に伏している事に怒りを覚え、 (ま、ツラを見かけたら丁重[#「丁重」に傍点]にお話を|伺《うかが》うとしますか———)  適当に考えたが、黄泉川が再びスポーツカーを走らせる事はなかった。  ゾン!! と。  黄泉川|愛穂《あいほ》の脳に、唐突に|衝撃《しようげき》が走ったからだ。 「あ……ッ!?」  悲鳴すら上げられなかった。  そのまま全身から力が抜け、彼女の上半身がハンドルにのしかかった。胸が圧迫されて苦しかったが、どうする事もできない。体の|芯《しん》から指先まで、|全《すべ》ての力が奪われている。  急速に視界が|狭《せま》まっていく。 (な、にが……)  訳の分からないまま、黄泉川の意識が落ちていく。  だらりと下がった腕から、ほんの数十センチの所に車内無線のスイッチがあった。しかし、手が動かない。助けを求められない。呼吸すらもままならなくなってきた。 (……この、写真)  気をつけろ、という|同僚《どうりよう》からのサインだったのかもしれない。もしかしたら、自分と同じ状況に|陥《おちい》った|警備員《アンチスキル》が、最後の力を振り絞って送信してきた可能性もある。  だが、それが生かされる事はなかった。 (……くそ……)  親指と人差し指の間に挟まっていた写真が、ひらりと落ちた。  それと同時に、|黄泉川愛穂《よみかわあいほ》の意識も完全に失われる。  車のない道路。  やけに静かな街。  応じない車内無線。  ……もしかすると、とてつもない規模で事態は進行しているのかもしれない……。      2 「第三資源再生処理施設、か」  黒ずくめの一人は、第五学区の一角にそびえる建物群を見て唇を動かした。  ここは第七学区のすぐ|隣《となり》にある施設だ。|一方通行《アクセラレータ》や『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の逃亡者|達《たち》が使っていたワンボックスは、第七学区側の公園近くに乗り捨ててあった。 「|厄介《やつかい》な所に逃げ込まれたな、ナンシー」  同僚の言葉に、言われた本人は思わず笑っていた。  何がナンシーか、と本人でも|呟《つぶや》いてしまうが、そういうコードで呼び合ってい乃のだから仕方がない。  ナンシーはいかにも普通の日本人ですという黄色人種だ。髪も目も黒いし、その事に全くコンプレックスを抱いていない。コードもできれば漢字にして欲しかったものだ。きっとが尉箋はネット上で派手なハンドルネームをつける人間なのだろう。  |漆黒《しつこく》の装甲服やマスクで全身を|覆《おお》っているが、それでも成熟した女性らしいラインは隠せない。『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は男女間わず、とにかくクズばかりを集めた組織なので、ナンシーの|他《ほか》も何人か女性がいた。もっとも、同性だからと言って妙な連帯感が生まれる事はない。この組織の人間は、事件の容疑者を追い詰める快感にのめり込んだ元|警備員《アンチスキル》や、取調べに『傷のつかない拷問』を持ち込んだ分析技術者など、基本的に全員が全員軽蔑すべきクソ野郎どもなのだから。  彼女は、手の中の道具をゆっくりと揺らしていた。  オモチャの銃にも似た機材———|嗅覚《きゆうかく》センサーだ。  さらにグリップのすぐ上、|拳銃《けんじゆう》で言うならハンマーのある辺りに、三インチぐらいの小さな液晶モニタが取り付けられていた。そこにはたくさんの棒グラフが絶えず上下している。コンポの画面に表示される音階のバーのようだ。 「標的の『|匂《にお》い』はあっちへ続いているわ。まず間違いないでしょうね」  ナンシーは後方に控えている|同僚《どうりよう》へそう言った。  匂い。  警察犬などは、今日のような雨で匂いを追尾できなくなるが、その問題もこちらでは、かなりの割合で解決できる。匂いが流されるのは、『匂いが消える』ではなく『匂いが混ざる』方が多いためだ。センサーなら混ざった匂いにも対処できる。  彼らは『匂い』の先へ視線を移す。 「でかい施設だな」  ナンシーの|隣《となり》に立った黒ずくめの一人がそう言った。  |無駄口《むだぐち》だが、その通りではある。  彼女の目の前に広がるのは、およそニキロ四方にわたる巨大施設だ。用途はゴミの再利用。元々資源の乏しい学園都市では、基本的な紙資源から、鉄やアルミといった金属ゴムやプラスチックなどの石油製品、」その他にも多くの物品を再利用している。ここは第五学区を中心に周辺四つの学区から出た『資源』を回収し、使える形に加工していくための施設という訳だ。  その広大な|敷地《しきち》は、どこか海岸の石油化学コンビナートを連想させた。直径が一〇〇メートルを超す円筒形の燃料タンクがズラリと並ぶ一角もあれば、無数の煙突が突き立った工場区画もある。  それにしても、再利用施設ときた。  クズみたいな人間が戦う場所としては、あまりにもうってつけだ。 「ナンシー。ヤツの目的は何だと思う?」  ロッドがそんな事を尋ねてきた。 「この施設が戦略上、重要になるとは感じられない。しかし、単に物陰に隠れるなら、わざわざセキュリティをかいくぐって、こんな所へ来るのは手間だ」 「ふん。案外、それぐらい簡単かもしれないわ」  ナンシーが投げやりに答えると、ロッドは不満そうな顔になった。そんな彼の目前で、ナンシーは|嗅覚《きゆうかく》センサーを軽く振る。 「こいつから逃れるために、ゴミ処理場を経由して匂いを消す気でいるのかも」 「……ヤツもこちらの装備品を知っている訳か」 「オーソンの|馬鹿《ばか》が標的と|一緒《いつしよ》に逃げたからね。車内には装備品のスペアもあった」  ゴミの匂いをつけただけで嗅覚センサーをごまかすのは難しいが、匂いの分子構造を変える、ある種の洗浄剤を使えば話は変わる。『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の|隠蔽班《いんぺいはん》が専用のものを開発しているが、この手の資源処理施設なら、同種の薬品があってもおかしくはない。  苦肉の策だな、とナンシーは|薄《うす》く笑ってから、同僚に尋ねる。 「ロッド、施設の見取り図は」 「|書庫《パンク》から入手済み」 「全員に転送。それから作業員の数や巡回ルートは」 「巡回ルートは気にしなくて良いな」ロッドと呼ばれた男はアッサリ告げた。「内部のほとんどは自動化されている。作業員は一四人ほどいるが、全員コントロールセンターでキーボードを|叩《たた》くのが仕事だ。機械系のメンテナンスを外部組織から派遣で招くほどだそうだ」 「よし。後始末の手間も省けるわね」  ナンシーは適当に言って、|嗅覚《きゆうかく》センサーを|同僚《どうりよう》に渡した。|肩紐《かたひも》で|提《さ》げていたサブマシンガンのチェックに移る。  ロッドは見取り図を表示した小型端末を軽く振って、 「出入り口が二四ヶ所もある。これを|全《すべ》てカバーした上で、内部の施設を一つ一つくまなく探索するのは人数的に不可能だ」  今の『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は正体不明の敵に対する陽動、|打ち止め《ラストオーダー》を追っている別働隊、|木原数多《きはらあまた》の周囲を固めるガード係など、あちこちに戦力を分散している。そのため、今ここに集まっているのは一〇人程度のものだった。 「標的の動きをこちらで|誘導《ゆうどう》すれば良いわ。敵はこちらを大人数だと思い込んでいるはず。地図上のA地点から|攻撃《こうげき》し、意識を誘導した上で非常口Cから|奇襲《きしゆう》をかける。爆弾をいくつか投げ込めば簡単に揺さぶれるはずよ。分かった?」 「ヤツがチカラを使って突破してきたらどうする。誘導にならないぞ」 「|大丈夫《だいじようぶ》」  ロッドの声に、ナンシーはもう一度施設を見た。  分厚いコンクリートに金属製のパイプが何重にも|絡《から》み付いているような、重工業施設を連想させる建物群を。 「木原さんの言葉が本当なら、標的はそれほど万能でもないわ」      3 「これだな……」  |一方通行《アクセラレータ》は第三資源再生処理施設のコントロールルームで小さく笑った。  窓のない小さな部屋の四方の壁に、何十ものモニタが据えられた部屋だ。工場の作業状況からセキュリティモードまで、その全てがここで制御されている。  一四人の作業員は、ショットガンを手にした侵入者になす|術《すべ》もなく、あちこちで体を縮めて|震《ふる》えていたが、|一方通行《アクセラレータ》はそちらを見ない。彼が|睨《にら》んでいるのは、モニタの一つ。そこには工場に備えられている洗浄剤のリストがあった。  |一方通行《アクセラレータ》が求めているのは、|匂《にお》いの粒子そのものを化学反応で『別の物質』に変えてしまう洗浄剤だ。 (見つけた。何種類かあるな。コイツで連中の『|嗅覚《きゆうかく》』を振り切れる)  |木原数多《きはらあまた》を含む『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』と|徹底《てつてい》抗戦する覚悟は決めたが、かと言って『常に|襲撃《しゅうげき》を受ける側』であるのは好ましくない。能力をフルに使って戦えるのは、あと七分もないのだ。木原本人ならともかく、部下の『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』で|無駄遣《むだづか》いするのは|避《さ》けたい。そう考えると、|戦闘《せんとう》の主導権はこちらが|掴《つか》んでおいた方が良いに決まっていた。  もちろん、最も重要なのは木原|達《たち》との戦いではなく、|打ち止め《ラストオーダー》を無事に助け出す事だが、 (|打ち止め《ラストオーダー》を捜すにしても、今の時点で『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』の追撃は切っておくべきだ。むしろあのガキを回収してからの方が、流れ弾の危険性は増してくるンだからなァ!)  助け出した後の方が難易度は跳ね上がるのだ。|一方通行《アクセラレータ》の能力は元々彼一人だけを守るものだし、『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』が現れるたびにその力を使っていてはバッテリーが|保《も》たない。  そういった意味でも『いつ戦っていつ避けるのか』は、こちらで掴まなくてはならない。 (さっさと洗浄剤で自分の|匂《にお》いを消して、ここから立ち去るとするか。木原の手があのガキに届くまで時間はねェ。こンな所でチンタラ寄り道してねェで、一刻も早く本命に戻ンねェとな。洗浄剤は施設のどこに置いてあるンだ……?)  その時、ザザッ!! とモニタが揺れた。  コントロールルームにある数十のモニタの映像が、次々と灰色のノイズに|掻《か》き消されていく。それらが全滅する直前、この施設の北側第二出入り口のセキュリティ映像に、チラリと黒ずくめの男が映った。  第三資源再生処理施設全域の警報装置を|完壁《かんぺき》に|潰《つぶ》す腕があれば、カメラの位置も分かっていたはずだ。となると、あの黒ずくめは自分の居場所をわざと知らせ、こちらを|誘《さそ》っている事になる。 (クソッたれが! 予想よりも早いじゃねェか!!)  この施設はもう囲まれている。  |一方通行《アクセラレータ》は|杖《つえ》をつかなくては移動できない。つまり速度を出せない。洗浄剤で嗅覚センサーから逃れたとしても、施設に入ってくるこの一団だけは相手をしなければならないだろう。  連中からは逃げられない。そして、 (逃げるつもりもねェ。あのストーカーども、ここで|叩《たた》き潰してやる)  |一方通行《アクセラレータ》は杖の代わりにしているショットガンに体重を預けつつ、周囲を見回した。  正真正銘、ただ巻き込まれただけの作業員達に警告する。 「これからここで銃撃戦が起こる。戦闘が終わっても後続の連中が押し寄せてくるかもしンねェ。オマエ達は銃声が|止《や》ンだら二〇分ぐらい待って、作業服から私服に着替えて施設を出ろ」  |頷《うなず》いているんだか|震《ふる》えているんだか分からない返事だけが返ってくる。 (面白ェ。こっちの|駒《こま》は何だ……)  状況を確認する。  能力は使えそうにない。工場内は分厚いコンクリートに阻まれ、外部との電波通信の精度は落ちる。その上、ここには資源再利用のために、ベルトコンベアやプレス機など、かなり大型のモーターが大量に設置され、強力な電磁波を|撒《ま》き散らしていた。|妹達《シスターズ》の脳波を電磁波に変えて電子|情報網《じようほうもう》を作るミサカネットワークが、完全な形で使えないのだ。  とにかく雑音が|酷《ひど》い。  調子の良い時と悪い時の落差が激しかった。通常の会話なら『ちよっと乱れる』で済むが、派手に能力を使っている最中にそれが起これば、そのまま暴発事故に|繋《つな》がってしまう。 (どォせ、ここで力を使っちまうよォじゃ|木原《きはら》には届かねェが)  丸裸での|戦闘《せんとう》は、今まで経験がない。  能力が使えないと、彼は|杖《つえ》をついて歩く程度の運動能力しかない人間となる。  武器となるのは、杖の代わりに使っているショットガンが一丁。  マガジンの中に詰まっている弾丸は、およそ三〇発前後か。 「どォする……?」  これだけの装備で、組織的な戦闘を得意とする『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』を|迎鷺《げいげき》する方法を模索する。  わざとカメラに映った黒ずくめの存在を気にかけつつ、 (どォする?)  |一方通行《アクセラレータ》はモニタから目を|離《はな》し、紙の見取り図を探し出して、それを大きく広げた。 |誘《さそ》いに乗るか。誘いを|蹴《け》るか。すでにそこから攻防は始まっている。      4 |御坂美琴《みさかみこと》はコンビニにいた。  雨具の置いてあるコーナーに彼女は突っ立っている。 「うーん……小さい」  安物のビニール傘を眺めながら、彼女はポツリと|呟《つぶや》いた。この手の傘は、かさばらない方が人気なのだろうが、ここまでサイズが小さいと結局|濡《ぬ》れてしまいそうだ。  広々としたウィンドウから外を見ると、すっかり真っ暗になっていた。ガラスには割と大きな雨粒がぶつかっている。  御坂美琴は、|大覇星祭《だいはせいさい》での勝負で、|上条当麻《かみじようとうま》に|罰《ばつ》ゲームを受けさせる権利を得ている。が、その罰ゲームが途中でぶつ切りになってしまったため、彼女は今、上条をもう一度捜している訳だが……。 「何で雨が降ってくんのよ」  彼女は学生|鞄《かばん》と|一緒《いつしよ》に|掴《つか》んでいる携帯電話会社の紙袋に目を落とした。 (|ゲコ太とピヨン子《ストラツプ》は|濡《ぬ》らしたくないのよね)  そんな感じでうんうん|捻《うな》っている|美琴《みこと》の携帯電話が不意に着信音を鳴らした。面倒臭そうな感じで電話を取り出す。  表示されているのは後輩、|白井黒子《しらいくろこ》の番号だった。 『おっねえさまーん』 「何よ黒子」 『|風紀委員《ジヤツジメント》のお仕事で|寮《りよう》に帰れないので、あのやかましい寮監に一言連絡しておいて欲しいですの。ほら、もう門限も過ぎているでしょう?』 「ええと、私も今コンビニだから」 『ぎゃあっ!?』  白井はあまり淑女っぽくないレスポンスを返してきた。  そんな白井より少し遠い位置から、別の声がスピーカーに入る。 『あれー? 白井さん、|御坂《みさか》さんに連絡つかなかったんですか』  白井の|風紀委員《ジヤツジメント》の|同僚《どうりよう》、|初春飾利《ういはるかざり》のものだろう。  となると今、白井は支部にいるのだろうか。 『やかましいですの。お姉様はお外にいるから寮監に連絡はつけられないとの事ですのよ。しかし、参りましたわね。門限延長の手続きには書類の提出が必要で、あの寮監は電話には応じませんし。これでは問答無用で二人とも減点を喰らいそうですの』 『へぇー。ところで、御坂さんて今日は何で門限ぶっちぎっているんでしょうね?』 『ッ!?』  ハッと息を|呑《の》む音が聞こえ、続いて、ミシイッ!! という鈍い音が聞こえた。おそらく携帯電話に猛烈な握力が加わっているのだろう。  白井黒子は尋ねてくる。 『まっ、まさか……あのままお姉様は腐れ類人猿とついに夜のデートを!? おのれあの野郎、雨の夜景を楽しむなんてまた随分と渋いチョイスを!!』 「違うわよクソ|馬鹿《ばか》!!」  美琴は思わず叫び返していた。  しかし白井は聞いていないようで、 『くっ、こうしてはいられませんわ。お姉様の貞操を守るのはわたくし白井黒子の務め!!』 「てっ、貞操とか大声で言うな!」 『ならばより具体的に言うと』 「言うなッ!!」  美琴は顔を真っ赤にして叫んだが、もう白井は|完壁《かんぺき》に人の話を聞いていないらしい。スピーカーからマシンガンみたいに言葉が飛んでくる。 『ともあれそっちに行きます必ず行きますお姉様は今どこにいるんですのGPSサービス使うので認証用のコードメールを送ってくださ———』 『|駄目《だめ》ですよー』  |初春《ういはる》の一言で|白井《しろい》マシンガンが弾詰まりを起こした。  さらに初春は続けてこう言った。 『ほらー、こっちの事務書類の束と会計書類の山と指示書類の山脈が全然終わってないでしょ。白井さん、今日は|徹夜《てつや》と言ったら徹夜なんです。晩御飯のお弁当は買ってあるんで一歩も外に出ないでくださいお|風呂《ふろ》も駄目です』 『うがあああああああああああああああああああああああああああああああーっ!!』 『ひっ、ひぎゃあ? 白井さん、白井さん!!』  電話の向こうでバタバタという音が聞こえる。  携帯電話を|若干《じやつかん》耳から遠ざけつつ、|美琴《みこと》は|呆《あき》れたように言った。 「ええと、じゃあ切るわよ?」  |錯乱《さくらん》している白井に代わって、初春の方が返事をしてきた。 「あ、はい。白井さんはこっちで押さえておくので、その、がんばってくださいっ!!』 「だからデートじゃないわよ!!」  美琴は全力で叫び返したが、向こうまで届いていないらしい。ドタバタという暴れる音が続いたと思ったら、そのままブツッと通話が切れてしまった。      5  |上条当麻《かみじようとうま》と|打ち止め《ラストオーダー》は柱の陰に隠れていた。  明かりの消えたファミレス店内に、恐ろしいほどの|沈黙《ちんもく》が満たされる。  絶望的な三〇秒間だった。  あまりのストレスに脳の構造が崩れるかと思った。  しかし、柱の陰に隠れて息を殺している上条は、そこで異変に気づいた。  いつまで|経《た》っても男|達《たち》がやって来ない。  ファミレスに|踏《ふ》み込んできた黒ずくめの連中は、上条や |打ち止め《ラストオーダー》 の|大雑把《おおざつぱ》な位置を確認しているはずだ。ろくな武器も持っていない事だって分かっているだろう。銃器と装甲服で身を固めた集団が、わざわざ丸腰の高校生や女の子に警戒して、じっとしている訳がない。 (どういう状況だ?)  安易に動くのは危険だという心と、  早く動かないとチャンスを失うかもしれないという心が交錯する。 「……、」  密着するほど近くにいる|打ち止め《ラストオーダー》が、心細そうにこちらのシャツを、ぎゅっと|掴《つか》んできた。  彼女の小さな手の存在が、かろうじて|上条《かみじよう》の平常心を守る手助けとなる。  さらにそのまま三〇秒が経過した。  目立った物音はない。  割れた窓から雨が吹き込む音だけが、妙に上条の耳につく。  息を殺す。  目を|瞑《つぶ》る。  時を待つ。  そして、動きがあった。 「ハッアァーイ♪ びっくりしちゃったカナ。怖がってないで出ておいでー?」  聞こえてきたのは甲高い女の声だった。  上条からでは、自分が盾にしている柱のせいで顔を確認できない。  どこにいるかも分からない。  ただ、 (何だ? これまでのヤツらと明らかに違う動きだ)  さっきまで上条|達《たち》を追い詰めていた黒ずくめ達は、できるだけ自己主張を|避《さ》け、音も声も出さずに最速でこちらを殺そうとしていた。言ってしまえば、可能な限り|無駄《むだ》を省いた、最低限の行動しか取っていない。  それに対して、女の声は正反対だった。  そもそも声を出して自分の存在をアピールする時点で、黒ずくめの行動パターンとは『合わない』。男女の区別どころか人間かどうかも分からない、影のような存在からは最も遠いコマンドのような気がする。 (となると、黒ずくめの仲間って訳じゃ、ないのか?)  かと言って、安易に出て行くのも危険な気がした。そもそも声の主は|誰《だれ》なのだ。 「ハハッ。怖がってるなあ。ま、あんだけピンチってたら仕方がないでしょうけどね。でもさー、こっちにも事情があるからさー、あんまり言うコト聞いてくれないとー」  女の声は笑いながら続ける。  こちらの動揺や警戒などお構いなしといった調子で、あっけらかんとした声で、 「グッチャグチャの塊にすんぞコラ[#「グッチャグチャの塊にすんぞコラ」に傍点]」 「ッ!!」  |上条《かみじよう》は|打ち止め《ラストオーダー》の体を抱いて、とっさに柱の陰から飛び出すように床の上へ伏せた。  ドッ!! という|轟音《ごうおん》が|響《ひび》く。  見えない|一撃《いちげき》が、ついさっきまで盾にしていた柱を横に|薙《な》いだ。攻撃が当たったのは柱の中央らしく、くの字にへし折れた柱は、そのまま二つになって壁まで飛んでいった。あまりの速度に、砲弾のように壁を食い破ってバラバラに散らばる。  建物全体が|震《ふる》えた。  骨組みそのものが崩れたのか、ガッシャアア!! と鋭い音を立て、黒ずくめの難を逃れていた店内のガラスが|全《すべ》て砕け散る。  上条は|打ち止め《ラストオーダー》を|庇《かば》ったまま、視線を走らせる。  明かりの落ちたメインフロアの中央に、女が一人立っていた。  外からの街灯の光が、わずかにそのシルエットを照らしている。  妙な女だった。  服装は、中世ヨーロッパの女性が着ていたようなワンピースにも見える。髪は全て頭で束ねた布で|覆《おお》われ、毛の一本も見えなかった。顔は、口も鼻もまぶたにもピアスが取り付けられていて、バランスが崩れているほどだった。目元には強調するようなキツい化粧が欄ざれていて、威圧感が余計に増していた。  そして、女の手。  そこには、全長一メートルを超す巨大なハンマーが握られていた。グリップの中ほどから先端にかけては、鋭い有刺鉄線がグルグル巻きにしてあった。|柄《え》を|掴《つか》まれないための防御策か、それとも|儀礼的《ぎれいてき》な装飾なのか。 (……、)  確かに|殴《なぐ》られれば痛いでは済まないだろうが、かと言ってサブマシンガンを手にして、装甲服で身を固めている集団に、あれだけで勝てるとも思えない。にも|拘《かかわ》らず、一体何をどうしたのか、黒ずくめの男|達《たち》は女の周囲に転がっていた。  意識のある者は一人もいないようだ。 (これは……)  サブマシンガンや装甲服で武装し、訓練を積んでいたであろう黒ずくめ達を、物音一つ立てずにどうやって無力化させたのだろう。 (似ている……)  情報の不足が、不気味さをより強調させる。 (地下街を出た所で、バタバタ倒れていった|警備員《アンチスキル》達とか……)  分かるのは一つ、彼女もまた、上条達の味方ではないという事だけだ。 (さっき、ぶっ|壊《こわ》れた車の|側《そば》で倒れてた黒ずくめの連中とか……ッ!!) 「お前は……」  |上条《かみじよう》は低い声で尋ねながら、|打ち止め《ラストオーダー》の上から起きて、立ち上がった。  対して、女は正体不明のハンマーを軽く揺らしながら、静かに告げた。 「『神の右席』の一人、前方のヴェント」  ヴェントと名乗った女は、イタズラのように舌を出す。 「目標発見。まあそんなワケで、さっさとぶっ殺されろ上条|当麻《とうま》」  舌に取り付けられた細い|鎖《くさり》がじゃらじゃらと落ちた。  ———その先端にあったのは、|唾液《だえき》に|濡《ぬ》れた小さな十字架。      6  |一方通行《アクセラレータ》の|潜《ひそ》む第三資源再生処理施設に、『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』は音もなく侵入する。  コンクリートの工場内に入ると、機械の音は想像以上に騒がしかった。  こちらも切るべきだったか、とナンシーは少し考えたが、余計に作業量を増やしても時間の|無駄《むだ》だ。おそちく今の|一方通行《アクセラレータ》はろくに能力を使えない状態だろうが、心理的な余裕を取り戻させるような事態は|避《さ》けるべきである。  ナンシーの周囲には五人ほどの|同僚《どうりよう》がいる。  彼女|達《たち》は|誘導《ゆうどう》係であるため、できるだけ『大人数』である事を誇示しなくてはならない。ナンシー達がやたらめったら銃弾を|撃《う》ち込む事で、標的が通路の奥へ逃げ込んだ所を別働隊が待ち伏せる———そういう作戦だった。  標的の通った|大雑把《おおざつぱ》な道は、先ほど同僚に預けた|嗅覚《きゆうかく》センサーで追尾できる。その上で室内を索敵していけば、まあ行き違いになるような事もないだろう。 (あと|懸念《けねん》するべきは、銃か)  嗅覚センサーでは、標的の|匂《にお》いは路上に|停《と》められていたワンボックスを経由してから、この施設へ向かっていた。車内には|誰《だれ》もおらず、予備の装備品を詰め込んだバッグがあった。ファスナーは開いていたから、もしかすると銃器を持っているかもしれない。 (いや、|一方通行《アクセラレータ》の|射撃《しやげき》能力はそれほどじゃない。能力に|頼《たよ》りきりの生活を送っていたヤツが、訓練を積んでいる訳がない。こちらの方がずっと有利と考えるのが妥当ね)  ナンシーはそう考えた。 (それにしても……)  生産作業の大半を自動化しているためか、コンクリートの建物の中はエアコンなどもなく、蒸し暑かった。外は冷たい雨が降っているはずなのだが、絶えず動く巨大モーターの熱などが充満しているのだ。  じりじりと少しずつ神経を|炙《あぶ》られながら、彼らは鋼鉄の通路をゆっくりと歩く。白々しい蛍光灯の明かりすら、熱を持っているように感じられた。  |緊張《ビんちよう》している。  だから|錯覚《さつかく》する。ナンシーはそう判断した。  チラリと|同僚《どうりよう》の顔を|窺《うかが》えば、黒いマスクで|覆《おお》われた彼らの動きも、|若干《じやつかん》ながらぎこちないというか、|強張《こわば》っている。  この施設は様々な要因で電波障害が起こる。  |一方通行《アクセラレータ》の能力は通信設備の補助を受けているらしく、『暴発の危険があるため、|一方通行《アクセラレータ》はほぼ確実にこの施設内で能力を使わない』というのが|木原数多《きはらあまた》の意見だった。  ナンシーを初め、ここにいる『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』のメンバーも、それは妥当だと考えている。これだけ制限が多い中では、滅多な事では能力は使わないだろう。強力な力であればあるほど、暴発のリスクは跳ね上がるのだし。  しかし、逆に言えば『追い詰められれば暴発覚悟で使ってくるかもしれない』という鮒叙は消せない。  本気になった|一方通行《アクセラレータ》を倒せるのは木原数多だけだ。  ナンシーが扱う銃弾や爆弾では、文字通り歯が立たない。 (だから『向こうが追い詰められたと感じる前に殺す』のが鉄則)  そのための誘導作戦だ。  標的はこちらに警戒するが、奥へ逃げ込んだ事で気を|緩《ゆる》める。その|瞬間《しゆんかん》を|狙《ねら》って別働隊が射殺する。それを成功させるためには、多少のリスクを負ってでも前に出て|一方通行《アクセラレータ》の注意を引きつける必要がある。相手は強大な能力を使えないとはいえ、銃を持っている可能性は高い。下手に陽動を演じる事だけに気を取られていては、頭を|撃《う》ち抜かれる危険もある。 (それはまぁ、緊張はするだろう。ここにいる連中は、私を含めて『さっさと殺す』事にしか慣れてない。こんな事態を念頭に置いた訓練など受けていないのだから)  兵隊にも種類がある。  ジャングルでの活動に人質を巡る交渉術は必要ないし、都市型のスナイパーは無人島での生き方を覚えなくても問題はない。|無駄《むだ》を省き、その時間を別に回し、一つ一つの分野に特化した訓練法を採用するからこそ、|尖《とが》った実力の特殊な部隊が数多く作られる。  つまりナンシー|達《たち》の置かれている立場は、砂漠戦のために訓練を積んだ兵隊達が北極圏の雪山を歩かされるようなものに等しい。 (できるのか……)  ナンシーは黒いマスクの下で、ごくりと|唾《つば》を飲み込んで、 (……できなければ死ぬ)  カキン、と。  その時、小さな金属音が、ナンシーの思考を|遮《さえぎ》った。 「!?」  ナンシー|達《たち》は一斉にそちらへ銃口を向ける。  しかしそこには|誰《だれ》もいない。隠れるようなスペースもない。ナンシーは体勢を保ったまま、すぐ近くにいる|同僚《どうりよう》に、目と指を使ってコンタクトを取る。 「(……機材の出すものとは独立した音だったわね)」 「(……|俺《おれ》も同感だ。だが人がいるにしては、隠れる場所がない。何より有利なポイントとは思えない)」 「(……何か音の出るものを投げたという可能性は?)」 「(……だとすると、標的はすぐ近くに|潜《ひそ》んでいる事になる)」  全員に|緊張《きんちよう》が走る。 「(……ロッド。|嗅覚《きゆうかく》センサーは)」 「(……待て。今、分析が終わる)」  鼓動が速くなる。引き金にかかる人差し指が小刻みに|震《ふる》えた。|皮膚《ひふ》と手袋の間に、うっすらと汗が湿る。  直後、  ガチン、と。  今度は|全《すべ》ての照明が一斉に落ちた。  まるでタイミングを計ったような|暗闇《くらやみ》。  光や音を使って緊張を促し、こちらを心理面からいたぶるための作戦。  まずい、とナンシーは今さらながらに気づいた。  ここでいたずらに引き金を引けば、密集している味方に被害が出る。銃口を上に向けようが、周囲は壁も|天井《てんじよう》も金属の塊だ。ばら|撒《ま》かれた弾丸は辺りを跳ね返ってこちらに|牙《きば》を|剥《む》くだろう。  銃の安全装置の事まで意識が向かない。  このガチガチの指先を下手に動かせば、それだけで引き金を引いてしまうのでは、という考えに|縛《しば》られる。|一方通行《アクセラレータ》はこちらが暗視装備を持っていない事にも気づいているようだ。 「(……待て!!)」  とっさに目でコンタクトを取ったが、暗闇であるために相手に届かない。  声で伝えるのが一番だが、それでは『敵』にこちらの居場所を伝える羽目になる。  ドッドッドッドッ!! と心臓の鼓動が不気味に|響《ひび》く。  引き金の指が震える。  引き金……銃声……暴発……とナンシーの頭にイメージが巡っていく。  そこへ、バァン!! という巨大な音が|炸裂《さくれつ》した。  心臓が止まるかと思った。 (くっ……あ……ッ!! あ、れは、スチームの排気音! ただの音だ!!)  人差し指が動くのを何とか|堪《こら》え、これを起こしている標的を捜すために、さらに五感に神経を集中させ始めた所で、 「がっ!?」  突然真横で低い声が|響《ひび》いた。  ゴトン、と人間の倒れるような|震動《しんどう》が、床に接地した足から伝わってくる。  つん、と鼻につく鉄の|匂《にお》いが感じられた。 (ま———ず)  冷静になれば、単に|暗闇《くらやみ》の奥からスパナなどを投げられただけだというのが分かっただろう。トリックをトリックだと見破れれば、逆にそれだけ心の余裕を取り戻せたかもしれない。  だが、  その『冷静さ』を段階的に奪っていく事こそが、敵の|狙《ねら》いだった。 (あの野郎……能力だけじゃなく、人の恐怖すらも利用して———ッ!?)  ナンシーがそう気づいた時にはもう遅く。  闇の中、全身に神経を集中させ始めた、まさにその時に。  がつん、と。自分の肩に工具がもう一本、それほど強くもない勢いで飛んできて。  自分でも自覚がない内に、思っていた以上に冷静さを奪われていた体は勝手に反応し。  引き金にかかる指の震えが[#「引き金にかかる指の震えが」に傍点]、一定値を超えて[#「一定値を超えて」に傍点]、  複数の銃声が響き、さらに多くの鉄の匂いが充満した。      7  真っ暗闇のファミレス店内は、異様な|緊張《きんちよう》に包まれていた。  |上条当麻《かみじようとうま》は、ヴェントと名乗った女と|対峙《たいじ》している。 (ちくしよう。次から次へと……)  この女が|魔術《まじゆつ》勢力の人間なら、先ほどと違って|幻想殺し《イマジンブレイカー》の出番となる。しかし、だからと言って安心できる訳がなかった。ヴェントの実力が本物なら、彼女はサブマシンガンで武装した四人を声も|漏《も》らさず|一瞬《いつしゆん》で|繊滅《せんめつ》できる腕前を持っているのだ。|幻想殺し《イマジンブレイカー》うんぬんの前に、瞬殺される危険すらある。  それに。  倒れている黒ずくめ|達《たら》の様子をじっくり見た訳ではないが、|怪我《けが》も出血もない状態は、今までさんざん見てきた『意識のない人達』とあまりに酷似している。もしもこの二つが同一のものだとすれば、学園都市全域の都市機能を|麻痺《まひ》させているのはまさに目の前のヴェントなのだ。  たった一人で科学サイドの頂点を|潰《つぶ》しにかかる女。  そう考えると、目の前の人物の危険度は黒ずくめ達の比ではない。 「|緊張《きんちよう》しなくても|大丈夫《だいじようぶ》ダヨ?」  じゃらじゃらと|鎖《くさり》を揺らしながら、ヴェントは告げた。 「痛みなんて感じるヒマもないんだから」  ヴェントは、右手に持っている有刺鉄線つきのハンマーを無造作に振った。  |横殴《よこなぐ》りの|一撃《いちげき》。  |上条《かみじよう》までの|距離《きより》は、軽く五メートル以上も|離《はな》れているはずだったが、 「!!」  |悪寒《おかん》に|襲《おそ》われ、今まで|庇《かば》っていた|打ち止め《ラストオーダー》を突き飛ばし、とっさに身を|屈《かが》めた上条の真上を、何かが突き抜けた。その正体は細かい破片を|呑《の》み込んだ風の塊だ。空気を食い、壁を破り、細かい|残骸《ざんがい》を中心部に呑み込み、透明から鈍い色に変わり、空気の鈍器が右から左へ、広範囲にわたって突き抜ける。  ガゴン!! と建物全体が斜めに傾いた。 (ハンマーを振り回して、飛び道具を|撃《う》ち出す|魔術《まじゆつ》か……?)  血の気が引いた上条の耳に、パラパラという|欠片《かけら》が降る音が聞こえる。  周りには一般客も倒れているという事を、全く気に留めていない動きだった。 「隠れてろ、|打ち止め《ラストオーダー》!!」  突き飛ばされた状態から起き上がろうとした|打ち止め《ラストオーダー》に、上条は叫ぶ。彼女が四角い柱の陰へ移動するのを確認しつつ、 (何なんだよ、黒ずくめといい、この女といい……ッ!!)  上条は|歯噛《はが》みしたが、当然それでヴェントが止まる訳がない。  ヴェントはさらに、後ろに下がりながら二度、三度とハンマーを縦に横にと適当に振っていく。じやらんじゃらん、と舌に|繋《つな》がる鎖が振り回されるように揺れていく。ハンマーの軌道は、いずれも舌の鎖を|掠《かす》めるような危うい軌道だった。現に数回、オレンジ色の火花が散っている。ほんの数ミリ|狙《ねら》いがズレれば舌と鎖とを繋ぐピアスを引き|千切《ちぎ》るはずだが、ヴェントの表情には余裕さえある。  ヴェントのハンマーが、空気を引き裂いていく。  ゴッ!! という爆音が耳を打った。  |破壊《はかい》の|嵐《あらし》が巻き起こる。  ハンマーは、重たい鉄球を飛ばすバットのようなものだった。テーブルが吹き飛び、床がめくれ上がり、倒れている黒ずくめ|達《たち》の手足が飛んで、ぐったりしている客の上にボトリと落ちた、|上条《かみじよう》の頭はカッとなったが、自分の方へ飛んでくる風の鈍器に対処するのが精一杯だった。  ドン!! と、上条の右手に触れた途端、空気の鈍器は|弾《はじ》けて消える。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。  あらゆる異能の力を打ち消すこの能力がなければ、彼の体はとっくに砕けているだろう。  風の塊は、ただ|真《ま》っ|直《す》ぐ飛ぶだけではない。右や左からカーブを描いて上条の進路を|塞《ふさ》ぐ事もあれば、足を止めた彼の頭上から真下へ突き落とす|一撃《いちげき》もある。 「ハハッ、|流石《さすが》はウワサの右手。よく頑張ってついてくるねぇ!!」  ヴェントは笑いながら、ハンマーを上から下へと思い切り振り下ろした。それに伴って、|破壊《はかい》の風が巻き起こる。 (縦か!!)  上条は慌てて右手を頭上に掲げたが、  風の塊は、右から左へと横へ[#「右から左へと横へ」に傍点]一気に突き抜けてきた。 「……ッ!!」  上条の全身から冷や汗が噴き出す。とっさに背中を反らし、上半身だけを後ろへ下げる。ゴオッ!! という嫌な音が顔の前を突き抜け、鼻先の|皮膚《ひふ》がわずかに削り取られた。  真横の壁が、ベゴン!! と音を立てて砕け散る。  ただでさえ斜めにズレていた|天井《てんじよう》が、さらに危うい|震動《しんどう》を発した。 (何だ? ハンマーと攻撃の軌道がズレてる……ッ!?)  上条の頭に疑問が|湧《わ》くが、ヴェントがいちいち答えるはずがない。 「ぎゃははははははっ!! たっのしぃーい!!」  動きに合わせてヴェントの舌についた長い|鎖《くさり》が左右に揺れる。  その先端に取り付けられた十字架が、ギラリと不自然な光を放った。  チカチカと、二度三度にわたって点滅が続く。  そこでヴェントは、あてが外れたといった顔で|眉《まゆ》をひそめた。 「なるほどなるほど」  ゴンガンバギン!! と|轟音《ごうおん》を立て、次々と荒い風の攻撃を打ちながらヴェントは興味深そうに|頷《うなず》いた。完全にあしらわれている。五メートルの|距離《きより》が詰められない。 「幻想殺し、って言ったっけ? その右手、報告にあった通り効き目バツグンみたいねぇ。所々に織り交ぜてる私の[#「所々に織り交ぜてる私の」に傍点]『本命[#「本命」に傍点]』が全く効いてないわー[#「が全く効いてないわー」に傍点]」  本命? と右手を振り回しながら上条は相手の言葉について考える。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》の報告があった、というのも気になる。ローマ正教の中で、上条|当麻《とうま》の重要度が変わってきているのかもしれない。 「しっかし、こんだけじゃ良く分からないし……よし、試してみるか」 「?」 「こうすんだよっ!!  ヴェントは腹の底から叫ぶと、手にあったハンマーを手前から横方向に振るった。  ボッ!! という|轟音《ごうおん》と共に、空気の鈍器が生み出される。  |上条《かみじよう》から|狙《ねら》いを大きく|逸《そ》らし、テーブルに突っ伏したまま気を失っている一般客へと。 「テメェ!!」  とっさに、飛び込むように右手を突き出した。客の頭のわずか手前で空気の鈍器が右手の先に触れ、四方八方へ吹き飛ばされる。その|一撃《いちげき》には、ゾッとするほどの威力が含まれていた。  頭の|芯《しん》まで通る怒りが上条を|襲《おそ》う。  それを眺めて、ヴェントは興味深そうに目を細めた。 「……へぇ、そうなってんのねえ。意外に使い勝手は悪そうに見えるけど?」  戦力調査か、と上条は思った。  ヴェントは|幻想殺し《イマジンブレイカー》の具体的な効果範囲でも調べているのかもしれない。 「すみませーん」  今の所、攻撃は防ぎ続けているが、ヴェントの顔に|焦《あせ》りはない。 「なーんか痛みを感じる間もなくってのは無理みたい。コイツは直接ぶっ殺さなくっちゃあ、ね。意識が残ってると|無茶《むちや》イタイっつーか、こりゃショックで死ぬでしょうね。だから幸せに なりたかったらマゾにでも目覚めてね?」  じゃらん、という|鎖《くさり》の|擦《こす》れる音が聞こえた。  ヴェントの舌についた鎖が、彼女の動きに流されて、右から左へ弧を描いていた。ヴェントはその鎖に|掠《かす》めるようにして、ハンマーを縦方向に思い切り振り回す。  バヂッ! とオレンジ色の火花が散った。 (ッ!? さっきっから)  それを吹き飛ばすように、右から左へ戻るカーブの軌道で空気の鈍器が|襲《おそ》いかかってくる。 (ハンマーの動きと|攻撃《こうげき》の動きがズレてやが———)  舌に取り付けられた鎖の軌道をなぞるように。 (このパターン!?)  そちらに|誘導《ゆうどう》されるように。 「まさか……その鎖の十字架!!」  |上条《かみじょう》は右手で風の武器を握り|潰《つぶ》しながら叫ぶ。  応じるようにヴェントは笑った。 「やーん、バレちゃったーっ!?」  さらに十字架のアクセサリをつけた長い鎖が縦横無尽に軌道を描いていく。ヴェントが鎖に掠めるようにハンマーを振るたびに、鎖のラインをなぞるようなルートを|辿《たど》って空気の鈍器が飛んでくる。 (ちくしょう! 分かっていても防ぎづらい!!)  |衝撃波《しようげきは》を生み出す大振りなハンマーの軌道に、ついつい反応しかけてしまう。しかし実際には、ハンマーと鎖の動きはそれぞれ違っていた。上から振り下ろされたと思えば鎖はカーブのラインを描いているし、真横にハンマーが振るわれたと思えば鎖は下から上へ向かっている。 『攻撃のモーション』と『実際に飛んでくる攻撃の方向』がそれぞれズレているのだ。少しでも視覚を|騙《だま》されれば、反応が遅れて体を切断されてしまう。 「くそっ!!」 「あらん。何だか面倒臭くなってきちゃったなオイ」  ゴッ!! と、一層強く風の鈍器が襲いかかってきた。  その上、鈍器は直接上条を|狙《ねら》わず、わずか手前の床に落としてきた。床材がめくれあがり、大量の木片へと|変貌《へんぼう》し、鋭い破片となって上条の体に襲いかかる。 「ぎっ、ァァああああああッ!?」  一ヶ所を刺されるというより、全身を|叩《たた》かれた。  上条は後ろへ飛ばされる。そのままゴロゴロと転がっていく。  痛みに|朦朧《もうろう》とする頭を振って、必死に意識を回復させる。  いつの間にか、|打ち止め《ラストオーダー》のすぐ後方まで押しやられていた。  ハッと、|上条《かみじよう》は床から顔を上げる。  柱の陰に隠れていたはずの|打ち止め《ラストオーダー》が、立ち上がってこちらへ駆け寄ろうとしている。 「逃げろ!!」 「んふ」  上条の絶叫に、ヴェントは楽しそうに楽しそうに笑った。  彼女の|攻撃《こうげき》なら、柱ごと|打ち止め《ラストオーダー》を|叩《たた》き|潰《つぶ》すのも難しくはない。  |打ち止め《ラストオーダー》は動かない。動けないのか、自分の意思で動かないのか、上条には分からない。  このままでは、彼女の小さな体はグチャグチャの肉に変わってしまう。 「くそっ!!」  上条は床から走り出すと、突っ立っている|打ち止め《ラストオーダー》を床へ突き飛ばした。彼女が倒れるのと、ヴェントの攻撃が放たれるのは同時だった。生み出された空気の鈍器は|容赦《ようしや》なく柱をへし折り、。そこで上条の右手に打ち消される。それでも大量の破片が|撒《ま》き散らされた。  ここはもう危険だ。  |打ち止め《ラストオーダー》を一刻も早くここから|避難《ひなん》させなければ。 「行け!! 早く!!」  上条は叫んだが、|打ち止め《ラストオーダー》は|呆然《ぽうぜん》としながらも、首を横に振った。  見捨てたくはないのだろう。 「早く!! 助けを呼んできてくれ!!」  だから上条は、|叶《かな》うはずもない|偽《いつわ》りの目的を与えた。 そこまで言われて、彼女はようやくふらふらと立ち上がった。しかし、転んだ拍子にボケットの中身が散らばったらしい。床に、オモチャのように見える甘い味のグロスや|可愛《かわい》らしい子供用の携帯電話が落ちているのを見て、|打ち止め《ラストオーダー》はもう一度|屈《かが》みそうになり、 「拾うな!!」  上条の絶叫に、彼女はビクッと肩を|震《ふる》わせて、小さな足で走っていった。割れた窓から道路へ出て行く。その背中は|焦燥《しようそう》に駆られ、ほとんど自失しているようにも見えた。  ヴェントが有刺鉄線を巻いた巨大なハンマーを小柄な少女へ向けた。  しかし上条は回り込むように、|打ち止め《ラストオーダー》との直線を|塞《ふさ》いだ。その間に、建物が鈍く|震動《しんどう》する。 あちこちの柱を砕かれたせいか、|天井《てんじよう》が一気に斜めに崩れかける。|打ち止め《ラストオーダー》が出て行った一面のウインドウが、落ちてきた天井に潰され、塞がれた。  標的を一人逃したヴェントだが、その顔に|苛立《いらだ》ちはない。  むしろ愉快そうに笑いながら、上条に話しかける。 「アンタって残酷ねぇ。あーんな小さな子供にとって、|暗闇《くらやみ》の中をあてもなく逃げ続けるって相当の重荷だと思うけど。恐怖でガチガチになって|壊《こわ》れ始めてるかもね」  巨大なハンマーを揺らし、 「そんな目に|遭《あ》わせるぐらいなら、|一緒《いつしよ》に殺してあげた方が幸せなんじゃなーい?」  その声に、|上条《かみじよう》は思わず床に|唾《つば》を|吐《は》いた。  コイツは最悪だ。 「……重荷なんか背負わせねえよ」  改めて右手の|拳《こぶし》を握り|締《し》め、彼は告げる。  楽しそうに笑っているヴェントに向けて。 「|俺《おれ》が迎えに行けば何の問題もねえ。だから俺は死なない」 「アラ楽しい♪ でもでも、|五臓六蔚《こぞうろつぶ》をシェイクして人肉ジュースにしてもおんなじセリフを言えるかしらーん?」  ハンマーを振り回す鈍い音が|響《ひび》く。舌の|鎖《くさり》がじゃりりと揺れる。 「まぁ、こっちの標的はアンタなワケだし、異教の猿に|煩《わずら》わされんのもムカつくし。素直に逃げないってんなら|狙《ねら》いやすくて大助かりなんだけどさぁ!!」  さらに複数の風の鈍器が吹き荒れ、ファミレス店内が無造作に|破壊《はかい》されていく。      8  照明のない工場の中、|一方通行《アクセラレータ》は息を|潜《ひそ》めている。  こちらの作戦は、最初の手さえ整えてしまえば、後はこちらのものだった。  |一方通行《アクセラレータ》はワンボックスの中からいくつかの装備を奪っている。その内の一つが|杖《つえ》代わりのショットガンであり、もう一つが小さな無線機だった。  これも作戦に使える。  現在敵の集団は|暗闇《くらやみ》の中での同士討ちを恐れ、それぞれバラバラに散らばりながら無線で連絡を取り合っていた。|一方通行《アクセラレータ》はその中に紛れ、雑音混じりの声で『味方』を演じ、さらにデタラメな情報交換を行って敵の連携を切り崩していった。向こうもすぐに|一方通行《アクセラレータ》が割り込んでいる事には気づいたようだが、飛んでくる声のどれが仲間のもので、どれがダミーなのか、区別する方法がない。結果として、連中は『|全《すべ》ての声』に対して疑惑を深めていく。  無線が使えなければ、味方の現在位置も分からなくなる。  敵は人影を発見しても、『同士討ちを恐れる(または同士討ちされる事を恐れる)』ため、標的を狙う速度は鈍り、味方間での連携は途切れていく。これに対し、|一方通行《アクセラレータ》はただ『人影は全て敵』として行動すれば良い。これが彼にとって大きな利点となる。 『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』の脅威は『銃器』と『集団』にある。  今の手で、すでに相手はその両方をほとんど失ったと言っても問題はない。  能力を使わない、この手の恐怖を|煽《あお》る戦術は|一方通行《アクセラレータ》にとって今日が初めてだったが、相手は面白いほど引っかかった。やはり、恐怖というのは人類共通のものなのか。路地裏では、 |一方通行《アクセラレータ》は何もしなくても恐怖の象徴として君臨していた。そのやり取りを少し真剣に煮詰めて利用しただけで、これだけの大成果だ。  |奴《やつ》らはもう敵ではない。  ただの動く的だ。 (さて)  無線と恐怖によって、奴らはバラバラに寸断され、|各々《おのおの》が孤立している。ここで暴れても、援軍が駆けつけるまで数分間の余裕があるだろう。周りを気にする必要は、ない。  |一方通行《アクセラレータ》は|暗闇《くらやみ》に|潜《ひそ》みながら、口元に笑みを張り付かせた。  その視線の先には、仲間とはぐれて一人きりでビクビクと索敵している獲物がいる。 (腹ァいっぱい喰わせてもらおうか、丸々太ったケモノども)  標的との|距離《きより》はおよそ一五メートル。  ショットガンは近距離なら近距離なほど威力が増す。そういう点では、この距離はまだ最上とは言えないが、|一方通行《アクセラレータ》は壁に背を預け、|杖《つえ》を床から|離《はな》すと、適当に|狙《ねら》いを定めて発砲した。  ゴン!! と。  耳を破裂させるような|轟音《ごうおん》と共に、|衝撃《しようげき》が肩を|潰《つぶ》しにかかる。予想通り散弾は標的にぶつかる前にあちこちへ散らばった。しかし周囲にあるのは。硬いコンクリートや金属プレート。複数の弾はピンボールのように跳ねると、様々な角度から黒ずくめに激突した。  絶叫が|響《ひび》く。  暗闇の中、液体を||撒《ま》き散らして、人聞のシルエットがアクション映画のように回転した。|一方通行《アクセラレータ》はそれを確認してから、ショットガンを杖代わりに黒ずくめへ近づいていく。  そいつは腕をやられたようだった。  右腕をショットガンの弾丸にやられ、回転しながら床に落ちたため、もう片方の手もひねったらしい。  手にしていたサブマシンガンが遠くへ滑っている。予備のハンドガンを抜こうとしているようだが、両腕が潰されているため、思うように武器を取れない。  無様な|芋虫《いもむし》だった。  |一方通行《アクセラレータ》は近くの壁に手を掛け、黒ずくめの|頬《ほお》に横からショットガンの銃口を押し付ける。 「じょ、冗談でしょ……?」  意外にも、声は甲高い。よくよく見れば、黒ずくめの格好でも女性的なラインが分かる。 「冗談? そーォだなァ」  どうでも良いか、と|一方通行《アクセラレータ》は適当に切り捨てて、 「新ネタだ」  引き金を引いた。  ドバン!!という鈍い発射の|衝撃《しようげき》に、|一方通行《アクセラレータ》の体が耐え切れずに後ろへ転がった。片手で|撃《コつ》つよォな銃じゃねェな、と思った。頭を振りながら起き上がると、目の前で黒ずくめの女がのた打ち回っていた。 「おっ、おふっ、ぼぅぅああああああああああッ!?」  |潰《つぶ》れかけた両手で口を押さえているのだが、その両手が妙に顔の奥まで澱っていた。誕から下をショットガンで横に吹き飛ばされたからだ。その手をどければ、上の歯だけがズラリと並んでいるのが分かるはずだった。  |一方通行《アクセラレータ》は、自分の|頬《ほお》に温かいものが付着しているのに気づいた。  舌を動かして口に含み、|唾液《だえき》と共に|咀嚼《そしやく》する。 肉の味がした。 「あは」  思わず笑みがこぼれる。  |戦闘《せんとう》不能の女にいっぽでも時間を箭く必要はない。|一方通行《アクセラレータ》としては、早くここを立ち去るべきだ。銃声を聞けば|他《ほか》の『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』がやってくる。彼らに見つかり、正面から弾丸を撃た れる展開は望ましくない。あくまで|暗闇《くらやみ》に|潜《ひそ》み、獲物を一人ずつ|潰《つぶ》していくのが最善だ。だから立ち去った方が良い、と|一方通行《アクセラレータ》は思う。一刻も早く。  だが[#「だが」に傍点]。  ショットガンを|杖《つえ》の代わりにして、彼はふらふらと立ち上がった。  何だかタノシク[#「タノシク」に傍点]なってきた。  |駄目《だめ》だと思っているのに、|弾《はじ》けるようなカイホウカン[#「カイホウカン」に傍点]を抑えられない。  彼はくちゃくちゃぺちゃぺちゃと口を動かしながら、|顎《あご》を吹っ飛ばされた女の前に立つ。 「……おーおー、おしゃぶり上手なツラになりやがって」  ビクッと、顔の下半分が消えた女がこちらを見る。  今、自分がどんな顔をしているか、|一方通行《アクセラレータ》には想像もつかない。 「どのツラ下げて生きてンだァ! ふざけンじゃねェぞコラ!!」  ともあれ、床を|這《は》っている女の腹を|蹴飛《けと》ばす事にした。  ドンゴンガギッ!! という鈍い音が連続する。五回蹴って一〇回蹴って一五回蹴って二〇回蹴って、としている内に、不意に女の体が暗闇にフッと消えた。  見ると、そこは金属加工用のプレス機のようだった。  |崖《がけ》のようになっていて、ここからベルトコンベアを通じて鉄製品などを落としていき、プレスして固めるらしい、深さは三メートル程度、広さは一〇メートル四方といった所だった。すでに空き缶やスチール製の棒などが山積みにされている事を考えると、実際にはもっと深さがあるのかもしれない。  女は三メートル下でもがいていた。  両腕を傷つけられ、顔の下半分を吹っ飛ばされた無様な人間。  それを見ても、|一方通行《アクセラレータ》は哀れみを感じなかった。  チラリとプレス機投入口の隅へと視線を投げる。ほとんどの設備はコントロールルームで制御しているはずだが、一応手動の設備もあるらしい。|壁際《かべぎわ》には、いかにもそれらしい大きなボタンがあった。  女も、|一方通行《アクセラレータ》が何を観察しているのかを理解したらしい。  頭上の投入口を見上げながら、何かを|懇願《こんがん》している。 「あふぇ、あふへ、ふぁらはへ……」 「悪りィなァ」  |一方通行《アクセラレータ》は|遮《さえご》るように一言謝って、 「|誰《だれ》ェ敵に回したか分かってンのかオマエ」  ダン!! と。  |掌《てのひら》を壁に|叩《たた》きつけるように、大きなスイッチを押した。  そこには一切の|容赦《ようしや》がない。  こうん、という鈍い鈍いモーターの作動音が、施設中に|響《ひび》き渡っていく。 「さアって……」  |一方通行《アクセラレータ》は、もはやそちらを眺めずに、熱い吐息を|漏《も》らしながら|排徊《はいかい》を再開する。 「次のエモノは、どこで迷子になってンのかなァ……」  口元には、ぱっくりと左右に引き裂かれた笑みだけがあった。      9  ヴェントの|攻撃《こうげき》で、ファミレスの店内が次々と|破壊《はかい》されていく。  |上条《かみじよう》が追い詰められるまでに時間はかからなかった。 彼は血まみれになって、崩れた壁に背中を預けている。いかに|幻想殺し《イマジンブレイカー》で直接的な攻撃は|全《すべ》て防げるとしても、彼は|壊《こわ》れた床やテーブルの破片は|弾《はじ》けない。  結局、狭い店内では上条の取る道も少なくなってしまう。  一点に追い詰められれば、もう右手で防ぎ続けるしかない。ヴェントの攻撃回数はそれほど多くもないが一発一発の軌道が複雑で、そちらを読んで行動しなければならないため、どうしても上条の手は遅れ気味になってしまう。  単純な破壊力なら|超電磁砲《レールガン》の|御坂美琴《みさかみこと》に劣るだろう。上条が美琴をあしらってこれたのは、地形的な問題もある。彼女とやり合う場合、上条は絶対に狭い場所は選びたくない。好き勝手に動き回り、自由自在に逃げ回れる広い場所でないと向き合おうともしない。  そうでないと、あっという間に追い詰められてしまうからだ。  しかし、この|潰《つぶ》れかけたファミレスには、 (……|他《ほか》にも、倒れてる人|達《たち》が……)  正体不明の攻撃を受けて、あちこちに客やウェイター達が意識を失ったまま転がっているのだ。ヴェントの攻撃を直接受けるのはもちろん、建物ヘダメージを与えすぎても、|天井《てんじよう》が落ちて全員を潰してしまう恐れがある。  上条は必要以上に周りへ気を配りすぎていた。  そしてヴェントの目にも、それが明らかに見えすぎていた。 「やっさしいわねー」  くすくすと笑いながら、ヴェントは巨大なハンマーを水平に構える。 「自分の心配しなくて良いのかしら。ほら♪」  ビュッ!! と軽々しい仕草で武器が振るわれる。  ヴェントの舌についた|鎖《くさり》は、上条の顔から横に|逸《そ》れる軌道を描いていた。  風の鈍器は|上条《かみじよう》から照準をわずかに横に曲げていた。上条が手を伸ばしてもギリギリ届かない辺りへ、わざわざ調節して。 「ッ!!」  上条が全力で跳び、客の一人にぶつかる直前で右手で|弾《はじ》く。  今度はヴェントが反対方向へ風の鈍器を放つ。  バレーボールのレシーブ練習のように、上条の体は|翻弄《ほんろう》される。周囲の客へと次々と弾を飛ばし、それでいて時折フエイントで上条自身に目がけて一発が|襲《おそ》いかかる。ムチャクチャな動きを要求され、息が上がる。彼の体に残されていたスタミナが、あっという間に奪われていく。 「テメェ!!」 「んーふふー? 今さら熱くなってどうすんのよ。学園都市が今どうなってっか分かってんでしょ。私が他人を気にするような性格なら、最初っからあんなマネはしないわよん」 「くそっ!!」  まさかと思うが、これだけ派手な事|全《すべ》てが、上条|当麻《とうま》一人を殺すために起こされたとでも言うつもりなのだろうか。  いくら何でもそれはないと思った。  たかが一介の高校生を一人殺すのに、これでは大規模すぎる。 「自分の価値に気づきなさいなー」  ヴェントは気軽に言いながら、さらに巨大なハンマーで空気を|薙《な》ぐ。 「私の目的は上条当麻[#「私の目的は上条当麻」に傍点]。それ以外は全部おまけ[#「それ以外は全部おまけ」に傍点]。あの禁書目録ですら、アンタに比べりゃ軽いってコトよ」  あっさりと、彼女はそう告げた。 「今のアンタは間違いなくローマ正教の敵。そして我々はどんな手を使ってでも敵を殺す。極端な発言をしてあげよう。我々は、日本という一国家を消滅させてでもアンタを殺すわよ。……と言っても、その右手の事[#「その右手の事」に傍点]を考えると、私のいつものパターンは使えなさそうだけど。何せ、直接殺さなくちゃならないみたいだしね」  言いながら、ヴェントは手品のように取り出した書類をヒラヒラと振った。  何らかの命令書かもしれないが、暗がりでは読めない。そもそも日本語で書かれているのかも怪しい。 「この通り、ローマ教皇じきじきのサインつき。アンタは二〇億人から|狙《ねら》われる身なのよ」  何だそれは、と上条は相手の|台詞《せりふ》に|愕然《がくぜん》とした。  ここでローマ正教という言葉が出てきた事に対しても、自分一人のために国家を一つ歴史から消すという、あまりにもスケールの違う話についても。  これまでは、上条当麻は『何らかの事件の中心に自分が巻き込まれていく』事が多かった。彼自身を中心として事件が起こるのは、八月三一日のアステカの|魔術師《まじゆつし》の時以来か。  |慄然《りつぜん》とする|上条《かみじよう》に、ヴェントは書類を再び手品のように隠し、 「冗談に聞こえるカナ? そんじゃ、冗談じゃ済まないコトをやって目を覚ましてあげよう」  ヒュン、とハンマーを構え直し、ヴェントは|微笑《ほほえ》む。  舌の先につけられた|鎖《くさり》が動き、十字架が左右に小さく揺れていた。 「何を……ッ」 「これから店内にいる人間全員を殺す[#「これから店内にいる人間全員を殺す」に傍点]」  上条の息が詰まった。  ヴェントはニコニコと微笑みながら続ける。 「そっちの方がアンタが苦しみそうだから。そんなつまんない理由だけで皆殺しにしてやる。そこまでやれば、いい加減にアンタだって事情を|呑《の》み込めるでしょ」 「やめろッ!!」  上条は状況を無視して、思わずヴェントの立つ方へ走り出した。彼女は笑いながら後ろへ下がる。下がりながら、首を大きく振った。じゃりり、という金属が|擦《こす》れる音と共に、舌に取り付けられた鎖が、ヴェントを取り囲むように|螺旋《らせん》を描いた。  この状態でハンマーを振るえば、ヴェントを中心に|破壊《はかい》の渦が巻き起こる。 「吹っ飛べコラ!!」  |咆哮《ほうこう》と共に、ヴェントの右手が動いた。  ゴッ!! という|轟音《ごうおん》が|響《ひび》く。  明かりのない|廃嘘《はいきよ》のようなファミレス店内に、鉄のような|匂《にお》いが充満した。      10  暑苦しい工場の|暗闇《くらやみ》の中に、短い呼吸音が鳴る。  物陰に隠れている『|猟犬部隊《ハウンドドツゲ》』のヴェーラは、|誰《ぜれ》からも『何でこんな所へ|堕《お》ちたのか想像がつかない』と言われるような女性だった。明るく、|人懐《ひとなつ》っこく、それでいて他人との|距離《ヨより》の測り方にも失敗しない。頭脳労働、肉体労働ともにそつなくこなす。そういう人間だ。  彼女にも彼女なりの事情があるのだが、そういった事を他人が興味を持っても、上手くかわすだけの話術があった。  ともかく『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』というクズみたいな集団の中で、それなりの良識を持っていたヴェーラは他人との協調を求めていた。互いが互いを|蔑《さげす》み合うあの集団の中で、そういった行為は浮いていたのだが、ヴェーラは少しでも『仲間』と|信頼《しんらい》を築きたかった。  だが、 (……無線がやかましい)  悲鳴や救援を求める声がひっきりなしに聞こえてくるが、ヴェーラの反応は|億劫《おつくう》そうなものだった。その内のどれが本物でどれが|罠《わな》かも分からない。仲聞を助けると言って単独行動を取ったケインズとは、あれから連絡が取れない。|迂闊《うかつ》に答えるのは危険だという事だ。  もう|誰《だれ》も信じられない。  ゆっくりと築いていこうと思っていたものは、|全《すべ》て今この場で崩れ去った。 「う……」  思わずヴェーラの口から|鳴咽《おえつ》が|漏《も》れる。  とにかく一度この施設から出て仕切り直した方が良い。出口にも罠がある、とロッドが無線で言っていたが、逆にその手の警戒報告は怪しい。あれは本当にロッドだったのか。多少のりスクを負ってでもここを出るべきだ。ここにいる『仲間』を置いてでも。全滅を|避《さ》けるために。 (最悪だ……。最悪の一日よ……)  ふらふらとおぼつかない足取りで、ヴェーラは出口を探し始めた。もう戦意はない。必要以上の|緊張《ぽんちよう》が、かえって彼女の集中や思考をぶっ切りにしていく。  と、そこで気づいた。 (無線が……)  あれだけ|騒《さわ》がしかった無線から、いつの間にかサァーッという一定のノイズしか返ってこなくなっていた。余計に場を混乱させると思って今まで無線で発言はしなかったのだが、ここにきて急に心細くなってきた。ヴェーラはスイッチを押して、唇を寄せる。 「こちらヴェーラ、ヴェーラ。状況の報告を。オーバー」  尋ねても返事はなかった。  ドッと汗が噴き出る。自分の無線も|偽物《にせもの》だと|一蹴《いつしゆう》されてしまったのか、それどころか、まさかすでに全員が|一方通行《アクセラレータ》の|餌食《えじき》になったのでは、などと最悪の連想が頭をよぎる。 (いや、それとも)  思考の逃げ道を探していたヴェーラは、別の可能性を思いつく。 (私と同じで、すでに生き残った全員は一度外へ|退避《たいひ》したのかも。施設の壁は分厚いから、中と外での電波の|遮断率《しやだんりつ》が大きい。みんなが外に出てしまえば、こちらの電波は届きにくいはず)  その場合、ヴェーラは『仲間』から見捨てられた事になってしまうのだが、そちらの方がまだマシだと思った。こんなゴミ処理施設で「仲間』が全滅したのに比べれば。 (そうよ。『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』がこんな簡単にやられるはずがない。|一方通行《アクセラレータ》が取った|暗闇《くらやみ》戦術は、|完壁《かんぺき》な闇の中でなければ効果がない。月明かりの下なら、私|達《たち》は無線がなくても敵味方を区別できる。なら、施設の外に出て応対した方が効率的だわ)  そうと分かれば自分も安全な外へ出た方が良い。  ヴェーラは自分の中で結論付けると、今までよりも|若干《じやつかん》力強い足取りで出口を探す。  自分にはまだ希望がある。  みんながもう一度集まれば|一方通行《アクセラレータ》だって怖くない。 そう思っていたからこそ、  プレス機に|潰《つぶ》されている自分の|同僚《どうりよう》を見た|瞬間《しゆんかん》。  ヴェーラの思考はグルリと回って、一気に恐慌状態に|陥《おちい》った。  厳密には、ヴェーラからでは『潰れている同僚』はダイレクトに見られない。彼女の目に映っているのは、ただのスチール用品をプレスして塊にするための設備だった。床から三メートルぐらい掘り下げてある区画がある。左右の長さは大体一〇メートルぐらいか。  プレス用の分厚い鉄板が落ちていた。  にも|拘《かかわ》らず、その鉄板の向こうから呻き声が聞こえるのだ[#「その鉄板の向こうから呻き声が聞こえるのだ」に傍点]。 (……ナンシーっ!!)  なまじ仲間思いであるが| なまじ仲間思いであるが|故《ゆえ》の間にもギチギチミシミシと音を立てて、分厚い鉄板はゆっくりと下に向かい続けている。 「う、うああ。うああ、ああ、あッ!!」  ほとんど|錯乱《さくらん》状態で、壁にあったボタンに|掌《てのひら》を|叩《たた》きつけた。ガグン、という音と共にプレス機の動きがようやく止まる。  |呻《うめ》き声はまだ続いていた。  この鉄板からの圧迫に、生身の人間が耐えられる訳がない。おそらくナンシーが生きているのは、床一面にプレスを待っていた金属パーツが|敷《し》き詰められていたからだろう。ナンシーの体は、金属パーツの山というクッションに沈んでいる状態なのだ。  それでも死にそうなのは間違いない。  いっそ、簡単に死ねなかった分だけこちらの方が|辛《つら》いのかもしれない。  壁にある別のボタンを押せば、鉄板は上に戻る。  それでナンシーを助けられるかもしれない。  だが。  そのボタンの表面に、何かがべったりとこびりついていた。自動販売機の横にあるゴミ箱のような、黒っぽい粘液だ。ボタンを押すには、その汚れに触れなくてはならない。  汚れの正体が人聞の血と肉であっても[#「汚れの正体が人聞の血と肉であっても」に傍点]。  グチャグチャに潰れた骨と皮膚のついた細かい肉がそのままこびりついていたとしても[#「グチャグチャに潰れた骨と皮膚のついた細かい肉がそのままこびりついていたとしても」に傍点]。 「———ぁ、は?」  意識の細い糸が切れた。  ぶちん、という小さな膏が聞こえた気がした。 「うがぁ!? ぎゃあ!! ぎゃああああああああああっ!!」  ヴェーラは|喉《のど》が裂けるほどの勢いで叫ぶと、全力で後ろへ下がった。もうこれ以上は耐えられなかった。今までの自分を作っていたものがボロボロに崩れる感覚を確かに得ていた。水滴の一粒でも肌に落ちたら、そのショックで絶対に死ぬと思った。  そんな状況で何かに足を取られ、ぬめった感触と共にヴェーラは|尻餅《しりもち》をついた。  足元を見ると、そこにはぶよぶよした|一掴《ひとつか》みほどの肉がへばりついていた。  グチャグチャになっているが、どう考えてもそれは人間の|下顎《したあご》だ。 「うわあぁああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  振り払って逃げようとした。  しかし|闇雲《やみくも》に視線を動かそうとした所で、別の|同僚《どうりよう》と出会った。いや、出会った、と表現して良いかは分からない。体を太い針金で固定された上、切断された蒸気パイプから噴き出した高温のスチームを浴びせられて|高温のスチームを浴びせられて|茄《ゆ》かは|謎《なぞ》だ。  |吐潟物《としやぶつ》が噴き出した。  顔を|覆《おお》うマスクが|邪魔《じやま》になってを漏らしながら、しかしヴェーラは不快感を気にしている様子もない。それどころではない。 「ひっ、うあ、ああああああああああ……」  |薄《うす》く薄く伸ばしたような声が、自分の口から延々と漏れる。  ヴェーラは|沈黙《ちんもく》した無線機を見る。  こういう事だったのだ。  沈黙が示す意味は単純だ。作戦も何もない。巻き返しも逆転の策もない。おそらく施設の外に出た同僚など一人もいない。『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の面々は全員が全員、こういう風に第三資源再生処理施設の不気味なァトラクションに巻き込まれて全滅したのだ。おそらく今の自分のように、精神面からボロボロに追い詰められ、まともな判断能力すら奪われ、|呆然《ぽうぜん》と立ち尽くしている所を|弄《もてあそ》ぶように料理された。  ヴェーラの手から握力が消えた。  無線機とサブマシンガンがゴトンと床に落ちる。ヴェーラ自身も、|膝《ひざ》から崩れ落ちた。  自分は一体|誰《だれ》と戦っている?  これまでの|一方通行《アクセラレータ》は、わざわざ武器など使わなかった。地形なども|考慮《こうりよ》しない。|全《すべ》ての障害を自分の超能力だけで|薙《な》ぎ払って前進するだけだった。|故《ゆえ》に、能力を制限されている今なら戦略次第でいくらでも倒せる相手だとばかり思っていた。  しかし、今はもう違う。  武器を使う。建物も利用する。こちらの心理を先読みし、最も効率的に|掩乱《かくらん》する方法を編み出して実行する。単純に怒りに任せて|叩《たた》き殺すだけでなく、相手に最大の精神ダメージを与えられるなら、殺さないという選択肢まで採り始める。  恐るべきはその精神的な成長速度だ。ただ能力に|頼《たよ》り切っただけの子供ではなくなった。持てる物を|全《すベ》て利用して人を殺すようになった。今の時点でも十分な脅威である|一方通行《アクセラレータ》は、おそらくこれからさらに加速していく。|誰《だれ》の手にも負えないほどに、世界を|叩《たた》き|潰《つぶ》すほどに。  あまりの|驚愕《きようがく》に、ヴェーラの神経は|麻痺《まひ》していた。  もはや恐怖を得る資格すら奪われていた。  怪物だ。  愚かにも、『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』はその卵の殻を破る手伝いをしてしまったのだ。  カツン、と。  小さな足音が、ヴェーラの真後ろで鳴った。  彼女は振り返らず、うな垂れたまま小さく笑っていた。      11  ごぽっ、という水っぽい音が、暗いファミレス店内に|響《ひび》いた,  血の塊が、ぽたぽたと床にこぼれていく。  |上条当麻《かみじようとうま》は、目の前の光景を前に、|殴《なぐ》りかかろうとする体勢で思わず立ち止まっていた。  間違いなく鮮血だった。  彼は、赤色の噴き出した一点を、|呆然《ぽうぜん》と見る。  今まで勝ち誇っていた、ヴェントの口元を。 「ごっ……」  彼女は体をくの字に折り曲げ、口に両手を当てて、ごぽごぽと短く|咳《せ》き込んだ。そのたびに、指の|隙間《すきま》からぬめぬめとした重たい液体がこぼれていく。 「が、は。ああ」  ふらふらとした動きで、一歩、二歩と後ろへ下がる。その仕草に、これまでの余裕はなかった。演技をしているようには見えない。本当に苦しんでいるように思える。 (何が……)  突然の出血に、上条は冷水を浴びせられたように思考が|遮断《しやだん》されかけたが、 (|魔術《まじゆつ》の副作用とかか? コイツには悪いけど、チャンスかもしれない)  意識が戻った。  苦しんでいる人間に|拳《こぶし》を振るうのは|若干《じやつかん》抵抗があるが、ハッキリ言えば|綺麗事《きれいごと》を並べているだけの余裕がない。倒せる時に倒さなければ、こいつはさらに多くの|犠牲《ぎせい》を遊び半分で巻き起こすだろう。  上条は歯を食いしばり、覚悟を決めると、右拳を握り|締《し》めた。 「ぐ、ァァあああッ!!」  だが、その前にヴェントはぐるりと方向転換すると、見当違いの方へ有刺鉄線を巻いたハンマーを振り回した。  舌の|鎖《くさり》を|掠《かす》める軌道を取り、鎖とハンマーが火花を散らす。  今までの軽々しい|雰囲気《ふんいき》はない。酔っ払いが|殴《なぐ》りかかるような乱雑で暴力的な動きだった。  ごばっ!! という重たい|破壊音《はかいおん》と共に、壁に大穴が空く。  ヴェントはそちらへと走る。  追いすがる|上条《かみじよう》に|牽制《けんせい》の|攻撃《こうげき》を二発、三発と放ちながら、彼女は建物の外へと飛び出して行った。 「……、」  正直、追うべきなのか、逃げてもらって助かったのか、良く分からない状況だ。 (なん、だったんだ?)  ヴェントは建物の外から、この店ごと上条を|潰《つぶ》すような事はしなかった。|他《ほか》の客に気を遣うような性格をしているとは思えない。おそらく身に起きた異変に対処するのが精一杯で、他の事まで頭が回っていないのだろう。  上条は、降りかかってきた新たな問題を、少しずつ整理していく。 『神の右席』。  前方のヴェント。  そして、ローマ正教。      12  |白井黒子《しらいくろこ》と|初春飾利《ういはるかざリ》は|風紀委員《ジヤツジメント》第一七七支部にいた。  |仰々《ごようぎよ》しい名前だが、ようは初春の中学校の校舎にある一室だ。  いくつかの机が並んでいるが、教室にあるような合板と鉄パイプのものではない。どちらかというとオフィスの一室のようだった。作業用のパソコンが各机に並んでいる訳だが、そういった精密機器を無視してポテトチップスの袋がドカンと置いてあった。  初春飾利はごそごそとビニール袋の中に両手を突っ込みながら、 「白井さーん。|中華丼《ちりうかどん》とお魚弁当、晩ご飯はどっちにします?」 「そんなもんどうでも良いですの!!」 「え? じゃあ私が中華井もらっちゃいますね」 「中華丼は食べるですの! うう、今この|瞬間《しゆんかん》もお姉様と腐れ類人猿は|一緒《いつしよ》に夜の街を歩いて……うぐああああああああああッ!!」  ツインテールの少女、白井黒子は両手で机をバンバン|叩《たた》く。  室内には二人の声しかない。部屋には大型の無線機もあるが、そちらは|沈黙《ちんもく》していた。基本的に、|風紀委員《ジヤツジメント》の仕事は完全下校時刻で終了する。それは彼女|達《たち》が校内での|揉《も》め事を制圧するのが主要任務だからだ。本来なら、この時間に生徒が詰め所に残っている方がイレギュラーだろう。  と、そんな残業少女、|初春飾利《ういはるかざり》は自分の携帯電話を取り出して、 「おっ、いっも|観《み》てるバラエティ番組の始まる時間ですっ!」 「仕事しろ初春ーッ!!」 「人の事を言えた義理なんですか、|白井《しらい》さん。ちなみに私はテレビを観ながら仕事ができる子なんですー」  携帯電話にもテレビ機能ぐらいはついているだろうが、初春はよほどそのバラエティ番組が好きなのだろう。わざわざ室内にある大型テレビの電源を|点《つ》けた。 「ふんっ!!」  が、ムカっいている白井がリモコンを奪い取ると、適当にチャンネルを替えてしまった。面白くも何ともないニュース番組が映る。『だーっ! ナニしてくれますか白井さん皿』と初春が叫び、二人の少女がリモコン争奪戦を開始した。  テレビの中では、アナウンサーと芸能人の中問ぐらいの女性が原稿を読み上げている。 『続いては、ええと……がっ、学園都市のニュースです』  ん? と|掴《つか》み合いをやめて白井と初春はテレビを見る。  この放送局は、学園都市の外部にある全国放送のものだ。そして、そういった『外部』放送局に学園都市の情報が流れる事は滅多にない。アナウンサーが戸惑っているのも、その辺の事情があるからだろう。 『現在、学園都市で侵入者|騒動《そうどう》が起きているそうです。それに伴って、都市の内部で被害が拡大しているとの事です。映像が入ります。現場の石砂さん?』  画面が切り替わった。  超望遠の粗い映像だった。おそらくカメラは学園都市の外にあるのだろう。雨に打たれる道路を、黄色い服を着た女が歩いているのがぼんやりと見える。  女はふらふらと歩き、その辺に倒れている人々を足でどかしながら、雨の街を歩いていた。 口から舌を出し、そこに接続された長い|鎖《くさり》を左右に揺らしている。  と、現場のリポーターに移る前に、カメラはぐらりと揺れた。ガチャン、という音が|響《ひび》いたと思った途端に、灰色のノイズに画面が|覆《おお》われる。スタジオのアナウンサーが、何度か名前を呼びかけるが応じない。リポーターがいるのかどうかも判然としなかった。  すぐにスタジオに画面が戻った。  ギリギリで放送事故にならない、絶妙のタイミングだった。 「い、今のが侵入者でしょうか』  アナウンサーの|隣《となり》に座っていたコメンテーターが、落ち着き払った声で答えた。 『学園都市の警備状況を籔がるに、よその学校とは違って、単に子供避を撒った変質的犯行という可能性はほぼ低いでしょうな』 『はぁ』 『科学崇拝に対するテロ行為か、あるいは先端技術の|強奪《ごうだつ》か。そんな所かもしれません』 『となると、|視聴者《しちようや》 皆様が一番気にかけている、お子様達の安全面にも|影響《えいきよう》があると?』 『もちろんです』  コメンテーターは、もはや芝居がかった仕草で首を横に振った。 『大人の事情に子供が巻き込まれているのですから。むしろ、ただの通り|魔《ま》よりもたちが悪い。まったく、映像にあった、何ですかあの女は。往々にして子供の命というのは軽視されがちですが、ああいうくだらない社会不適合者を野放しにしておく事が———』  ゴトン、という音が続いた。  唐突にコメンテーターがテーブルに突っ伏して、額をぶつけたのだ。 「?」  |白井《しらい》は|眉《まゆ》をひそめた。  またパフォーマンスかと思いきや、コメンテーターはそのままぐらりと体を揺らして、テーブルの下まで倒れてしまった。きゃあ、というアナウンサーの悲鳴が聞こえる。カメラがぐらぐらと揺れ、ADらしき軽装の若者達が、ダッとスタジオに走ってきた。  カメラの外から指示を飛ばす太い声が連続して、すぐにCMへ切り替わった。トラブルが起きたのは明白だった。  小顔で知られる若い女性タレントが洗顔フォームの素晴らしさに感動している画面から目を|離《はな》し、|初春《ういはる》は白井の方へ向き直った。 「……さっきの映像、こちらに報告来てましたっけ? 今日はずっと手書きの書類作業ばかりしてましたから全然気づきませんでしたけど。でも、本当にたった一人で|警備員《アンチスキル》を圧倒しているとしたら、あの侵入者、危険度は|半端《はんぱ》じゃないですよ。どうしてあんな不気味なのが侵入してこれるんですか……」 「|風紀委員《ジヤツジメント》は校外の……それも夜間の活動で召集される事は滅多にありませんものね。本当にまずければ|警備員《アンチスキル》から応援要請が来ますわよ。それまでに書類をできるだけ———」 「……、」  初春|飾利《かざり》は、白井の言葉に答えなかった。  ふらり、とその体が後ろへ揺らいだと思ったら、そのまま何の抵抗もなく床に転がってしまった。バタン、という結構大きな音が聞こえたが、それきり初春が動く気配がない。  白井はギョッとして、それから初春の元へ駆け寄った。 「初春ッ!!」  耳元で名前を呼んでも、倒れている|初春《ういはる》の|頬《ほお》を|叩《たた》いても、全く反応はない。  訳が分からない|白井《しらい》の耳に、テレビの音声が届く。  CMを終えてもニュース番組は再開されない。そのまま『しばらくお待ちください』というテロップへ移ってしまっていた。      13  あらかた『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』の連中は片付けた。  正確な人数が把握できていないため、伏兵の存在に気をつけなくてはならないのだが、|一方通行《アクセラレータ》の直感はすでに|戦闘《せんとう》状態は終わったと告げていた。 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の生き残りが、この空気を『演出』しているとすれば見上げたものだが、そこまでの余裕は絶対にない。」ク瑳報が仕掛けたのは、僅撹膨の飛び出すタイミングから激煕のインターバルまで、その銀てを大脳生理学的に計算し尽くし、必ず恐慌状態へ朧段せるプログラムである。  根性論でどうにかできる恐怖ではなく、脳の信号的な面から感情を叩きつけたのだ。まともに戦える者などいないだろう。人間が人間でいる限り———よほどぶっ飛んでいない限り、この|攻撃《こうげき》から逃れる事はできない。泣き|喚《わめ》く、手足を振り回す、その辺りが関の山だ。  |一方通行《アクセラレータ》は施設内で見つけた洗浄剤のボトルの|蓋《ふた》を開ける。彼は透明な液体を頭から|被《かぶ》り、中身の消えた容器をその辺へ投げ捨てながら、 (ここまでやりゃあ|木原《きはら》は絶対に動く。|俺《おれ》にとっちゃ|怪我《けが》の功名だが、せいぜいうろたえろよクソ野郎。報告は何分ぐれエでヤツの耳に届く。それまでに俺は何をしておくべきだ)  |一方通行《アクセラレータ》の目的は、|打ち止め《ラストオーダー》の救出。  しかし彼には、今も逃げ続けている(かどうかも定かではない)少女の現在位置が|掴《つか》めていない。携帯電話が通じれば話も変わってくるのだろうが、あまり当てにはできそうもない。ならば、|打ち止め《ラストオーダー》を助けるためには木原|達《たち》の妨害に力を注いだ方が良い。  ヤツらの注意を全てこちらへ集中させる。 『目的の|打ち止め《ラストオーダー》を奪う前に、とにかく目の前の|一方通行《アクセラレータ》を何とかしなくてはならない』と思わせなければ勝機はない。  その思惑が|叶《かな》えば叶うほど、|一方通行《アクセラレータ》は|窮地《きゆうち》に追い詰められていく訳だが……。 (どうとでもしてやる)  ショットガンを|杖《つえ》代わりに、彼は施設の出口を目指す。 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』を|拷問《ごうもん》して情報を引き出すのも一つの手だが、|一方通行《アクセラレータ》はそれを|避《さ》けた。この施設では能力を使えないし、杖をつく彼には大人など外まで運べない。これまで勝ってきたのも、策があってこその結果だ。たとえ相手が負傷していても油断できない。今の彼は一発の銃弾で死ぬのだ。ここで下手を打って逆転されたら、|打ち止め《ラストオーダー》を助ける者がいなくなってしまう。  |一方通行《アクセラレータ》は次の行動目的を考える。 (『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の連中のワンボックスをもう一度調べるか。|馬鹿《ばか》正直にアジトの場所が見つかるとも思えねェが、別働隊を|潰《つぶ》すにしても、|大雑把《おおざつぱ》な位置情報ぐれエは|掴《つか》ンでおかねェとな) と、そこで彼は思考を切った。  床に血の跡がある。  点々と続いている赤い|染《し》みを見て、|一方通行《アクセラレータ》はわずかに|眉《まゆ》をひそめた。敵兵は|全《すべ》て計算通りに動かし、恐怖を|煽《あお》り、一人一人潰していったが、このルートを使って追い詰めた覚えはない。  まだ生き残りがいる。 「……、」  血のルートを|辿《たど》る限り、敵の足はおぽつかず、集中もあちらこちらへ飛んでいる。極度の恐怖によって、何に対しても|怯《おび》えている状態だ。こちらの心理操作は効いているらしい。 (あるいは、そう見せかけてこちらを|誘導《ゆうどう》しているか)  |杖《つえ》をつきながら、|一方通行《アクセラレータ》はゆっくりと血の跡を追う。  その先にあるのは小さな非常口だった。鉄の扉の上に、緑色のランプが取り付けられている。ドアの横には強化ガラスで守られたボックスが取り付けられていた。ガラスは割れ、中のレバーが動かされている。  |誰《だれ》かがロックを外して外へ出たのだ。  |一方通行《アクセラレータ》はドア横の壁に体を預け、手の先を伸ばすようにノブに触れる。杖の存在がもどかしかった。両手が使えれば、もう片方の手はチョーカー型電極のスイッチに触れているはずだ。暴発の危険があるが、いざとなれば能力を使うしかないだろう。  ゆっくりとノブを回す。  音を立てずにドアを押す。 「———、」  不審な点はなかった。  少なくとも、爆弾が仕掛けられているような事はない。|一方通行《アクセラレータ》はそれを確認すると、鉄の扉を一気に開け放った。  いつの間にか土砂降りになっていた雨粒が全身を|叩《たた》く。  蒸し暑い施設内で息を|潜《ひそ》めていた|一方通行《アクセラレータ》には、それが心地良い刺激となる。  だが、 「アレか……」  彼の顔に笑顔はない。  |一方通行《アクセラレータ》の立っている場所は、二階だった。そこからスチール製の非常階段を下りると、およそ二〇メートルほどアスファルトが続いて、その先に|敷地《しきち》を区切る|金網《かなあみ》のフェンスがある。  そのフェンスをよじ登っている人影が見えた。  黒ずくめの背中は、紛れもなく『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』のものだ。  そして、フェンスのすぐ近くには自動車が|停《と》まっていた。黒ずくめの行き先は簡単に想像がついた。 『|猟犬部隊《ハゥンドドツグ》』の新手かとも思ったが、違う。  あの車は正規の|警備員《アンチスキル》が巡回に使っているものだ。  何でだよ、と|一方通行《アクセラレータ》は思う。  ここでそいつらが出てくるのは間違っているだろう。  これは、|闇《やみ》と闇との戦いであって、一般人が出てくるべきじゃないだろう? 「………………………………………………………………………………………………………、」  一方通行の唇から、|薄《うす》く薄く息が|漏《も》れた。  言葉もなかった。  |沈黙《ちんもく》する彼の耳に、黒ずくめの|喚《わめ》き声が届いてくる。  この土砂降りの中、二〇メートルも|距離《のより》が開いているのに、それでも鮮明に聞こえるほどの大声が。 「おい! 中に|誰《だれ》かいるか!? たっ、助けろっ、助けろよ! お前ら街の人間を守る|警備員《アンチスキル》なんだろ! だったら|俺《おれ》を保護しろよ! アイツだ、アイツが全部やったんだ! はは、ざまーみろ! 俺は助かった。お前の|魔《ま》の手はもう届かねえよ!!」  雑音が聞こえる。  アレダケナガイアイダウラセカイニイテ、ソレデモキイタコトモナカッタレツアクナコトバガツギツギトアビセカケラレル。 「いいか、テメェはどうあがいてももう終わりなんだ! こっちには|警備員《アンチスキル》がついてんだ。やれるもんならやってみろ!! もっとも|警備員《アンチスキル》に手え出しゃ正式に指名手配決定だけどな!! これでさんざん守りたがってたクソガキとの日々も終わりだぜぇ! テメェは冷たい研究所に逆戻りだ、一生モルモットでもやってやがれ!! ぎゃはははははッ!!」  ショットガンを握る手に、強烈な力が|籠《こも》る。  頭が破裂する。  電極のバッテリーとか、七分間しか|保《も》たないから温存しようとか、ここで使い切ったら|木原数多《きはらあまた》と戦えないとか、そういった事が全部|綺麗《きれい》に|弾《はじ》け跳ぶ。  |一方通行《アクセラレータ》は首筋に手をやった。  そこには電極のスイッチがあった。  彼は迷わなかった。  あのクソ野郎だけは、この手で血祭りにあげる。  頭の中には、それだけしかなかった。      14  |警備員《アンチスキル》の|才郷良太《さいこうりようた》と|杉山枝雄《すぎやまえだお》は幸運だった。  街の治安維持機関の大多数が機能を止めている中、彼らはうっかり寝坊したために、|他《ほか》のメンバーのような|昏睡《こんすい》の被害には|遭《あ》わなかったのだ。車内からの無線連絡に|誰《だれ》も応じないのも、機械のトラブルかな、ぐらいにしか感じていない。良くも悪くも、彼らは|蚊帳《かや》の外なのだった。  そして今も、彼らは幸運だっただろう。  少なくとも、フェンスをよじ登っている血まみれの男を保護するために、才郷は運転席から、杉山は助手席から、それぞれ車から降りてそちらに歩いていたのだから。  その|瞬間《しゆんかん》、彼らの耳へ最初に入ったのは|雄《お》たけびだった。  |獣《けもの》のような、人間の叫び声。  才郷と杉山の両名がその怒号の正体を探る前に、第二波がやってきた。  それは分厚い鉄の扉だった。  縦に回転しながら恐るべき速度で飛んできた鉄のドアは、西郷と杉山の肌を危うく|掠《かす》めかけ、まるで巨大な|丸鋸《まるのこ》の刃のように二人の|警備員《アンチスキル》が|停《と》めた巡回車の真ん中へ突っ込んだ。  ドガァ!! と。  火花を散らして、自動車がL字に折れ曲がる。  何の変哲もない普通の自動車に、いきなり横から砲弾を|叩《たた》き込んだようなものだ。自動車の後ろ半分はそのまま縦、それに対して前半分はグシャグシャにひしゃげて真横に折れ曲がっている。あまりの威力に、自動車は横滑りすらせず、砲弾を浴びた部分は破れた金属が花のように開いていた。自動車を破壊した鉄扉は勢いを止めず、そのままアスファルトを粉々に砕いてようやく停止した。一気に引き|千切《ちぎ》られたガソリンパイプに、同じく断線した電気ケーブルが接触する。小さな火花が起こる。  それだけで十分だった。  横から叩き|潰《つぶ》された自動車は|一撃《いちげき》で爆発し、周囲に炎と煙を|撒《ま》き散らした。 「な、何だあ!?」  才郷は煙で視界がゼロになった状況で、それだけ叫ぶ。  鉄のドアがあまりにも高速で飛んできたため、才郷は何が車を爆発させたかも分かっていなかった。ただ、何も見えないという状況は余計に彼の|焦《あせ》りを助長させていく。  すぐ近くにいるはずの|同僚《どうりよう》の顔も見えない。  その状況で、 「ぎゃああ? や、やめろっ!!」  聞き覚えのない男の声が、|才郷《さいごう》の耳に|響《ひび》いた。  保護しようと思っていた黒ずくめの男のものだ、と才郷が気づく前に、 「待て、待ってくれ、|一方通行《アクセラレータ》! 嫌だ、違う、そうじゃない!! |警備員《アンチスキル》! どっ、どどどどこにいるんだ!助け、いびゃっ、びゃあ、ごォァああああああああああああッ!?」  ごりりっ!! という、張りのあるウィンナーを|噛《か》み|千切《ちぎ》るような音が聞こえた。身の危険を感じた才郷は思わず腰の|拳銃《けんじゆう》を抜いたが、そこから動けなかった。煙がひどくて視界が確保できない。|闇雲《やみくも》に|撃《う》てば|同僚《どうりよう》の|杉山《すぎやぼ》や保護対象に当たる危険がある。そもそも煙の向こうで何が起きているのか、それを引き起こしている『モノ』が人間なのか|猛獣《もうじゆう》なのかも判別できない。どこを|狙《ねら》って何に発砲すればどんな事態が収束するのかも想像がつかないのだ。 「と、止まれ! 動くな! その人から|離《はな》れろ!!」  何も見えない状況で、それでも才郷は当てずっぽうに銃を向けて叫ぶ。  |近距離《きんきより》から、笑い声が返ってきた気がした。  決して声高なものではなく、口を|塞《ふさ》いでいたが思わず|漏《も》れてしまったという感じの笑みが。  鈍い音はその後も連続した。  時間にして一〇秒程度で、絶叫が途切れた。  才郷は結局、身動きは取れなかった。  この世には、見てはいけないものがある。  それが幸運にも煙で|遮《さえぎ》られていたのだと、直感で悟った。  土砂降りの雨が、爆発した車両の火を消していく。それに伴って、視界を塞いでいた煙も、ようやく収まってきた。  同僚の杉山が、すぐ近くで|尻餅《しりもち》をついていた。  彼はパクパクと口を動かしていたが、声は全く出ていない。  ただ、顔を真っ青にしたまま、ふらふらと人差し指で地面を指差していた。  才郷はそちらを見る。  そこには保護しようと思っていた男性はいなかった。どこを見回してもいなかった。  杉山の指差した場所。  あったのは、少量の|血痕《けつこん》と、もぎ取られた人間の足の親指が二本だけ。 [#改ページ]    行間 七  学園都市外周部、と一口に言っても様々な顔がある。  街は東京都の三分の一もの面積を誇るのだ。東部東京方面、神奈川方面、埼玉方面、山梨方面、それぞれ面している地域によって、風景や特色もがらりと変わる。  |土御門元春《つちみかどもとはる》が走っているのは、都市部と森林部の中間のような所だ。針葉樹で形成された深い森に埋もれるように、巨大な廃工場がいくつも並んでいる。|繁殖力旺盛《はんしよくりよくおうせい》な雑草や|蔦《つた》系の植物はコンクリートの壁に|絡《から》みつき、|容赦《ようしや》なく自然の一部へ組み込んでいる。  土御門元春は、そんな建物の一つの中で、ザザガリ!! と急ブレーキをかける。  元々は交通会社の、バスの整備場だったのだろうか。  学校の体育館よりも、やや小さいぐらいのコンクリートの空間だ。高価な機材は|撤去《てつきよ》され、残るのは役に立たない|錆《さ》びた金属の塊ばかりだ。そのためガランとした印象があるが、二階部分や三階部分には|未《いま》だに鋼鉄の足場のような通路が取り残されている。上部通路の床は|金網《かなあみ》状で、所々が錆びてボコボコに穴が空いていた。  屋根は半分ほど崩れており、土砂降りの雨は容赦なく降り注いでいる。壁の一面は|全《すべ》て金属製のシャッターになっていたが、そちらも錆びて落ちていた。 (……これか)  彼の眼前には、一本の木の杭が床から飛び出している。  巨大な物だ。直径一五センチ、長さ三メートル以上。鉛筆のように荒々しく|尖《とが》った先端が、真上を向いていた。無数の雨粒を受け、血を流すように液体を杭の表面に伝わせている。  |魔術《まじゆつ》による一品だった。  素材は|椋欄《しゆろ》か。 「シュールな光景だ」  土御門が唇の端を曲げて笑った途端、杭の側面から三六〇度全方位に、全く同じ三メートルの杭が、ズドッ!! と勢い良く飛び出した。木の杭ではなく、杭の木が出来上がる。土御門がそれらの先端をバックステップで|回避《かいひ》すると、今度は周囲の床や二階部分の通路、錆びた機材の山からも次々と杭が生み出され、土御門の全身を|狙《ねら》って突き出される。  うねる生き物のような軌道でバックステップを続ける彼に、追い着かないと感じたのか、杭の何本かが内側から爆発した。ドッ! という|轟音《ごうおん》と共に、数百もの破片が土御門へ|襲《おそ》いかかる。  あるいは|屈《かが》み、あるいは機材の陰へ身を隠し、土御門はそれら全てをやり過ごす。  ものの数秒で、周囲は数千本もの|杭《くい》に|覆《おお》われた処刑場と化した。  巨大な鉛筆が、一面にびっしりと生えている。 (なるほど。学園都市もこうやって|攻撃《こうげき》していくつもりだったのか。動けない連中を一人一人|串《くしざ》刺しにしていく、と)  なめやがって、と|吐《は》き捨てつつ、|土御門《つちみかど》はあちこち細かく移動しながら頭を動かす。  おそらく『杭』は、整備場の外にも生えているだろう。 (わざとオレをここへ|誘《さそ》い込んで|罠《わな》にはめるってのは———ないな。それにしては大掛かりすぎる。本命のど真ん中に突っ込んじまったと見た方が妥当だ)  |棕櫚《しゆろ》は本来『恵み』を示す木である。その特性を利用すれば、『食い止める』や『|弾《はじ》き返す』などの防御をすり抜ける性質を与える事も可能だ。土御門が|迂闊《うかつ》に防御|魔術《まじゆつ》を使っていれば、その攻撃は『恵み』と認識され、軽々と防御を通過した杭に全身を貫かれただろう。  そういった杭を、本当に数千本も用意したのなら|驚《おどろ》きだが、 「ふん。数をごまかしているな」  土御門が告げると、爆発的な杭の出現がピタリと止まった。  ぬるり、と。  何もなかったはずの暗がりから、白い人影が現れる。  トンネルの出口でも見ている気分だった。|闇《やみ》の中で、その術者の男だけがジグソーパズルのピースのように削られている。自身が|輝《かがや》いているせいか、足元には一二の影が円形かつ均等に配置されていた。アナログ時計みたいだ。  影自体が魔術を発動する|鍵《かぎ》なのか、何らかの指示に従って|各々《おのおの》は伸縮を連続させる。 「———、」  土御門は一歩前に出たが、|距離《きより》は変わらない。  相手が移動した様子はないが、いつの間にか距離は保たれる。  まるで、永遠にその距離が縮まる事はないと告げられたように。 (まずいな……)  おまけに、気配は一つではない。  この建物の中と外に、複数ある。総数は数十に及ぶだろうし、この調子だと学園都市外周部の|他《ほか》の地点にも同様の連中が展開されている可能性もある。  無言の敵に、土御門は静かに語る。 「三は天界、四は地上、そして一二で世界を示す。|全《すべ》ての杭を用意する必要はない。特定の『数』に意味を付加する事で、『|莫大《ばくだい》』という単位を得られるという所か」  ようは、核となる七本の杭を見つけ出し、それを一本でも砕けば敵の術式は封じられる。  これだけの杭の中から。  今でも数千本あり、さらにこれからも数を増していくであろう杭の山から。  |土御門《つちみかど》はニヤリと笑って言った。 「上手い術式だが……こいつは十字教ではない。紀元前の、ギリシア系ピュタゴラス教団の理論だぞ。貴様|達《たち》はいつの間に『神の子』が生まれる以前の世界を肯定したんだ?」  言葉に、相手は激怒したのだろう。  |曖昧《あいまい》な人影が、|吼《ほ》える。  ドッ!! という|轟音《ごうおん》が|炸裂《さくれつ》した。木の|杭《くい》が爆発し、整備場全体を揺らしたのだ。二階や三階の通路や、半分崩れた屋根から|錆《さび》が落ち、そこに『力』が加わり、|錆《さ》びた破片の表面から新たな杭が生まれ、あらゆる角度から土御門へ|襲《おそ》いかかる。  様々な方向から突き出された木の杭は、存在する|全《すべ》ての空間を|塞《ふさ》ぎ、杭と杭とをぶつけあって、バキバキ!! と共食いするように|潰《つぶ》れていく。  しかし、すでに土御門はそこにいなかった。  彼は整備場上部、鋼鉄を組んだような三階通路に立っている。  はるか下から、無機質な|瞳《ひとみ》がこちらを|捕捉《ほそく》する。  コンクリートの床を埋め尽くす無数の杭が、次々と内側から爆発し、その破片の対空砲火を向けてきた。土御門は錆びてあちこちに穴の空いた通路を飛ぶように移動する。そのすぐ後ろで自分の通ってきた通路が次々と砕けて、折れて、|倒壊《とうかい》していく。  土御門の唇の端から、赤い血がゆっくりと伝う。  |魔術《まじゆつ》の攻撃を受けたからではない。自分が魔術を使って、三階通路まで飛んだからだ。  彼は能力者でもあり、魔術師でもある。  そして、能力者が魔術を使うと、拒絶反応が起きて体を傷つける羽目になるのだ。 (チッ。長期戦でこちらに得はないな)  血を|拭《ぬぐ》いながら、彼は考える。  あの人影には|距離感《さよりかん》がない。まるで瞳に映った残像を追いかけるようなものだ。こちらが進めば進んだだけ下がり、こちらが退けば退いただけ近づいてくる。そういうヌルヌルした習性の存在。|故《ゆえ》に、あれを直接|叩《たた》くのは不可能……とまで言わなくても、かなり手間取るだろう。  そこに|拘泥《こうでい》するなら、先に杭の山の機能を止めた方が良い。  相手の武器を奪ってから、じっくり料理するべきだ。 「残念だな」  ドガバギミシミシッ!! と錆びた通路がへし折られていく中、土御門は通路に空いた穴を飛び越し、一点を目指して突き進む。 「|繊細《せんさい》な術式を見ると、|壊《こわ》すのが惜しくなってくる!!」  その先にあるのは、無数の杭に埋もれるように立つ、一本の木の杭。  七本の内の一本で、全ての杭を統括する弱点だった。 [#改ページ]    第八章 神の右席と虚数学区と Fuse=KAZAKIRI.      1 「|愛穂《あいほ》!!」  土砂降りの雨の中、|芳川桔梗《よしかわききよう》はようやく旧友を発見した。  夜の街は、周囲一帯が不気味なほどに静まり返っている。  |黄泉川《よみかわ》は路側帯に|停《と》めてある国産のスポーツカーの中で、ぐったりとハンドルに身を預けていた。胸を圧迫するような、見るからに苦しい体勢だった。それでも彼女は身じろぎ一つしていない。意識がないのだ。  運転席のドアに手をかけると、カギはかかっていなかった。  芳川が鉄のドアを開けた途端に、黄泉川の上半身がぐらりと揺れた。そのまま外へ飛び出すように、横滑りする。 「ッ!」  芳川はそれをどうにか抱え、運転席へ押し戻す。 (……何が起きたのよ)  口元に|掌《てのひら》を当てて呼吸の有無を調べ、首筋に手を当てて脈を測った。とりあえず生きているようだが、そういった事をしても、やはり一向に目が覚める様子はない。単に眠っているのとは違うらしい。 「……、」  芳川は雨も気にせず、車から周囲へ視線を移す。  車が停まっているのは大きな通りだが、少し|離《はな》れただけで不良少年|達《たち》が|溜《た》まっている路地に|繋《つな》がっている。  彼らに|襲撃《しゆうげき》されたか、とも思ったが、それにしては黄泉川に傷がない。黄泉川愛穂は同性の自分から見ても美人だ。まして、彼女は|警備員《アンチスキル》である。襲撃されたとなれば、想像を絶するような|酷《ひど》い事態になっていたはずだ。自動車もパーツ単位で分解されて不良少年達の小遣いに変換されているだろう。 (となると、別口……?)  芳川はそこで、|眉《まゆ》をひそめた。  不良少年でないのなら、一体どこの|誰《だれ》が黄泉川に危害を加えたのだ。 (とにかく、病院に……。そこに|診療所《しんりようじよ》があるから、救急車を呼ぶよりも早い!)  そんな、考えがまとまらない|芳川《よしかわ》の耳に、ガーッという低い音が聞こえた。  見ると、車内無線に取り付けられている小型プリンターが作動しているようだった。葉書サイズの紙切れが吐き出されている。 「んっ……」  運転席でのびている|黄泉川《よみかわ》の上から腕を通すようにして、芳川はその紙切れを取った。  そして、そこで固まった。  紙切れにはこうあった。 『|警備員《アンチスキル》第八四支部、鈴山高等学校所属、|才郷良太《さいこうりようた》から報告あり。  第五学区内、事件現場での証言を元に、「|書庫《バンク》」より照合。  |一方通行《アクセラレータ》、この者を殺人|未遂《みすい》事件の重要参考人として手配する』  |一緒《いつしよ》に吐き出された別の用紙には、見慣れた人物の顔写真があった。  人違いという可能性は、なかった。      2  |一方通行《アクセラレータ》は|薄汚《うすよご》れた路地裏にいた。  彼は再び第七学区に戻ってきたが、気持ちが安らぐ事はありえなかった。  雨音だけが続いている|暗闇《くらやみ》に、ガン、という重たい金属音が|響《ひび》く。  ポロ|布《きれ》になった『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』のメンバーを、巨大なダストボックスに放り込んで|蓋《ふた》を閉めた音だった。ダストボックスの蓋と箱の|隙間《すきま》からは、だらだらと赤い液体が垂れている。食いしん坊のよだれみたいに見えた。  |一方通行《アクセラレータ》は腰ぐらいの高さのダストボックスに両手を預け、体を預け、足の力を抜いて、ずるずると地面に腰を落とす。油の|染《し》み込んだ|水溜《みずたま》りが服や肌に染み込んでくるような気がした。 「はは」  笑う。  久しぶりに肉を|潰《つぶ》した。  随分飲んでなかったコーヒーを、ひたすらがぶ飲みしたような気分だった。気持ち良いはずなのに、虚脱感がある。気分は高揚しているはずなのに、どこかに|諦《あきら》めがあってノリきれない。あれだけ|美味《うま》い美味いと飲み続けていたのに、いつの間にか『この程度だったっけ?』と首を|傾《かし》げているような、不思議な精神状態だった。  何となく、思い知らされた。  今の|一方通行《アクセラレータ》は、この手で|誰《だれ》かを殺す事をよしとしない。というよりも、八月三一日にその事に気づいたと言った方が正しいのかもしれない。とにかく、それぐらいに|打ち止め《ラストオーダー》との出会いは大きな転機となった。  |一方通行《アクセラレータ》は|打ち止め《ラストオーダー》のような人間を殺したくはない。そして、彼女と同じ世界に住んでいる|黄泉川《よみかわ》や|芳川《よしかわ》といった他人にも同じ感情を向けるのは可能だ。光の道を歩いている甘ったるい人間|達《たち》が、|一方通行《アクセラレータ》のような|暗闇《くらやみ》に|潜《ひそ》む者達の|餌食《えじヨ》になるのは間違っている。だから、それを食い止めるためなら|一方通行《アクセラレータ》はたった一人で戦う事も辞さない。  一見、まっとうな人間の考え方だと思えるかもしれない。  しかしこの理論には穴がある。  例えば、|打ち止め《ラストオーダー》とは似ても似つかないほど腐ったクソ野郎が目の前に出現した場合。その救いようのない人間が救いようのある人間を奪おうとした場合。この時、|一方通行《アクセラレータ》の『誰かを殺すのはいけない事だ』という|枷《かせ》が外れてしまう。彼が恐れているのは『光の世界の住人が、闇の世界の住人の食い物にされる事』だ。|一方通行《アクセラレータ》が闇の世界に属する自分を嫌っている以上、同じ世界の人間を受け入れるはずがない。  従って、特定の条件が|揃《そろ》った場合に限り、彼は迷わず人肉を引き裂く。  腹の中に抱えていたものが全部キレイに|弾《はじ》けて、真っ白になるまで飛んでしまう。  ちょうど、今のように。 「———、」  土砂降りの雨に打たれ、|一方通行《アクセラレータ》はうな垂れていた。  結局、あの程度では|駄目《ぜめ》だったのだ。八月三一日の転機ぐらいでは、|染《し》み付いた闇の属性は|払拭《ふつしよく》しきれていなかったのだ。あれでは足りない。それでは何が足りない。人間に戻るためには、後いくつのパーツが必要だ。  そこまで考えて、彼は笑った。  何かを|諦《あきら》めたような、吹っ切れた笑みを。  孤独が彼を支配する。  |打ち止め《ラストオーダー》と出会う前に戻ったのだ。 「はは……」  |一方通行《アクセラレータ》はダストボックスに背中を預けたまま、夜空を見上げた。  雨粒が体を|叩《たた》く。  雲は分厚い。見ていると心が暗くなるほど真っ黒だった。 (能力使用モードは、もう四分も残ってねェな……)  うんざりしたように、現状を確認する。 (|警備員《アンチスキル》にも目ェつけられた。|今頃《いまごろ》は街中に顔写真がばら|撒《ま》かれてンだろォなァ。これで、|木原《きはら》を|潰《つぶ》してあのガキを助け出した所で、|俺《おれ》はもォあの世界へは戻れねェ)  |打ち止め《ラストオーダー》との接点は、もう断ち切られている。たとえ彼女を無傷で救ったとしても、同じ道は歩めない。ならば、今必要なのは|打ち止め《ラストオーダー》と同じ道に進むための努力ではない。目の前の事実を受け入れる強さだ。それでも構わないと、ただ彼女を助けるためだけに動ける強さだ。  チッ、と舌打ちする。  短い間だったが、失ってみると、それはそれで喪失感が胸に風穴を空ける。  だが、この程度で彼の赤い|瞳《ひとみ》が揺らぐ事はない。 (認めてやる[#「認めてやる」に傍点]。だから何だってンだ[#「だから何だってンだ」に傍点])  |水溜《みずたま》りの中に沈んでいるショットガンを、片手で|掴《つか》む。 (あのガキだけでも彫の中から連れ戻す。それだけが目的だったはずだっだからそれ以外の|贅肉《ぜいにく》は|全《すべ》て|削《そ》ぎ落とす。こっちの事はこっちでやる。今必要なのは、クソガキの身の安全だけだ)  その武器を、|杖《つえ》の代わりにしてよろよろと立ち上がる。  木原|数多《あまた》も、『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』も、|警備員《アンチスキル》も、この先の事も、もうどうでも良い。  目的は一つあれば良い。  そう考えると気が楽になった。背負っていた重みが全て取り払われた気がした。今ならどんな目標であっても必ず|叶《かな》えられると勝手に思う事ができた。  最後の|鎖《くさり》は断ち切られた。  大切なものと引き換えに「最強』を取り戻した|一方通行《アクセラレータ》は、杖をついて雨の街を歩く。  次の標的を潰すために。  全てを血の色に染めてでも、問題を解決するために。  獲物の肉には、心当たりがある。      3 「全施設をクリア。|誰《だれ》もいませんね」 『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』のメンバー、デニスは無線機から集めた情報を、待機組に伝えた。  そうか、という短い声が|同僚《どうりよう》から返ってくる。  ここは病院だった。デニス|達《たち》がいるのは一階の大きな受付ロビーだ。|壁際《かぺぎわ》をガラス張りにして、光を多く取り込む作りにされているが、今は夜であり、その上照明は全て落とされている。 真っ暗な病院は不気味の一語に尽きた。  彼ら一四名に渡された命令は、敵前逃亡した『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の元メンバー、オーソンの処分。 並びに|目撃者《もくげきしや》となった白いシスターの口封じだ。最悪、施設に爆薬を仕掛けて病院ごと吹き飛ばしても構わないとまで言われていた。  デニスはさらに続けて報告する。 「三階の廊下に使用済みの発煙筒を発見。それほど時間は|経《た》っていないそうです」 コ応、報告ではテロ活動の危険があり、|未《いま》だ施設内に不審物が隠されている可能性があるため、一時的に建物内から全職員と患者を|退避《たいひ》させた、とあるな」  携帯型のコンピュータを操作しつつ、報告を受けた|同僚《どうりよう》、マイクも答える。  デニスは無線機から耳を|離《はな》し、 「……気づかれましたね」 「だろうな」  マイクはつまらなそうに言った。 「個人的には、そちらの方が良かったような気もする」 「しかし、病院には大型の|医療《いりよう》設備を必要とする患者もいたはずでは?」 「病院車でも使ったのだろう」マイクは適当に言った。「全長三〇メートル弱、観光バスぐらいの大きさの特殊な救急車だ。現場に急行し、その場で簡単な手術も行えるそうだ」 「聞いた事がありません」 「だろうな。実際にはその車体のサイズが問題となり、小回りが|利《き》かなくて現場へ到着できなかったという失敗作だ。日本でなければ成功したかもしれない。あるいは|艦隊《かんたい》のように、小型の救急車と連携を取るとかすればな」 「それがこの病院にはあったと?」 「地下駐車場にでもあったんだろう。この病院なら不思議ぞはない。一〇台ぐらい並べてあったと言われても|頷《うなず》ける。絶対安静の患者をそちらに移し、歩ける者は|各《おのおの》々退避させた訳だ」  マイクは適当に言って、携帯型のコンピュータの電源を落とした。 「|一方通行《アクセラレータ》討伐組からの連絡が途絶えてかなり経つ」 「やられました、ね」 「追撃に人員を|割《さ》く必要がある。だからこちらも休んでいる時間はない。引き上げるぞ。病院関係者が組織的に逃走したのなら、どうせ行き先を示すものは|全《すべ》て処分されているはずだ」 「|木原《きはら》さんは納得しません」 「時間をかけたにも|拘《かかわ》らず、何のヒントも得られませんでしたと言っても納得しない。優先順位の違いだ。まず|一方通行《アクセラレータ》を仕留め、それから病院関係者の洗い出しに戻れば良い。ミス一つを手柄一つで|覆《おお》い隠せば、あの人の怒りも|和《やわ》らげられる。全員が処分される事もないだろう」  召集をかけろ、とマイクは抑揚のない声で言った。  デニスがそれに応じて無線機のスイッチを入れようとした時、変化が起きた。  プルルルル、という電話の呼び出し音が鳴ったのだ。 「……。」 「———、」  デニスとマイクは同時に首を巡らせる。  音源は、受付カウンターの向こう側だ。まるでこちらの位置を測った上で、特定の電話機に|狙《ねら》いをつけてコールしてきたような正確さだった。 「トラップの可能性は?」 「ワイヤー、赤外線ともに確認できません」  デニスの言葉を受けて、マイクは周囲を警戒しながら、カウンターを飛び越えた。呼び出しを示す赤いランプの点滅を眺めてから、受話器を取る。 『遅かったじゃないか』  声は|瓢々《ひようひよう》としていた。  マイクは|眉《まゆ》をひそめた。黒いマスクがなければ、嫌そうな顔、と受け取れたかもしれない。電話越しの|台詞《せりふ》は聞き慣れた医者のものだった。彼は、この医者に命を助けられた事があった。 「『|冥土帰し《ヘヴンキヤンセラー》』……」 『退院した患者さんと話すっていうのは医者の楽しみの一つなんだけど、ちょっと時間がないから手短にいきたい。構わないかな?』  医者もこちらの|素性《すじよう》を看破しているようだ。  おそらく自分が受け持った患者の顔や声は忘れない人間なのだろう。 (……どこからこちらを|窺《うかが》っている?)  この施設のセキュリティは突入前に|全《すべ》て|潰《つぶ》したつもりだった。しかし、カエル顔がピンポイントでマイクへ連絡を入れてきた所を見ると、別系統のセキュリティが|稼動《かどう》しているものと見た方が良い。 「余裕だな。|潜伏中《せんぷくちゆう》には、こういう挑発的な行動は取らずに|沈黙《ちんもく》しているのがセオリーだ。逆探知されたいのか」 『そんな基本的な事で失敗するほど子供ではないさ?それに、多少のリスクを負ってでもやっておくべき事があるのでね』 「やっておくべき事だと?」 『僕は患者の味方だ。君がベッドから動けない病人|達《たち》を|戦闘《せんとう》に巻き込むような人間であっても、命が奪われようとしているのなら救わないとね。医者の言葉は重要だよ? |頼《たの》むから聞いて欲しい』  医者はスラスラと言った。  しかしそこには、やはり|若干《じやつかん》ながらの|棘《とげ》がある。 『|木原《むはら》の下を|離《はな》れ、逃走しろ。そうしないと君達の命が危ない』 「本気で言っているのか」 『君は|一方通行《アクセラレータ》に潰される』 「あの腰抜けにか?」 『勘違いをしているようだけどね』医者は動じない。「|一方通行《アクセラレータ》は、決して善じゃないんだ。白じゃない。小さな光を得て、多少の白い善を手に入れたようだが、彼は基本的には黒い悪なんだよ。今までは……そう、限りなく黒に近い灰色、といった所かな。どちらにでも転ぶ、不安定な状態の危険な存在だね?』 「……、」 『分かっているだろう? ようやくわずかな白を手に入れた彼を、再び真っ黒に染め直したのは君|達《たち》だ。|故《ゆえ》に、彼は一切の加減をしないだろうね。|容赦《ようしや》ではなく、加減をしない。その小さな光が|闇《やみ》に埋もれるのを防ぐためなら、|全《すペ》てを血に染めてでも行動を続ける。君は|一方通行《アクセラレータ》に会ってはならない。僕が患者に言えるのはそれだけさ。|繰《く》り返す、君は|一方通行《アクセラレータ》に会ってはならない。今の彼は、君が見てきた彼じゃないんだ』 「|世迷言《よまいごと》を」 『そうか。意図が伝わらなかったのは残念だ』  医者はそこで言葉を切った。  それから、言う。 『ところで、僕達に危険を伝えてくれたのは|誰《だれ》だと思う?』 「なに?」  マイクは|眉《まゆ》をひそめ、それから嫌な感覚が胸に落ちた。 (まさか……ヤツが……?)  そこまで考えて、ハッとした。危機を伝えたのがヤツなら、当然ここに『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』が|踏《ふ》み込んでくる事も推測できているはずだ。  警戒を|敷《し》き直そうと、マイクは近くにいる|同僚《どうりよう》のデニスに身振りで伝達しようとしたが、その前に医者がポツリと言った。 『死ぬなよ。死なない限りは助けてやる』  ぎゃああああ!! と。  建物全体を|震《ふる》わせるような絶叫が、|天井《てんじよう》から|炸裂《さくれつ》した。  |敷地《しきち》内のあちこちで、銃声が連続で|響《ひび》いていく。しかしそれらは、一つ一つを摘み取るように、確実に|沈黙《ちんもく》していく。  何かが近づいてくる。  マイクは受話器を投げ捨て、デニスと共にサブマシンガンを取る。物陰に隠れ、暗闇の向こうへ目を|凝《こ》らし、少しでも多くの情報を先んじて入手しようと努める。  そして、 『恐怖』が目の前に現れた。  デニスやマイクを含む『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の一班は、およそ一〇分間で消滅した。      4  ヴェントは雨の街にいた。 (くそ……)  その動きは遅い。口元に当てた手の指の|隙間《すきま》から、どろりとした血液がこぼれていた。時折、背中が大きくビクリと動いたと思ったら、赤い塊を地面に背中が大きくビクリと動いたと思ったら、赤い塊を地面に|吐《は》き出している。 (……何だこれは。|誰《だれ》かからの、|攻撃《こうげき》……? おのれ。あと少しで、標的を殺害できたのに)  そんな彼女を、人工の光が照らしていた。  光は動いている。  デパートの側面には、広々とした大画面が取いた。アナウンサーの切羽詰まった声がヴェントの耳を|叩《たた》く。  どうやち国営放送のものらしい。 『ええ、現在、突発的に意識を失う人が出ている、という報告が全国のあちこちから届いています。警察では原因の特定を急いでいますが———』 「が、ぁ……」  体の内側からの痛みと寒気で、そちらへ注意を向けられない。  それでも、彼女は血まみれの唇を動かす。 「……そっちの方にも広がった、ってコトね。私の攻撃は|狙《ねら》いを決めるのが難しいから、なぁ。学園都市さえ……制圧できれば、良かったんだけど」 『日本のみならず、海外の一部でも被害の報告が見られているようです。なお、これに伴って空港や鉄道、船舶など交通機関のダイヤに|影響《えいきよう》が出始めており———』 「はぁ……」  ヴェントは大きく息を吐いてから、告げた。 「バチカンの方に被害が出ていないと良いなぁ[#「バチカンの方に被害が出ていないと良いなぁ」に傍点]」  大して気にしてなさそうな声だった。  ニュースの方も混乱が続いているようだが、番組の方にも尺があるらしい。別のレポーターに代わり、次の原稿が読み上げられていく。 『続いては経済です。東京都内にある、世界のお菓子を集めたパラレルスウィーツパークで、秋の甘味フェアが開催されました。営業開始に合わせて———』 「……、」  ヴェントはジロリと大画面へ眼球を向けた。 『来客の予定人数は、開園一週間で二〇万人を超すと言われており、グッズ関連の製造で中小企業との連携も期待されている事から、アトラクション業界のみならず地域経済全体に』  ボン!! という|轟音《ごうおん》と共に、火花を散らして大画面が吹き飛んだ。  ヴェントは、ハンマーを肩で|担《かつ》ぐ。  彼女は雨の街を再び歩き始めた。      5  |上条《かみじよう》は今にも崩れそうなファミレスの建物から、意識を失っている客や店員|達《たち》を雨の下に引きずり出した。|下敷《したじ》きになるのを防ぐためだ。次に|怪我人《けがにん》の手当てに移る。手足を飛ばされたのは、黒ずくめの連中だけだ。ロープで傷口断面を強引に|縛《しば》って血を止める。感覚が追い着いていないのか、傷口を見てもパニックにならないのが逆に怖かった。  それから救急車を呼んだが、街の現状を|鑑《かんが》みると病院に着けるどうかは五分五分か。 (そうだ。|打ち止め《ラストオーダー》のヤツは……)  周囲を見回しても、もちろんいるはずがない。上条は雨の中を走り、近くにあった|警備員《アンチスキル》の詰め所へ入った。彼女が助けを求めるなら、そこが一番可能性は高いと思ったからだ。しかし中はしんと静まり返っていて、テーブルに突っ伏すように|警備員《アンチスキル》の男が倒れているだけだ。  状況的にはレストランと同じ。上条はさらに遠くの詰め所を二、三件回ったが、どれも似た感じだ。ここにいても安全ではない。となると、|打ち止め《ラストオーダー》は一体どこへ逃げ込んだのだろう。  あれこれ捜し回っている内に、時間だけが経過していく。  と、そこで上条は自分のポケットの中にある物に気づいた。  それは子供用にデザインされた、|可愛《かわい》らしい携帯電話だった。|打ち止め《ラストオーダー》がファミレスから逃げる際に落としていったものだ。これで彼女は、|誰《だれ》とも連絡が取れなくなった事になる。 (あの黒ずくめと、ヴェントって名乗ったローマ正教の女……。どっちにも|狙《ねら》われてる事を考えると、これ以上モタモタしていられない)  ヴェントが狙っているのは上条らしいが、かと言ってあの女が|打ち止め《ラストオーダー》と遭遇した場合、にっこり笑顔で仲良しになるはずがない。本命ではないからと言って、その他の人間に気を配るような人間には見えなかった。 「……、」  上条はもう一度、|打ち止め《ラストオーダー》の携帯電話を見た。  悪いと思いながらも、電源を入れて登録アドレスを表示した。  |打ち止め《ラストオーダー》が単独で逃げるか、知り合いに助けを求めるかは上条には分からない。が、知り合いに助けを求めるなら、このアドレスを|辿《たど》って行けば|打ち止め《ラストオーダー》に会えるかもしれない。そうでないとしても、彼女の知人にも危険を知らせておいた方が良いだろう。|打ち止め《ラストオーダー》が行きそうな場所を教えてもらうのも良い。  登録件数は極端に少なかった。  画面をスクロールさせる必要もない。四件ぐらいしかないからだ。本当にただ電話番号が記 録してあるだけで、名前も書いてなかった。『登録1』『登録2』という、そっけないデフォルトの表示が並んでいる。もしかすると、保護者の人に持たされているだけで、自分では全然 使っていないのかもしれない。  一件ずつ登録番号に電話をかけていく。  しかし呼び出し音が続くだけで、一向に相手が応じる様子はなかった。正体不明のヴェントの|攻撃《こうげき》は、予想以上に広範囲に及んでいるのかもしれない。  三件は|沈黙《ちんもく》だった。  残る最後の一件も同様なら、これで手は終わりだ。  祈るような気持ちでボタンを押す。  携帯電話を耳に当てる。  土砂降りの雨の中、単調な呼び出し音が鳴り始めた。      6  |一方通行《アクセラレータ》は暗い病院の中で、軽く周囲を見回した。  グチャグチャになって息を|吐《は》いている敵は、その辺に転がしてある。|杖《つえ》代わりにしているショットガンと同じ形式の銃はなく、弾丸の補充はできなかった。|他《ほか》の銃を拾っておくという選択肢もあるにはあるが、彼はそれを|避《さ》けた。あまり銃器に|頼《たよ》っていると敵に認識させたくない。 (さて、これで分班を二つほど|潰《つぶ》した訳だ)  大粒の雨が当たる窓を眺めながら、|一方通行《アクセラレータ》は唇の中で|呟《つぶや》く。 (|木原《きはら》のクソ野郎も、これで多少はプランを変更せざるを得なくなる。|俺《おれ》を潰す事の優先順位が跳ね上がる。その分だけあのクソガキの危険度は引き下げられるって寸法だ)  一見何もかもこちらが優位に見えるが、実際には|一方通行《アクセラレータ》の劣位は変わらない。普通の『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』をいくら潰した所で、木原は|焦《あせ》りはしても恐怖は覚えない。|何故《なぜ》なら木原には|一方通行《アクセラレータ》を素手で|叩《たた》き伏せる特殊な体術があ。るからだ。  さらに、木原|数多《あまた》や|打ち止め《ラストオーダー》がそれぞれ街のどこにいるのか、ヒントもない。今の|一方通行《アクセラレータ》には決定的なアクションを起こす事ができない。相手がポロを出すのを待つしかない。  |打ち止め《ラストオーダー》がまだ捕まっていなければ、|一方通行《アクセラレータ》がこれまで行ってきた戦術は有効になる。木原はプランを変更し、こちらにさらなる|刺客《しかく》が回され、その分だけ招鱈塀を追う人数は削られていくはずだ。  しかし、すでに|打ち止め《ラストオーダー》が|木原《きはら》に捕まってるのなら、|一方通行《アクセラレータ》の努力は|無駄《むだ》に終わる。木原の位置が分からない以上、即座に助けに行く事もできないし、木原がボロを出すような機会も完全になくなる。彼らの目的は|打ち止め《ラストオーダー》であって、|一方通行《アクセラレータ》ではない。下手に手を出し続ける必要もないのだ。 (二つに一つ。妥協点ナシ、か。ったく笑えねェ状況だ)  |一方通行《アクセラレータ》は舌打ちしてから、足元を見た。『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》が使っていた無線機がある。|苛立《いらだ》ち紛れに、彼はそれを|踏《ふ》み|潰《つぶ》した。|一方通行《アクセラレータ》が無線を入手した事は木原も知っているらしい。先ほどから重要な会話はなくなっていた。もう無線は利用できない。 (にしても、何でこのタイミングでヤツらがあのガキを|狙《ねら》う?)  壁に背を預け、思う。 (研究|絡《から》みで|打ち止め《ラストオーダー》が欲しいってンなら、やっぱ|妹達《シスターズ》の方面か。っつっても、木原の野郎の言う通り、妹達ってのは戦力的には大した事ァねェ。木原はこの|俺《おれ》を開発した|馬鹿《ばか》だ。本気で能力者を軍事利用してェなら、俺のDNAマップを使うか、俺以上のDNAマップを作るかの二択の方が性に合ってるはずだ)  地下街の出入り口付近で木原に潰されかけた時、彼は妙な事を言っていた。|量産能力者《レデイオノイズ》計画は軍事利用が目的ではないとか、もしも本気で軍用能力者を作りたいなら、|超電磁砲《レールガン》ではなく。|一方通行《アクセラレータ》のDNAマップを利用していたはずだとか、そういう話だ。 (|量産能力者《レデイオノイズ》計画と、それに続く|絶対能力進化《レペル6シフト》実験)  彼はぼんやりと視線をさまよわせ、 (……俺やあのガキは、今まで一体ナニに|関《かか》わっていたンだ?)  何かを|掴《つか》みかけたような気もするが、|一方通行《アクセラレータ》の思考は長く続かなかった。  突然、携帯電話が小刻みに|震動《しんどう》したからだ。 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》は息を殺す。ポケットの中から小さな通信機械を取り出す。  画面に表示されているのは、|打ち止め《ラストオーダー》の番号だった。  思う。 (あのガキ本人か、木原のクソ野郎か。まさに両極端の二択だな)  通話ボタンを押す。  携帯電話を耳に押し当てる。 『良かった、ようやく|繋《つな》がったな!』  声は|打ち止め《ラストオーダー》のものではなかった。かと言って、|木原数多《きはらあまた》のものでもなかった。  木原の部下が電話を使っているのか、とも思ったが、 (……、この声?)  どこかで聞いた事があるような気もするが、はっきりとしない。電波の状況も良くないし、相手は外にいるのか、スピーカーからは豪雨の音まで入ってきている。 『今、|打ち止め《ラストオーダー》の携帯電話に残った登録番号に片っ端からかけてんだ。応答したのはアンタだけ。状況が|掴《つか》めないかもしれないが、協力して欲しい。あの子が危ないんだ!』  |罠《わな》の可能性は十分にあった。  しかし、その罠に乗らない事には|一方通行《アクセラレータ》に活路はない。 「どォいう状況だ?」  |一方通行《アクセラレータ》は少しでも多くの情報を得るため、意識を集中しながら尋ねる。  電話の声はベラベラとしゃべった。  完全下校時刻を過ぎた辺りで、街中で|打ち止め《ラストオーダー》と会った事。彼女の「知り合い』が正体不明の一団に|襲《おそ》われているから助けてほしいと|頼《たの》まれた事。現場に行ってみると、そこには黒ずくめの男|達《たち》が倒れているだけで『知り合い』はいなかった事。その後、黒ずくめの仲間らしき連中に追われ、|打ち止め《ラストオーダー》だけ先に逃がした事。今の|打ち止め《ラストオーダー》の安否は分からず、連絡もつかない。彼女を|狙《ねら》う危機が去ったかどうかも判断できないため、早めに保護しておいた方が良さそうだ、 という事。  黒ずくめの動きや|打ち止め《ラストオーダー》の位置などは、『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』なら簡単に|掴《つか》める。  ますます|罠《わな》の可能性が高くなってきたが、  しかし同時に、 (……いかにもあのガキらしい動き方じゃねェか) 「なぁ。もしかして、アンタが……あの子の言ってた「知り合い」って事で良いのか?』 「多分な」 『良かった。そっちは無事か。|打ち止め《ラストオーダー》の事もあるし、もし合流したら|一緒《いつしよ》に隠れててくれ』  話が|逸《そ》れそうだったので、|一方通行《アクセラレータ》は軌道を戻す。 「あのガキとはどこで別れた」 『第七学区のケンカ通り……じゃ、分かんねえか。ありゃウチらの間だけで使ってる名前だからな。っと、この道路って正式名称とかあんのかな?』  しばらく|沈黙《ちんもく》が続いた。もしかすると表示板でも探しているのかもしれない。 『あった。三九号線の木の葉通りって書いてある。そこにあるオリャ・ポドリーダって名前のスペイン料理系ファミレスだ』  場所には心当たりがある。  あの辺りは基本的には|賑《にぎ》やかだが、大きな通りを少し外れると、いつの間にか人の目が届かない裏路地にいるという場所だ。表と裏の接点が多く、引きずり込まれる人間も多い。 「逃げた方向は?」 『分かんねえ。建物から外へ逃がすのに精一杯だったからな。多分、通りに沿って」るとは思うけど。別れてからかなり|経《た》ってる。正直、今どこにいるかは予測がつかない』  そうでもない、と|一方通行《アクセラレータ》は思った。  完全下校時刻を過ぎて、バスも電車もなくなった学園都市では、乗り物がない。タクシーを拾うにしても、あんなあからさまに金を持ってなさそうなずぶ濡れのガキが手を上げた所で、|律儀《りちぎ》に|停《と》めるようなヤツはいないだろう。  |打ち止め《ラストオーダー》は歩くしかない。  その上、自分でやっておいて何だが、今の彼女は|木原《きはら》の手から逃れる際に高所から水面に|叩《たた》き付けられて体力を|削《そ》がれている。それがなくてもこの土砂降り。かなり経ったと言ったが、おそらく|打ち止め《ラストオーダー》はほとんど移動せず、どこかの建物で体力の回復に努めているはずだ。  電話の声が本当なら、今なら何とかなるかもしれない。  罠だとしても、そこから進展する可能性はある。 「分かった。後はコッチで回収しておく。オマエはそのケータイを捨てて、サッサと一般人に戻れ」 『何言ってんだ! |俺《おれ》も手伝うに決まってんだろ!!』  実は一人の方が動きやすいというか、下手に|素人《しろうと》に状況を乱されたくなかったのだが、意外に相手は食いついてくる。|罠《わな》にしろ、そうでないにしろ、|馬鹿《ばか》な野郎だ、と|一方通行《アクセラレータ》はウンザリした調子で、 「そォだな。オマエは第七学区のデカイ鉄橋に行け。あそこがいざという時の合流地点って事になってる。アイツが今も逃げてンならそこだ」  分かった、と何やら気合の入った返事がきた。  もちろん全部|嘘《うそ》なのだが。 『気をつけろよ。なんか今日の学園都市は少しおかしい。変なヤツが街の外から侵入してきてるし、|警備員《アンチスキル》とか街中の人|達《たち》がバタバタ倒れてるし』 「なに?」  |一方通行《アクセラレータ》は|眉《まゆ》をひそめた。  学園都市への侵入者や、大勢の人間がバタバタ倒れているという話はどちらも初耳だ。 『侵入者の方はともかく、街の異変の方も知らなかったのか? |警備員《アンチスキル》とか、ええと、黒ずくめの連中も被害に|遭《あ》ってたみたいだったな。レストランの客も倒れてた。|誰《だれ》かが腹とか|殴《なぐ》って、物理的に直接気絶させてんじゃないんだよ。その辺を歩いてる人間が、いきなりバタリと倒れるっていう|雰囲気《ふんいき》だな。いちいち確認してねーけど、周りが妙に静かだと思わねーか』 「……、」  どういう事だ、と|一方通行《アクセラレータ》は少し考える。  |木原数多《なはらあまた》はそこまでやるだろうか。ヤツの部下である『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』まで倒れているというのが気になるが、しかし木原なら部下を切り捨てる事にもためらわないかもしれない。  嫌な感じがするが、今は後回しだ。  とにかく|打ち止め《ラストオーダー》を回収するのが最優先である。 『かなり無差別的な|攻撃《こうげき》みたいだから、お前も気をつけろよ』 「面倒臭ェ……」  二人はそれぞれ言い合って、少しだけ|黙《だま》った。  やがて、電話の向こうで彼は言う。 『悪いな。本当なら、あの子は一人にするべきじゃなかった』 「……、お互い様だ。|俺《おれ》もあのガキを一人にしちまったからな」  通話を切った。  少しだけ手の中の携帯電話に目をやってから、ズボンのポケットにねじ込んだ。  |杖《つえ》の代わりに使っているショットガンをついて、彼は病院の出口に向かう。  ここが正念場だ。      7  |木原数多《きはらあまた》は暗い一室にいた。  今は使われていないオフィスだ。仕事に使われる機材の大半は消えていて、大量の事務机と|椅子《いす》だけが取り残されている。木原は椅子の一つに腰をかけ、両足を|埃《ほこり》っぽい机に乗せてくつろいでいた。  周囲には装甲服に身を固めた男|達《たち》が控えている。  最初に比べれば数は少ない。せいぜい五、六人程度だ。  それでも木原の顔から余裕が消える事はなかった。 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』はいくらでも上から回されてくる。それはつまり、クズな人間はどこにでも転がっているという事だ。人は木原を見れば悪い人間のお手本とでも表現するだろう。しかし、そういう非難を平気で浴びせている時点で、そいつも人の痛みを知らないクズに過ぎない。  消しても消してもなくならない。  だから彼は困らない。 「複数の班から連絡が途絶えました。おそらくは」  神経質な部下の声が聞こえる。  木原はゆったりとした調子で、適当に言葉を投げ返した。 「逃げたか死んだか。どっちにしても、後で心臓を集めねーとなぁ[#「後で心臓を集めねーとなぁ」に傍点]」  失態に対しては、死んだ程度では許さない。死体からパーツをもぎ取ってでもケジメをつけさせるのが木原のやり方だ。 「しかし、どちらにやられたのでしよう」 「どっちでも良いんだがなぁ。|一方通行《アクセラレータ》の方はどうにでもなる。貧弱すぎて|殴《なぐ》ってるこっちの胸が痛みそうなぐらいだし。……問題は、あっちの女の方だな」  学園都市の都市機能が|麻痺《まひ》しかかっているという情報は木原も|掴《つか》んでいる。  そして、それと全く同じ|攻撃《こうげき》を自分の部下達も受けている。  となると、『あの女』が街に攻撃を仕掛けている事になるのだが、 (……面白い現象だったな、あれ)  ナノテクや電磁波など、『目に見えない物理現象』とも違う気がする。普通、その手の兵器を使う場合は、使用者は専用のマスクやスーツなどを装着するものだが、あの女にはそういった防護策が一切なかった。  木原はすぐ近くにいた、別の部下に話しかける。 「|一方通行《アクセラレータ》の乗ったワンボックスにミサイルぶち込もうとした時に、女が|邪魔《じやま》に入ったろ。あの時|囮《おとり》に使った連中は回収できたか」 「ええ」  それだけで、黒ずくめは|木原《きはら》が何を尋ねようとしているのか理解したらしい。 「今、手持ちの機材で負傷者を調べている所です」 「状態は全員同じか」 「いえ。確認しただけで三種類あります。眠るように気を失っている者から、石のように硬直している者までいるようです」 「種類を分ける基準は。倒れた場所か?」 「同じ場所で倒れた者|達《たち》でも、振り分けられるグループはバラバラですね。この辺りは、まだ分かっていません」  一番多いグループは、と黒ずくめは前置きして、 「研究機関に回した訳ではないので正確な数値までは分かりませんが、どうも倒れた|囮《おとり》達は体内の酸素が極端に減じているようです。目に見えるほどの体組織の|壊死《えし》などは起こっていませんし、おそらく脳や内臓の機能に必要最低限な分は確保できているのでしょうが」 「……、人工的な仮死の|誘発《ゆうはつ》か」  人間に限らずほとんどの動物には、生命活動に必要なものが不足すると、それに合わせて体機能のレベルを低下させる防衛本能を持っている。動物の冬眠などを思い浮かべると分かりやすいだろう。  部下は続けてこう言った。 「ただ、酸素ボンベなどで一定値を供給しても変化はありませんので、何らかの『力』。が働いているものと考えた方が良さそうです。……あの女、何者なのでしょう。くそ、あんなヤツのせいで作戦達成率に|影響《えいきよう》が出始めていますし、オラフやルルも———」  声がぶつ切りになったと思ったら、黒ずくめはそのまま床に倒れてしまった。ごとん、という重たい音が、やけに生々しく耳に残る。 「———、」  木原|数多《あまた》は|椅子《いす》に腰掛け、テーブルに足を乗せたまま、ジロリと辺りを見回した。  それ以上の変化は起きない。  しばらく息を|潜《ひそ》めていたが、二発目が来る気配はなかった。  何らかの能力を使った|狙撃《そげき》かとも思ったが、相手にそんな力があれば木原も|蜂《はち》の巣にされているだろう。一番初めに木原が|狙《ねら》われなかった点や、部下が倒れたタイミングも気になった。 (野郎……どうやって狙いをつけてやがる……)  この廃オフィスには一面に窓があるが、単純にそちらから照準をつけているとしたら、やはり木原の方が優先的に狙われているはずだ。目視以外の、特殊な狙い方があるのか。木原ではなく、|隣《となり》にいた部下の方に狙いが|逸《そ》れてしまうような。  木原は思考を巡らせる。今『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』を|襲《おそ》っている特殊な現象。その一連の攻撃を、超能力だけで実現できるだろうか。 (難しいな)  一人二人を|狙《ねら》うなら可能だろう。しかし、先ほどの報告を聞く限り、倒れた部下の数はもっと多い。人間個人の体内の酸素を常に一定に保つだけでも大変なのに、バラバラの位置にいる複数人の体を|完壁《かんぺき》に制御下に置くとなると、技量的に無理が生じる。  まして、部下の話では違う症状で倒れている者もいるらしい。 (|犠牲者《ざせいしや》の数だけ|襲撃《しゆうげき》用の能力者を|揃《そろ》えりゃ、できねえ事はねえが……いくら何でもコストが高すぎる。ザコ一匹に兵隊一人|縛《しば》り付けたんじゃ割に合わねえ)  あの|一方通行《アクセラレータ》を直接開発した、超能力開発のエキスパートがそう判断するのだから、これについてはほぼ間違いない。となると、目の前で起きた怪奇現象は一体どんな法則で起こされたものだ。  超能力以外の力となると、ナノテクや電磁波など複数の科学技術が挙げられる。が、この場合も|木原《きはら》が無事だった理由が説明つかない。そもそも、そういった技術は人を気絶させる事ならまだしも、血中の酸素を制御するのは可能だっただろうか。  学園都市製の能力でも、先端技術でもない。  しかしだとすると、それこそオカルトの世界に話が進んでしまう。  まさか木原の前に立ったあの女は、本当に超能力以外の『力』を行使する人物なのだろうか。 (非科学、か)  木原の目が細くなる。彼はその言葉を否定はしない。  科学の最先端の場にいるからこそ、逆にその言葉は輪郭を鮮明にする。何千何万と実験を行っていると、理論だけでは演算できない妙な数値がチラリと出てきたりもする。木原|数多《あまた》は、|一方通行《アクセラレータ》を開発した辺りから、漠然と何かに|囚《とら》われていた。自分の信じている完壁な世界の理論のどこかに、見えない穴が空いているような感覚を。  彼は舌打ちすると、事務机から両足を下ろした。 「まぁ良い。こっちはこっちの事をやるだけだ。アレイスターの野郎もやかましいし、さっさと動いてさっさと終わらせるか」  アレイスターが何を最終的な目的として|打ち止め《ラストオーダー》を捕獲しようとしているのか、木原は説明を受けていない。しかしやるべき事の手順は伝えられている。それを実行すれば良い。 「|学習装置《テスタメント》の用意は?」 「こちらに」  倒れたのとは違う部下が、銀色のアタッシュケースを事務机の上に置いた。本来、電気的な洗脳機械である|学習装置《テスタメント》はかなり大きな物のはずだが、必要最低限の部分だけを抜き取ればこの程度にまで収められる。  もちろん、『余計な所』を省けば省くほど、被験者の安全は損なわれる訳だが。 (|一方通行《アクセラレータ》……)  アタッシュケースのロックを外し、ガチャガチャと機材を組み立てていく部下を眺めながら、ふと|木原《ほはら》はポツリと|呟《つぶや》いた。 「あらゆるベクトルを操る、か。じゃあ、ああいうイレギュラーはどうなんだろうな」 「は?」 何でもねえよ、と木原は言った。      8  |一方通行《アクセラレータ》は第七学区三九号線、木の葉通りに来ていた。 「電話の男』の言っていたファミレスはすぐに見つかった。まるで内戦国の建物のように、鉄筋コンクリートが|剥《む》き出しになるレベルで|破壊《はかい》されているのだ。木原の『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の連中も乱暴な手当てを受けたまま倒れている。最低限の|隠蔽《いんぺい》すらされていない。 「……、」  もしかしたら、『電話の男』は|罠《わな》ではなかったのかもしれない。  だとすれば、こんな惨状に巻き込まれたにも|拘《かかわ》らず、|打ち止め《ラストオーダー》だけでも逃がしたというあの男は、本物だ。 (チッ、早いところあのガキを見つけねェとな。アイツは一体どこへ行った?)  目印となるものでも残してあれば良いのだが、そんな気の|利《き》いたサインを記しておくだけの余裕はなかっただろう。仮にあったとしても、この雨では流されている可能性も高い。 (あのガキは|妹達《シスターズ》のネットワークを介して、『実験』当時使われていた証拠隠蔽マニュアルに従って逃亡してるはずだ。八月三一日の|天井亜雄《あまいあお》と同じパターンだな) 『実験』の事は思い返すだけで胸クソ悪くなるが、そこに活路があるのでは仕方がない。 (……衛星の目を盗み、なおかつ警備ロボットの巡回ルートを外れるような道だ)  電話の男は表通りにある|警備員《アンチスキル》の詰め所などを捜したそうだが、おそらくそちらは外れ。証拠隠蔽マニュアルを元に動いているなら、むしろ裏通りの方が怪しい。  |一方通行《アクセラレータ》はショットガンを|杖《つえ》の代わりにして、路地に入っていく。土砂降りの雨に打たれ、動きづらい体を引きずるようにして、ひたすら歩く。途中、ビルの裏口などがあると、一つ一つをチェックしていった。|電撃《でんげき》能力を使い、強引にロックを外した|痕跡《こんせき》がないかを調べていく。  収穫はなかった。  道は一本ではないし、どこかの建物に隠れているかもしれない。  いくら何でもヒントが少なすぎる。  敵から逃げるためなのだから仕方がないのだが、これでは捜しようがない。 「クソッたれが……」  |打ち止め《ラストオーダー》はこの近くにいるはずだ。それは間違いない。  あるいは、|一方通行《アクセラレータ》の方からサインを出せば、|打ち止め《ラストオーダー》は出てくるだろうか。そのサインとは何だ? |打ち止め《ラストオーダー》は携帯電話を手放している。そういった連絡方法が取れないなら、後は電極のスイッチを解放して派手に暴れ回るのも一つの手かもしれない。  と、ここまで考えて、|一方通行《アクセラレータ》は別の方法を思いついた。  あまりにも|馬鹿馬鹿《ぱかぱか》しくて、今まで考えもしなかった方法だ。  大声で名前を呼べば良い。  |一方通行《アクセラレータ》の声だと分かれば、|打ち止め《ラストオーダー》は出てくるはずだ。  しかし、見つからない子供の名前を呼んで歩き回るだなんて、まるで迷子を捜す父親のようだ。|普段《ふだん》の|一方通行《アクセラレータ》の価値観からして、最も遠い行動のような気がする。  笑ってしまうが、それしか手はない。  いかにも|忌々《いまいま》しそうに舌打ちしてから、彼は大きく息を吸い込んだ。  だが、声は出なかった。  声を出す直前で、『それ』を見つけたからだ。  土砂降りの雨が地面に落ちて作られた、汚い|水溜《みずたま》りの上に、何かが浮いていた。  それは破り取られた布切れだった。大きさはハンカチぐらいのものだ。近づいて観察してみると、男物のワイシャツの|袖《そで》のようにも見える。|一方通行《アクセラレータ》は袖口のデザインに心当たりがあった。|打ち止め《ラストオーダー》が空色のキャミソールの上から|羽織《はお》っていたものだ。  |一方通行《アクセラレータ》の思考に空白が生まれた。それから、少しずつ顔色が青ざめていく。  これは、  まさか、  そんな、  タイミングを計ったように、携帯電話が振動した。|一方通行《アクセラレータ》は、ノロノロとポケットから電話を取り出す。画面には見知らぬ番号があった。  違う、と思う。  これがヤツ[#「ヤツ」に傍点]なら、わざわざ通知する理由がない。こんな分かりやすい手をヤツは使わない。 だから|大丈夫《だいじょうぶ》だ。これはそういうものじゃない、と|一方通行《アクセラレータ》は自分に言い聞かせていく。  通話ボタンを押す。  耳に当てるまでもなく、大きな大きな声が彼の耳を打った。 「元気かなーん、|一方通行《アクセラレータ》。ぎやははははっ!!』  みしり、と手の中の携帯電話が|軋《きし》んだ音を立てた。  あまりにも予想通りすぎて、頭の血管が切れるかと思った。  |一方通行《アクセラレータ》の|瞳孔《どうこう》が大きく動く。ざわざわとした感情の渦が、彼を中心に周囲一帯へばら|撒《ま》かれていく。 「なァンの用かなァ、|木原《きはら》くゥゥン?」 『|遊び心《ユーモア》だよ。将棋にしてもチェスにしても、勝負ってなあ宣言して幕を下ろすモンだろうが。 昔の人間ってなヤルよなあ。散々ムカつきっ放しだったクソ野郎が、目の前で敗北に打ちひしがれる|瞬間《しゆんかん》を存分に味わえるんだぜ。これ以上の勝利の|醍醐味《だいごみ》があるかよ、なぁ?』 「宣言だと? マジで言ってンのかオマエ」 『信じねぇんならそれでもいーけどよ。っつか、そこにガキのシャツの切れ端とか落ちてねえ? まだだったら探してみうって、わーざわざ残しておいてやったんだからよぉ[#「わーざわざ残しておいてやったんだからよぉ」に傍点]』 「———、」 『「|学習装置《テスタメント》」ってのはすげーよな。人間の頭にウィルスぶち込めるなんて普通じゃねえよ。ハハッ! このガキ|身体《からだ》あガクガクに|震《ふる》わせてやがるぜ!!おいテメェのアドレス教えろよ、動画メールで送ってやる!!』  血の気が引いた。 (コイツら、あのガキをさらったのはこのためか……ッ!?)  木原が行っているのは、八月三一日に|天井亜雄《あまいあお》が行ったのとほぼ同じだ。洗脳機械を使って|打ち止め《ラストオーダー》の脳を直接書き換えているのだ。どんな内容の命令文を追加しているかは知らないが、まともな神経で行える事ではない。彼女の脳みその中にありったけの精液を|擦《す》り込むよりも|冒漬的《ぼうとくてき》だ。 『にしてもテメェ、分かってねえな。敵を殺さねえってやり方は、確かに有効だ。世の中には生き地獄って言葉がある。死ぬ事が世界一の恐怖だと勘違いしてる[#「死ぬ事が世界一の恐怖だと勘違いしてる」に傍点]連中は、そういうプレッシャーに耐えられずにパンクすんだろうさ。例えばウチの部下とかな。だがなぁ……』  木原は乾いた息を|吐《は》いた。  教え子の無能ぶりに失望した教師のように。 『そいつを知ってる俺には通用しねえんだよ[#「そいつを知ってる俺には通用しねえんだよ」に傍点]。安い演出だってのが丸分かりだボケ。いーかー、テメェみてぇなクソガキに復習タイムだ、|死体《オブジエ》ってのは、殺してナンボなんだよ。息の根を止めるってなあ、彫刻の顔を仕上げるようなモンだ。テメェのオブジェはギャラリーに飾る段階じゃねえ。適当に石を削ってその辺に投げっ放したあどういう了見だコラ。そんじゃ肉塊に対して失礼じゃねーかよー?」  |一方通行《アクセラレータ》は取り合わない。  今自分が置かれている状況を分析していく。 『そんな訳で、一回テメェにお手本ってのを見せてやる。キレーなお肉の作り方ってのを教えてやるよ。ガキの|残骸《ざんがい》眺めて思わずトンじまわないように覚悟しておけよぉ!!』  スピーカーを割るような笑い声が続いた。  |一方通行《アクセラレータ》はしばらくそれを聞いていた。  やがて、彼は携帯電話に向かってこう言った。 「で、|俺《おれ》はなンてリアクションすりゃ良いンだ?」 『あ?』 「腹ァ抱えて笑ってやンのが正解かなァ、マゾ太クン?」 『おいおい。テメェ、状況判断能力が|壊《こわ》れちまってんのか』 「そっちこそマジメにやってンのかよォ。今回の件が単に俺を悔しがらせるためなら、オマエはあのガキを回収なンかしねェ。さっさと死体に変えて送りつけてくンだろォが。|学習装置《テスタメント》? |馬鹿《ばか》じゃねェのかオマエ。ンなパッと見で分かりづれェ方法じゃ演出にならねェよ」  一方通行は笑いながら続けて言った。 「その辺をウロついてるチンピラどもは、世界の|闇《やみ》に|浸《つ》かれば自由を手に入れられるとかって勘違いしてるモンだが、実際には全くの逆だ。|潜《もぐ》れば潜るほど上下関係の|縛《しば》りは強くなる。なァ、そォだろ犬コロ奴隷の木原クン」 『分かった。テメェのマイブームはガキの悲鳴だな』 「むしろ聞かせてくンねェかな。展開が単調なンで飽きてンだよ。ここらで生存確認ってのをしてみてェ。何なら鼻でも削って送ってくれても構わねェぜ?」 『ご注文の品はそれで良いンだな。今ならセットで耳も届けてやるけどよ』 「|怖気《おじけ》ついてンじゃねェよ若造が。オマエだって|誰《だれ》かに雇われてンだろ。木原|数多《あまた》個人の研究に、あのガキを利用する意味はなさそォだし。どォせオマエみてェなのを好んで使ってる野郎だ。トップは『無傷で回収しろ』なンて涙|溢《あふ》れる|台詞《せりふ》を|吐《は》いてはいねェよなァ? 脳と心臓が無事なら後は問題ねェとか言われてンだろ。にも|拘《かかわ》らずブルッちゃって指一本触れられねェオマエは何なのよ」 「りよーかいりよーかい」 「|惨《みじ》めだねェ、木原クーン。オマエはどこのデリバリーよ。あンだけ|焦《あせ》ってたのは届けンのに三〇分|経《た》っちまうと|叱《しか》られるからだったンかァ?」 『殺す[#「殺す」に傍点]』  ブツッ、と唐突に通話が切れた。  土砂降りの雨音が、急に近づいてきた気がした。  |一方通行《アクセラレータ》はくるくると携帯電話を手の中で回転させ、今の会話を分析する。 (あの野郎の人格なら、ここまで言われりゃ電話の前であのガキの目玉の一つぐれェは絶対|弾《はじ》く。それがなかったって事ァ、おやおや。コイツは本格的にパシリ確定かよ)  危険な駆け引きだったが、これぐらいのリスクを負わなくては木原とは渡り合えない。 「———って事は、だ」  樋漣悟凱ば、|木原《きはら》をそれだ魍偲い|留《とど》まらせるほどのバックが存在するはずだ。 『猟犬部隊』の整った装備を鑑みるに、一番大きな可能性は、 (まさか……学園都市そのものか[#「学園都市そのものか」に傍点])  おそらくは、それらを直接束ねている統括理事会か。|妹達《シスターズ》を使ったあの『実験』当時と全く変わらない。いや、もしかすると、|全《すべ》ては地続きの出来事なのかもしれない。 (木原の居場所は分かンねェ。だが統括理事会の連中なら話は別だ。そっちを調べりゃ、木原が持ってる以上の『プラン』も|掴《つか》めるかもしンねェ。ンん? ……おいおい、すげェな。あっという間に進展しやがったよ。こンなに順調でオッケーなのか)  ばんばん、と|一方通行《アクセラレータ》は壁を|叩《たた》いて笑う。  彼はパチンと携帯電話を二つに折ってポケットに仕舞いながら、 「ふざっけンじゃねェぞ!!ナメやがってェえええええええええええええええッ!!」  絶叫した。  首筋のチョーカー型電極のスイッチを指で|弾《はじ》く。  |莫大《ばくだい》な演算能力が復帰する。  |一方通行《アクセラレータ》の立っている場所は狭い裏路地で、四方を見回してもコンクリートの壁しかない。  それでも関係なかった。  彼は絶対座標から標的の位置情報を確実に手に入れる。ギョロリと眼球を動かす。|一方通行《アクセラレータ》は知っている。|闇《やみ》に身を浸していたからこそ。その方角に建っている事を。 (敵は学園都市! ソイツを束ねてンのは統括理事長!!)  窓のないビルが[#「窓のないビルが」に傍点]。  学園都市の統括理事長がいるシェルターが[#「学園都市の統括理事長がいるシェルターが」に傍点]。 「がっ、ァァああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  |一方通行《アクセラレータ》は手近なコンクリート壁に手を突っ込んだ。ベクトル操作によって、まるで豆腐のように腕が埋没する。|一方通行《アクセラレータ》は|喉《のど》から血が出るほど叫びながら、壁の中にある腕を乱雑に振り回した。  全てのベクトルを統括制御する。  ゴン!! という|轟音《ごうおん》が鳴り|響《ひび》いた。  その|瞬間《しゆんかん》、九月三〇日の地球の自転は五分ほど遅れる事となった。  惑星の回転エネルギーという莫大な力を奪い取った彼の腕が、ベクトル操作によって|悪魔《あくま》の|一撃《いちげき》へ|変貌《へんぼう》する。  強引に|挟《えぐ》り出したコンクリート壁が、恐るべき速度で投げ放たれた。|一方通行《アクセラレータ》が立っているのはビルに囲まれた路地の一角だが、『標的』との間を|邪魔《じやま》する複数のビルが|紙屑《かみくず》のように|倒壊《とうかい》していく。  周りへの|配慮《はいりよ》とか、一般人を巻き込む事とか、そういった|考《よゆう》えは|一瞬《いつしゆん》で|全《すべ》て蒸発していた。  気がつけば、すでに放っていた。 『標的』までの|距離《きより》はおよそニキロ超。  窓のないビル。  学園都市の統括理事長・アレイスターの居城と言われる世界最硬のシェルター。  その核兵器の|衝撃波《しようげタは》を受けてもびくともしないと言われている巨大建造物に、  恐るべき速度で直撃する。  |莫大《ばくだい》な音の渦が|炸裂《さくれつ》した。二キロ以上|離《はな》れていても全く関係なかった。すぐそこにあった無人の銀行や役所の建物などを二軒、三軒と次々に吹き飛ばし、通りの向こうにあるビルとビルの間を突き抜け、高層ビルの側面に取り付けられていた電光掲示板を|毟《むし》り取り、そのまま標的まで一気に突っ込んだのだ。途中で人的被害が出なかったのは奇跡でしかなかった。彼は、全く考慮していなかった。  灰色の|粉塵《ふんじん》が|撒《ま》き散らされる。彼の視界が一時的に奪われた。  もうもうと立ち込める粉塵は、しばらくそのままだった。  やがて、ゆっくりと視界は回復していく。  |一方通行《アクセラレータ》の前に、広がっていく。 「……、」  世界は、何も変わっていなかった。  学園都市最強の超能力を全力で振るい、地球そのものの自転エネルギーまで奪い取って放った一撃。それだけのものをぶつけても、窓のないビルはびくともしなかった。  結果は明白だった。  壁は、あまりにも大きかった。 「くっ、ァァああああああああああああああッ!!」  崩れ落ち、|一方通行《アクセラレータ》は汚い|水溜《みずたま》りに|拳《こぶし》を|叩《たた》きつけた。どれだけやってもアレイスターには届かない。|得体《えたい》の知れない技術で衝撃は分散されているし、そもそも本当にあそこにいる保障もない。全てはダミーかもしれない。どうでも良い。そんなのはもう、本当にどうでも良い。  |打ち止め《ラストオーダー》を奪われた。  状況は考えられる限りで最悪のものだ。  彼が守りたかったものは、一つも残さずズタズタに引き裂かれていく。 (殺そう)  バチン、と電極のスイッチを元に戻して、彼は静かに思った。  |黄泉川《よみかわ》や|芳川《よしかわ》とどうにか連絡を取ろうとかいう考えは、|完壁《かんぺき》に消え去っていた。 (|木原数多《きはらあまた》を殺そう。絶対に殺そう。一〇〇回殺しても飽き足らねェあのクソ野郎を、この一回に|凝縮《ぎようしゆく》してぶち殺そう。そォしないと何もかもが話にならねェ)  ふらふらと、彼はショットガンを|杖《つえ》の代わりにして、立ち上がる。  ポケットの中にある携帯電話に意識を向ける。  そこには木原の番号が記録されている。ダミーにしても、調べる価値はあった。普通の手段で調べられないなら、普通でない手段を取れば良い。|一方通行《アクセラレータ》に未来はなく、|打ち止め《ラストオーダー》の未来も奪われつつあるのなら、何に|遠慮《えんりよ》する必要があるのか。|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》の詰め所程度のデータベースで話にならないなら、統括理事会の隠れ家を一つ一つ|潰《つぶ》してでも『|書庫《パンク》』に完全アクセスする、一二人のお偉いさんなど関係ない。必要なら顔でも心臓でも潰してやる。  街中に火を|点《つ》けてでも|炙《あぶ》り出して、細胞一つ残さず殺してやる。  |謳《うた》うように|呟《つぶや》き、彼はゆっくりと路地裏を歩き始めた。  彼の背中が、さらに深い深い|闇《やみ》へ消えていく。      9  アレイスターは窓のないビルにいた。  あれほどの|衝撃《しようげセ》を受けて、それでも建物の内装に変化はない。彼は広い部屋の中央にある、赤い液体に満たされた円筒容器の中で逆さに浮かんでいる訳だが、その液体が|若干《じやつかん》揺れた程度でしかなかった。 (何やら表が|騒《さわ》がしいようだが)  彼の意識は、その原因には向かない。  それぐらいなら、目を向けるまでもないと言うように。  アレイスターの視線は空中にあった。  どんな技術を使っているのか、何もないはずの|虚空《こくう》には、いくつもの四角い|映像《ウインドウ》が浮かんでいた。それらはアレイスターの眼球の動きに合わせて次々と表示を切り替え、彼の指先に合わせてコマンドが入力されていく。  これらのコマンドは、別に体を動かさずとも、脳波を検出する事でも補えるのだが、 (ふふ。たまには運動もしないとな)  体機能の大半を生命維持装置に預けているアレイスターは、極論を言えば|瞬《まばた》きすらしなくても良い状態にある。常に調整された液体の中にいるため、眼球を|潤《うるお》す必要がないからだ。指先を動かす事でさえも、『イベント』として認識される。その微細な動きに価値を貯跡し、神経を伝って脳に送られる信号を解析し、たったそれだけの仕草で|神業《かみわざ》級のインスピレーションを|誘発《ゆうはつ》させる訳だ。  彼には、体を|鍛《きた》えるという|概念《がいなん》はない。  筋肉の電気的収縮活動も、内臓の管理も、それらは|全《すべ》て機械が勝手にやってくれる雑事でしかない。かれこれ何十年も歩いていない、と聞けばさぞかし不健康と思うかもしれないが、アレイスターはこの世界の|誰《だれ》よりも理想的な健康状態を維持していた。  それは知的活動においても同じ。  アレイスターにとって、脳とは部品の一つに過ぎない。|魂《たましい》や生命とは切り|離《はな》された存在であり、代用はいくらでも|利《き》く。彼のインスピレーションはケーブルによって外部へ吸い出され、そこに|鎮座《ちんざ》するコンピュータの中で|醸成《じようせい》され、個人の意見としてアレイスターの脳内へ|還《かえ》る。生命維持装置は彼の|皮膚《ひふ》であり、内臓であり、脳である。もしかすると、この大型機械の群れは、今この瞬間は生きているのかもしれなかった。移植した臓器が患者の体に定着するように、あまりにも人間に接近しすぎた金属の群れは、もはや機械と呼ぶべきか人間と呼ぶべきか判断に迷うほどである。  触れれば鼓動すら聞こえそうな硬い塊に囲まれ、アレイスターはゆったりと|微笑《ほほ》む。  彼が眺めている画像には、いくつかのデータがある。  一つ目は、世界中にいる|妹達《シスターズ》の配布図と、彼女|達《たち》の脳波パターンのグラフ。  二つ目は、この街で生まれつつある『モノ[#「モノ」に傍点]』の生体データ。  三つ目は、超望遠で捕らえた、ヴェントが手すりに寄りかかって|咳《せ》き込んでいる映像だ。 (|木原《きはら》の方も、|最終信号《ラストオーダー》の回収には成功したらしい。対象コード注入後の予備段階で、早くも学園都市の『場』に変化が生じている)  アレイスターの思考には余裕が生まれていた。急場しのぎで、予想していた出力を大きく下回る結果だが、これだけあれば十分だ。 (AIM拡散力場を利用した虚数学区・五行機関は展開完了した。この学園都市の内部で|魔術《まじゆつ》を行使すれば、あらゆる魔術師は暴走・自爆する。前方のヴェント、だったか。それは貴様の体とて例外ではない)  インスピレーションは思考を生み、思考がインスピレーションを生み、後はその繰り返しで歴史を動かす大きな知的奔流が築かれていく。 (現在の出力では、世界を|覆《おお》う事などとてもできない。術的な圧力にしても、かろうじて耐えられるレベルだろうが……。まだまだだぞ。例のコードはまだ本起動もしていない。ヒューズ=カザキリの出番と共に、形勢はそのまま逆転する)  空中に新たなウィンドウが表示される。  そこには、この街の変化に戸惑い、雨の中を不安そうに歩く、|風斬氷華《かざのりひようか》が表示されていた。      10 ヴェントは鉄橋にいた。  大きな川にかかる橋だ。鉄とアスファルトで作られた構造物はひたすらに寒々しい。土砂降りの雨が|影響《えいきよう》しているのか、眼下の暗い川は増水していて、|濁《にご》った水が鈍い音を立てていた。 「ぐっ、げほっ、げほっ……」  水っぽい、|咳《せ》き込む音が連続する。  口を押さえる手の|  口を押さえる手の|隙間《すきま》から、重たい血がこぽれていく。ヴェントは自分の血まみれの手を眺めた。その手はガタガタと|震《ふる》えていた。 (これは……一体、何だ……?)  無理もない、彼女自身にも原因が分からないのだ。自分の体に何が起こったのか、それはどの程度のダメージなのか、この体は|大丈夫《だいじようぶ》なのか、|駄目《だめ》なのか。 (……私の、カラダは、特殊な作りをしている[#「特殊な作りをしている」に傍点]とは、いえ……。今までは、こんなコトは、なかった。コレは、そっちのせいじゃない……)  げほげほと、汚い音が続く。  雨に|濡《ぬ》れる路面に、新たな赤い色が散っていく。  土砂降りの雨に打たれて、目元の化粧が|若干滲《じやつかんにじ》んでいた。髪を|覆《おお》っている布地、ギンプも乱れ、額の辺りからほつれ毛がこぼれていた。 (となると、新たな……|魔術的《まじゆつてき》、|攻撃《こうげき》……? いや、それも、違う。ここは、学園都市。魔術的攻撃は、ありえない。術式を組まれた形跡も、ない。何より、私はそうしたモノを残らず迎撃[#「そうしたモノを残らず迎撃」に傍点]、する[#「する」に傍点]……) 「———ッ!!」  ずぐん、という震えが走る。  ヴェントの体から一斉に痛みが引いていく。  体調が回復したのではない。  逆だ。それ以上に優先すべき現象が起こったからだ。  圧迫感があった。体のどこが、というレベルではない。|皮膚《ひふ》の上から内臓の奥まで、血管一本残さず|全《すべ》てを絞られているような、そんな感覚だ。  その正体は『気配』だった。  あまりにも巨大な気配が、この学園都市そのものを揺さぶっていた。気配に、敵意はない。 ヴェントなど見ていない。|喩《たと》えるなら、|豹《ひよう》やライオンといった|猛獣《もうじゆう》が、自分の鼻先であくびをしているようなものだ。相手に敵意がなくても、貧弱な人間は冷や汗を流して震えるしかない。  気配の方角は分からなかった。  縮尺の単位が違いすぎる。まるでこの街銀てを灘い尽くしているようだ・獄獣げ腹に浄み込まれた人間が、その体内で湘手の気配を探ろうとする行為には何の意味もないという事か。強烈すぎるのに、輪郭すらも|掴《つか》ませない。敵対するには最悪のパターンだ。  その上……、 (この正体不明の気配、まだ|膨《ふく》らみ続けている……ツー7開)  一番|驚愕《タようがく》すべきはそこだった。世界を|震《ふる》わせ、いくつもの重なった一層』をたわませ、空間に横たわっている|魔術的《まじゆつてき》法則すら吹き消そうという巨大な何者かは、まだまだ序の口だと言わんばかりに圧力を増していく。十字教の『聖人』であってもここまでは行かない。ならばどう解釈する。 (コレが、学園都市の、|私達《オカルト》に対する、最終ライン)  アレイスターの余裕の正体はここにあったのか。  確かに、これは良くない。ヴェントは学園都市の都市機能の九割近くを騨畢させているが、その戦況が|覆《くつがえ》されかねない隠し玉だ。しかし「方で、今まで簡単すぎると思っていた節もあった。こうでなくては、魔術サイドと肩を並べる一大勢力とは言えないだろう。 「……関係、ない。何が出てこようが、私は目的を果たすだけってコトよ」  ヴェントは、口の中で短い言葉を棚いだ。  彼女の弟の名前だった。  それだけで、ヴェントの体を|苛《さいな》む震えが、いくらか引いた。血を|吐《は》いている原因も分からないという恐怖も|和《やわ》らいだ。思考に冷静さが戻る。|驚《おどろ》きに揺さぶられた心が、|芯《しん》を得る。 (都市機能の九割を奪ったコトは事実。こちらの優勢に変わりはない。アレイスターは、隠し玉を出さなきゃなんないほどに追い詰められてるってコト)  だから勝てると、ヴェントは口元の血を|拭《ぬぐ》って結論を出した。 (陰ながらの応援も[#「陰ながらの応援も」に傍点]、もう使えない。あの|上条当麻《かみじようとうま》が学園都市にとって、どの程度のポジションかは知らないが、アレイスターもヤツの死を止められない……)  街を防衛している|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》といった連中は|壊滅《かいめつ》している。そういった人間こそ、彼女の|攻撃《こうげき》を真っ先に受けやすいのだから。巨大な新手が現れた事で忘れかけていたが、ヴェントが着実に手を進めているのは確かなのだ。  殺すだけだ。  標的である上条当麻を。 (科学は、キライ)  ヴェントは手すりに両手を置きながら、思う。 (科学は、ニクイ)  自分をこんな風にした科学が嫌い。弟の命を助けなかった科学が憎い。  腕で口元を|拭《ぬぐ》って、ヴェントはゆっくりと深呼吸した。  ダメージを受けた自分の体に活を入れる。  さっさと標的の|上条当麻《かみじようとうま》を殺そう、とヴェントが鉄橋から|離《はな》れようとした所で、  唐突に、|凄《すさ》まじい|轟音《ごうおん》が鳴り|響《ひび》いた。  何らかの|遠距離攻撃《えんきよりこをげき》が放たれたらしい。発射地点近くのビルがまとめて崩され、そこから斜め上方へ一〇キロ近い距離を駆け抜け、どこかのビルへ突撃したようだ。 (何だ、今の……?) 『神の右席』やローマ正教とは関係のない動きだ。侵攻部隊はまだ街の外周部にいると思う。  自分以外にも学園都市はトラブルを抱えているという事か。 ヴェントは|眉《まゆ》をひそめていたが、そちらを深く追求している余裕はなかった。 「……、」  彼女は|虚空《こくう》から有刺鉄線を巻いたハンマーを生み出し、|掴《つか》む。  ヴェントの顔中に取り付けられたピアスは『肉体に金属を突き刺す』という関連性から、『神の子』を十字架に|縫《ぬ》い止めた『釘』の属性を持つ。対して、ハンマーは説明するまでもなく、『神の子』を処刑道具に打ちつけた|鉄槌《てつつい》だ。  彼女を|戦闘《せんとう》態勢へ促すのは、一つの音。  足音だ。      11  上条当麻は『電話の声』のアドバイス通り、夜の鉄橋に走ってきた。  しかしそこにいたのは|打ち止め《ラストオーダー》ではなかった。 『神の右席』。  前方のヴェント。 「なっ……テメェ!!」  上条が|吼《ほ》えると、ヴェントは振り返りざまに巨大なハンマーを振るった。  風の鈍器が雨を食い破り、上条はそれを右手で|弾《はじ》き飛ばす。  両者の間に、見えない|緊張《きんちよう》が支配する。 「何でテメェがここにいる! |打ち止め《ラストオーダー》をどこにやった?」  上条の叫びに、ヴェントはわずかに|眉《まゆ》をひそめた。  それから答える。 「わざわざ殺されに来たってコト?」 「あの子はどうしたって聞いてんだ!!」 「ラストオーダーだぁ? 知らねえんダヨそんなモンは!!」  互いの叫びがぶつかり合う。  しかし、二人がぶつかり合う事はなかった。  ドッ!! と。  |凄《すさ》まじい|閃光《せんこう》が二人の目に|襲《おそ》いかかったからだ。  視界が塗り|潰《つぶ》される。|上条《かみじよう》はこれもヴェントの策の一つかと思って警戒したが、ヴェントの方からも|歯噛《はが》みする音が聞こえた。  状況が|掴《つか》めない彼らへ、落雷のように一歩遅れて音と|衝撃《しようげき》が襲いかかる。  体中の関節が悲鳴をあげた。 「ぐああっ!!」  上条はそのまま路面へ転がった。鉄でできているはずの大きな橋が、|吊《つ》り橋のように揺れる。その動きに耐えられないように、いくつものボルトが|弾《はじ》ける音が耳についた。 (……っつ。何が……)  |屈《かが》み込んだまま、上条は頭を振った。  光と音が|離《はな》れてやってきたという事は、今のは|遠距離《えんきより》での出来事だったのだろうか。 (ヴェントは……ッ!?)  閃光は長時間にわたって目を潰すほどではない。上条は慌てて起き上がり、周囲を見回す。 (……何だ?)  と、彼女は上条など見ていなかった。  鉄橋の手すりに両手をつき、ハンマーを|脇《わき》に置いて、ヴェントは遠くにある物を食い入るように|睨《にら》み付けていた。 「あの野郎……アレイスターッ!!」  怒りに満ちた絶叫が|響《ひび》く。  上条に向けられたものより、数倍も数十倍も色の強い、明確なる怒気だ。  ヴェントはこちらを振り返った。 「テメェみたいな小物は後回しだ。……殺してやる。そうか。これが虚数学区・五行機関の |全貌《ぜんぼう》ってコトか! ナメやがって。そうまでして私|達《たち》を|貶《おとし》めたいかぁああああああああああああああッ!!」  ハンマーを掴むと、それを思い切り足元へ|叩《たた》きつけた。  ガァン!! という|轟音《ごうおん》と共に、アスファルトの破片が飛び散る。 「ッ!!」  |上条《かみじよう》が両手で顔を守った時には、すでにヴェントはどこにもいなかった。 (……消えた? って、まさか!!)  慌てて彼は手すりに駆け寄る。しかしその先を|覗《のぞ》き込んでも、はるか下にはごうごうと音を立てて流れる黒い川しかなかった。雨のせいでかなり増水している。まさか、あそこに落ちたのだろうか。それとも何らかの|魔術《まじゆつ》を使ったのか。 (一体、何が……。アイツは何を見ていたんだ?)  ヴェントは、上条|当麻《とうま》を殺すために、わざわざ学園都市を|襲撃《しゆうげの》したはずだ。  にも|拘《かかわ》らず、最大の標的である上条を、|完壁《かんぺき》に捨て置いていた。  上条は視線を、手すりの下から正面へと移した。  ヴェントの眺めていたものを確かめるために。 「……|嘘《うそ》だろ」      12  ———虚数学区・五行機関が部分的な展開を開始。  ———該当座標は学園都市、第七学区のほぼ中央地点。  ———理論モデル『|風斬氷華《かざきりひようか》』をベースに、追加モジュールを上書き。  ———理論モデル、内外ともに|変貌《へんぼう》を確認。  ———|妹達《シスターズ》を統御する上位個体『|最終信号《ラストオーダー》』は|追加命令文《コード》を認証。  ———ミサカネットワークを強制操作する事により、学園都市の全AIM拡散力場の方向性を人為的に|誘導《ゆうどう》する事に成功。  ———第一段階は完了。  ———物理ルールの変更を確認。  ———これより、学園都市に『ヒューズ=カザキリ』が出現します。  ———関係各位は不意の|衝撃《しようげき》に備えてください。      13  夜の学園都市は、雨に包まれていた。  |普段《ふだん》と比べても極端に交通量の少ない道路には光も乏しい。それは建物も同じだった。まるで街の住人がみんな出かけてしまったように、あるいは照明はなく、あるいは|点《つ》けっ放しのまま忘れられている風に、どこか夜景は取り残され、統一性を失った感じが出ていた。  そんな街の一角で、|莫大《ばくだい》な|閃光《せんこう》が|溢《あふ》れる。  |轟《ごう》!! と。光の中心点から、無数の|翼《つばさ》のようなものが吹き荒れた。まるで刃のように鋭い、 数十もの羽。一本一本は一〇メートルから一〇〇メートルにも及び、天へ逆らうように高く高 く広げられていく。  周囲にはビルがあるが、そんなものを気にしている様子はない。  |濡《ぬ》れた紙を引き裂くように、次々とビルが|倒壊《とうかい》していった。人間の作り上げた貧弱な構造物 を食い破りながら、翼は悠々と羽ばたく。世界の|主《あるじ》は人間ではないと、言外に語っているかの ごとく。  まるで、巨大な水晶でできた|孔雀《くじゃく》の羽のようだった。 「まさか……」  |上条当麻《かみじようとうま》は橋の上から、|呆然《ぱくぜん》とそれを眺めていた。  彼は知っている。  はるか前方に見える、非科学極まりないものの正体を。  ミーシャ=クロイツェフと名乗った、あれが現れた時と全く同じ|戦傑《せんりつ》の気配。  指先一つ動かさずに人類を滅亡させる術式を操り、その片手間で聖人を半殺しにした存在。  その名は、 「———天使!?」  自分の口で言っておきながら、あまりの|希薄《きはく》さに頭が追い着かなかった。 (いっ、いい加減にしろよ! ただでさえ、あちこちで問題が|湧《わ》いてんのに!! 一体この街じゃさっきから何が起こってんだよ!?)  ヴェントが顔色を変えたという事は、あれはローマ正教が用意したものではないという事か。  では、それ以外にどう説明できる?  |何故《なぜ》、学園都市で天使なんて言葉が出てくる?  学園都市の中には、ローマ正教や『神の右席』よりも危険な|魔術《まじゆつ》組織が|潜《ひそ》んでいるのか。  それとも、  科学サイドであるはずの学園都市が、あの天使を降臨させたというのか。  状況を理解できない上条など放っておいて、遠くにある天使の翼はゆっくりと動く。  |一際《ひときわ》大きな翼と翼の間で、|得体《えたい》の知れない放電のような光が|瞬《またた》く。  直後。 ゴツ!! と。 破壊の|一撃《いちげき》が放たれた。  生み出された壮絶な雷光は、蛇のように生物的な動きで学園都市の外へと飛んでいく。|上条《かみじよう》 はその残像を目で追う。強烈な光が突き刺さった地点は、まるで土地の地下にまんべんなく爆 薬が仕掛けてあったように、森と土と木々と人が上空まで舞い上げられた。学園都市の出口は 地平線の前後にあるはずなのに、上条の目でも『何らかのウェーブのようなもの』が上下した のが確かに見えた。それほどまでに、|膨大《ぽうだい》な量の物質が噴き上げられたのだ。  数秒遅れて、爆音が全身を打つ。  それはもはや|衝撃波《しようげきは》だった。あまりの威力に上条は転びそうになる。鉄橋全体が、天使の出 現時と同様、またもやギシギシと不気味な音を立てていた。ここにいる事に身の危険を感じる。 「……ッ!!」  |打ち止め《ラストオーダー》だのヴェントだの黒ずくめの男|達《たち》だの、今日一日で様々な問題が起こっているが、 あれは格別だ。あんなものが好き勝手に動き回ったら、それだけで学園都市は|崩壊《ほうかい》してしまう。  被害が学園都市の中だけで済むとも限らない。 (でも、|打ち止め《ラストオーダー》の方はどうする!?)  彼女を保護しないといけないのも事実だ。『電話の声』は、この鉄橋が待ち合わせ場所だと言ったが、|打ち止め《ラストオーダー》はどこにもいない。本当に現れたのか。それともヴェントを見て逃げたのか。 (ちくしょう!!)  上条は|打ち止め《ラストオーダー》の持っていた子供用の携帯電話を取り出して、登録番号にかけた。  電話はすぐに|繋《つな》がった。 「なぁ! 鉄橋まで来たけど、|打ち止め《ラストオーダー》はどこにもいなかった! そっちは見つかっ———」 『|馬鹿《ばか》じゃねェのか? 本当に信じてンじゃねェよ!!』  言い終える前に、向こうから怒鳴られた。  面食らった上条に、電話はさらに|苛立《いらだ》った調子で続ける。 『あのガキの居場所は、もオすぐ突き止められそォだ。少なくとも、|闇雲《やみくも》に街を走り回って見つかるトコにはいねェよ。後はこっちでやる。オマエはさっさと帰れ!!』 「……、」  くそ、と上条は心の中で|呟《つぶや》いた。  これに協力できない事が、胸に刺さる。 「悪い。お前、さっきのヤツ見たか? 街の一角に、すげえ光と|一緒《いつしよ》に、何十本って|翼《つばさ》が|湧《わ》き出てる場所があると思うんだけど」 『……学園都市の外周に向けて、何かを|撃《う》ってやがったヤツだな』 「|俺《おれ》は、あの『天使』を止めなくちゃならない。だから本当に、アンタと協力するのは難しくなる」  構わねェ、と声は気軽に返ってきた。  悪い、と上条は謝ってから、 「死ぬなよ」 『互いにな』  電話を切って、それをポケットにしまって、|上条《かみじよう》は顔を前に上げる。  多くのビルを切り崩した『天使』は、その偉容をまざまざと見せつけていた。 [#改ページ]    行間 八  鼓膜が吹っ飛ぶかと思った。  |土御門元春《つちみかどもとはる》は血まみれになって、水を含んだ泥土の上を転がっていた。彼は森の中にある、放棄されたバスの整備場にいたはずだが、今ではその影もない。|全《すべ》ては掘り返され、吹き飛ばされ、|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》となって再びこの地に降り注ぐ。まるで大規模な地滑りが起きた後のように、ドロドロに崩れた土の中に、大量の樹木が埋もれているだけだった。  敵の人影もない。泥の中に埋もれているか、あるいは木っ端微塵に吹き飛んだか。  土御門にとっては、今日が雨なのが救いだった。  彼の最も得意とする術式は「黒ノ式』、すなわち水にある。  |陰陽《おんみよう》博士として最高峰の実力を誇る土御門元春が、とっさとはいえ自分の全身|全霊《ぜんれい》をかけて張り巡らせた防御用の術式。それをもってして、彼はようやく生き延びられたのだ。 「ごっ、ぽ!?」  しかし、それでも血の塊が口からこぼれた。  彼は元々|魔術《まじゆつ》が使えない体なのだが、その反動だけではない。明らかに防御用の術式を食い破って、外からの|衝撃《しようげの》を受けて体が引き裂かれていた。  木の杭も何もない。  本命の術式を|壊《こわ》すどころか、周囲一帯の地形ごと、まとめて|破壊《はかい》された。 (な、にが……)  土御門は泥に体を埋めるような格好で、思考を巡らせる。 (一体、何が、起きた……?)  |遠距離《えんきより》から一撃を受けたようだが、それが具体的にどんな術式かは全く想像がつかない。その上、攻撃は学園都市の方向からやってきた。安易に魔術攻撃=ローマ正教と決め付けるには、あまりに不自然な状況だ。  土御門は起き上がる事もできず、そちらへ首を巡らせて、 (|嘘《うそ》だ、ろ……)  はるか遠く、学園都市の内部で展開されている無数の|翼《つばさ》を見た。  ここからでは小さな影しか見えない。外周の壁や背の高い建物の陰に隠れて根元も良く分からないが、それらの翼が目に入っただけで、呼吸が止まった。  天使。  ミーシャ=クロイツェフのものと外観は似ているが、中身は全く違う。大天使『神の力』が突き刺す冷気のような|雰囲気《ふんいき》をまとっていたのに対し、今展開されているのは、蒸し暑い部屋に充満した接着剤の|匂《にお》いを|嗅《か》いでいるような、そんな不快感が強い。  そう、あれは人工的に形作られた天使。  学園都市と敵対する|魔術師《まじゆつし》に向かって正確に放たれた|攻撃《こうげき》。 (ア、 レイ、スター……)  |土御門元春《つちみかどもとはる》は、思わず唇を動かしていた。  虚数学区・五行機関。学園都市を中心に集束し、さらには世界中にばら|撒《ま》かれた|妹達《シスターズ》によって拡散されたAIM拡散力場を統御する事によって生み出される、人工の『界』。 「あれを使っちまったのか、あの野郎……」  天使の出現と同時に、学園都市内部も|大騒動《おおそうどう》になっているだろう。  しかし、土御門の予想では、『界』の完成と共にあらゆるオカルトは消滅し、魔術師も死に絶え、魔術施設は|倒壊《とうかい》するはずである。|未《いま》だに土御門の命は保たれているし、術式の構成に違和感もない。  おそらく、あの虚数学区は未完成だ。  そうでなくては、|今頃《いまごろ》土御門も『あらゆる魔術の排除』に巻き込まれている。  そんな不完全なものをアレイスターが引きずり出してきたという事は、 (『神の右席』……。学園都市も、本格的に手詰まりか……)  あるいは、これすらもヤツの『プラン』の一つに過ぎないのか。  思うが、今はそれどころではない。  一刻も早く立ち上がり、ここを去らなければ、次の攻撃が来る。あんな物まで持ち出してきた以上、アレイスターは本気で敵を|殲滅《せんめつ》する腹だ。抵抗ではなく反撃。ローマ正教からの|刺客《しかく》を残さず|叩《たた》き|潰《つぶ》すために。このままでは土御門も巻き込まれる。 「ぐっ……」  土御門は両足に力を込めたが、まともに動かなかった。  先ほどの|衝撃波《しようげきは》で、体の|芯《しん》までダメージが蓄積しているのだ。 「ぜぇ、はぁ……」  のろのろとした動きで、何とか立ち上がろうとする。  体は動かない。  学園都市に出現した天使が、またもや|不穏《ふおん》な光を放ち始めた。  二発目が来る。  分かっていても、足が思うように動かない。  歯を食いしばる。  前を見る。  ここで死ぬ訳にはいかない。だから、彼はそれでも|諦《あきら》めない。 [#改ページ]    第九章 立ち塞がる障害の違い Two_Kinds_of_Enemies.      1  第七学区の立体駐車場には、巨大な自動車が|停《と》まっていた。  白い車体は観光バスほどの大きさだが、窓がない。そしてこれはバスではなく、世界最大の救急車だった。一〇人の人間を収めるための生命維持装置つきのベッドが完備されている儲、簡単な手術を行うための設備も整っている、病院車と呼ばれるものだ。  駐車場には一〇台ほどの病院車が停めてある。フルで使えば、一〇〇人の患者を収容できる計算だ。  その病院車の陰に隠れるように、複数の小さな人影があった。  |妹達《シスターズ》だ。  少女|達《たち》は|常盤台《ときわだい》中学の制服であるブレザーとはあまりに似合わない、アサルトライフルや対戦車ライフルなどで武装していた。数はおよそ一〇。彼女達は|木原数多《きはらあまた》なる人物が放つ『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』という敵対組織を警戒している。  そんな中に、少女の声が|響《ひび》く。 「|離《はな》して! �ミサカネットワーク接続用バッテリー�がないなら、ここにいても意味がないかも! 街の様子もおかしいし、私は確かめに行かなきゃいけないんだよ!!」  白い修道服を着た少女が、看護師達に押さえられている。|三毛猫《みけねこ》も毛を逆立てていたが、両手で女医に抱えられているので、脚をパタパタ振っても抜け出せそうになかった。  |騒《さわ》ぎ声は|御坂《みさか》妹の耳にも届いているが、首を巡らせるだけの余裕はない。  体をまともに動かせない。 『(———上位個体二〇〇〇一号より信号を確認ご 『(———危険度5と推定、ミサカ一〇〇三二号は拒ぜご 『(———拒絶を認めず。R、V、Y経路で信号を|受諾《じゆだく》)』 「(——— ミサっ、思考き能に重ううう大ナ負荷)』 『(———拒絶を認めず)』  ザァッ!! とミサカネットワーク内に巨大な波のように、ある種の信号が広がっていた。それはあっという間に世界を|覆《おお》い尽した。  |最終信号《ラストオーダー》からの|緊急《きんきゆう》コードだ。  その内容がどんなものであれ、下位個体である|妹達《シスターズ》には|抗《あらが》えない。  脳の|稼動《かどう》領域の大半を奪われた彼女|達《たち》は、ただ呼吸するだけの生物として、|各《おのおの》々がその場で固まっていた。  どうする、と全員が思っていた。  |最終信号《ラストオーダー》が何者かの手に落ちたのは間違いない。そして、そこからくる命令は、どんな悪意的なものであっても|抗《あらが》えない。かと言って、このまま指を|唖《くわ》えて状況を眺めているなど論外だ。 (命令に、抗わない範囲での、行動を……)  一〇〇三二号、|御坂《みさか》妹は、ミサカネットワーク上へ情報を送信する。 (……それが、結果的に、この危機的状況の、打破に|繋《つな》がれば……)  全員がそれに応じた。  ウィルス(と、|妹達《シスターズ》は|最終信号《ラストオーダー》からの|緊急《きんきゆう》コードを再定義した)に対し、|無駄《むだ》に抗う事をやめる。そうする事で、これまで抵抗用に|割《さ》いていた演算領域を確保し直す。得られたのは、ほんのわずかな思考能力であり、御坂妹は指一本動かす事ができない。  それでも、一万もの数が集まれば一つの力になる。  |妹達《シスターズ》は、その力を自分達で|溜《た》め込むような事はしなかった。  もっと有効に使える人物を、彼女達は知っている。      2  順風|満帆《まんぱん》。  それがトマス=プラチナバーグの人生を示す言葉だった。  裕福な家に生まれ、何不自由ない暮らしを送り、高い教養を身につけ、大胆な|賭《ビジネ》け|事《ス》に勝利し、結果として|莫大《ばくだい》な富と権威を手に入れてきた。|統括理事長《アレイスター》を除けば一二人しかいない学園都市統括理事会に、三〇代後半という異例の若さで|抜擢《ばつてき》されたのも、そういった彼の遍歴を象徴するトロフィーだ。  今まで一度も失敗して来なかったし、これからも成功以外の道は歩まない。  一点の|曇《くも》りなく、そう信じてきた。  |誰《だれ》にも話していないが、いずれは統括理事長として学園都市の|全《すぺ》てを|掌握《しようあく》する事も難しくないと思っている。それは野心でも何でもなく、ただ自然な流れとして、今あるベストを尽くせば、後は勝手に決まっていくものだろうとしか考えていなかった。  まさか、だ。  そんな彼は夢にも思わなかっただろう。玄関のドアを開けた|瞬間《しゆんかん》にショットガンの銃口を胸板に押し付けられ、そのまま引き金を引かれて、五メートルも後ろへ吹っ飛ばされるなどとは。 「……、」  バゴン!! という|轟音《ごうおん》と共にノーバウンドで空を飛んだ成金小僧を、|一方通行《アクセラレータ》は冷めた目で眺めていた。|日頃《ひごろ》から命を|狙《ねら》われる可能性がある事ぐらいは自覚していたらしく、どうやら衣服の下に防弾ジャケットを着ていたようだ。おかげで上半身と下半身が真っ二つになる事はなかったようだが、どう考えても|肋骨《うつこつ》は|全《すべ》て粉々になっている。体がビクビクと|震《ふる》えているのも|痙攣《けいれん》であって、意識は|完壁《かんペき》に飛んでいるはずだ。  |一方通行《アクセラレータ》は、何かが吹っ切れていた。  窓のないビルへ| 窓のないビルへ|一撃《いちげき》あのクソ医者が言っての通りだ。彼は、たとキすら敵に回すのに、 どうして最初の時点 知らず知らずの内に味に笑ってしまう。「くっだらねェ」 ずぶ|濡《ぬ》れの格好も与は邸内を歩いていく。》を放った辺りからだろう。|誰《だれ》を敵に回す事も|禁忌《きんき》ではなくなっていた。あのクソ医者が言っていた|台詞《せりふ》の意味が、今になって理解できた。目的は一つに絞れ。全くその通りだ。彼は、たとえ打ち止めを敵に回してでも打ち止めを助けるべきだったのだ[#「たとえ打ち止めを敵に回してでも打ち止めを助けるべきだったのだ」に傍点]。あのガキすら敵に回すのに、|何故他《なぜほか》の人間に|踏躇《ちゆうちよ》しなくてはならない?  どうして最初の時点で、こういう手を考えなかったのか。  知らず知らずの内に、心理的な死角などというものを作っていた事実に、|一方通行《アクセラレータ》は|自嘲《じちよう》気味に笑ってしまう。 「くっだらねェ」  ずぶ|濡《ぬ》れの格好も気にせず、|豪奢《ごうしや》な|絨毯《じゆうたん》に黒々とした|染《し》みを|擦《こす》り付けるように、|一方通行《アクセラレータ》は邸内を歩いていく。一品一品に気を配っている割に、|屋敷《やしき》の規模はひどく小さい。そのせいか、洋館というよりコテージのように見えた。  家具の一つ一つで家が買える箱庭だ。  あちこちの部屋を|覗《のぞ》くと、使用人らしき複数の男女が、ベッドやソファ、床などで寝ているのが見えた。呼び出しに成金野郎が直接応じたのはこれが原因かもしれない。  |一方通行《アクセラレータ》は執務室を発見し、そこにあった大きな|黒檀《こくたん》の机に向かう。アンティークな一品……に見えるが、スイッチを操作すると|磨《みが》き上げられた板の一部が持ち上がり、液晶モニタとキーボードが出現した。作動音はない。使い勝手は黒塗りの高級車に似ている。  いくつかのキーロックがあったが、|一方通行《アクセラレータ》は少しだけ時間をかけて、全て解除した。指紋や|網膜《もうまく》などの生体認証は使われていなかった。おそらく、それをやると手首や生首を|快《えぐ》り取られる危険があると|踏《ふ》んでいたからだろう。実際、|一方通行《アクセラレータ》もそうするつもりだった。  三〇インチの大きなモニタに表示されたのは、一般人ならまず触れられないようなデータばかりだ。  学園都市での政策をまとめた書類がいくつも出てくる。分野に偏りがあるのは、ここの|主《あるじ》の専攻に関係があるのかもしれない。データの山は無意味に見えるが、飛ばし読みすると大事な資料を見逃しそうだ。かと言って、一つ一つのデータをじっくり調べていては、それだけで何日もかかるかもしれない。  そうやって、だんだんと|焦《じ》れてきた|一方通行《アクセラレータ》は、ようやく目的のデータに行き着いた。 「……コイツか」 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』についての情報だ。 現崔正体不明の脅威が学園都市を弊ていて、それを取り塗ために欝塀を速やかに回収する、という事が記されている。お笑い種だが、ヤツらはあれで街を守るヒーローごっこをしているようだ。 (ふざけやがって……)  思わず|唾《つば》でも|吐《は》きそうになった。  そんなにご立派な思想があるなら、まずは自分を盾にすれば良い。あんな小さなガキを散々に苦しめて、私|達《たち》をほめてくださいなんて調子が良すぎる。 「これは———」  さらにデータを調べた所で、|一方通行《アクセラレータ》は息を止めた。  どうやら統括理事会の連中は、『ウィルスを上書きさせた|打ち止め《ラストオーダー》』を使って脅威に対抗しようとしているらしい。となると、少なくともその『脅威』がなくなるまでは、|打ち止め《ラストオーダー》に死なれては困るという訳だ。  まだ終わっていないのかもしれない。  取り戻せるものはあるかもしれない。  |一方通行《アクセラレータ》は|微《かす》かな希望に|震《ふる》える手でキーを|叩《たた》いていく。  しかし、具体的に|打ち止め《ラストオーダー》を使って、どう『脅威を取り除く』のかは書かれていない。当然、脅威の内容やウィルスの詳細についても触れられていなかった。明らかに情報が足りない。会議での作戦申請書(という名の、実質的には命令書)があるだけで、『何を申請したのか』という肝心の情報が一切ない。ここから先のデータは、|統括理事長《アレイスター》の頭の中にしかないのかもしれない。  ただ、作戦指示書にあるコードの名は、 (ANGELだと?)  天使。その単語に、|一方通行《アクセラレータ》は|何故《なぜ》か学園都市の一角に出現した巨大な羽を思い浮かべた。  そして、それを止めると言った、あの男。  |闇《やみ》の中で戦っているのは、自分だけではないのか。 (……、)  ともあれ、今はそちらへ気を配る暇はない。最優先は|打ち止め《ラストオーダー》だ。  以前、八月三[日に|一方通行《アクセラレータ》は|打ち止め《ラストオーダー》の頭に書き込まれたウィルスを駆除している。  しかし、それは事前にウィルス情報を入手していた上、|一方通行《アクセラレータ》の力が万全だからこそ実行できた事だ。今のこの状況で、それが行えるとは思えない。  何より、バッテリーが足りない。  能力使用モードは、もうあと二分間も使えない。これで|治療《ちりよう》をするのは無理だ。 (いや、|俺《おれ》のチカラを使って|治療《ちりよう》する必要はねェ。|木原《きはら》はあのガキの頭をいじくるためにプロの|学習装置《テスタメント》を使ってるはずだ。それを利用すれば良い。ウィルス情報だって、ヤツの手にはオリジナルスクリプトがそのままあるはずだ)  ウィルス書き込み後に木原が|学習装置《テスタメント》を|破壊《はかい》している可能性もあるが……確率は低いと|一方通行《アクセラレータ》は|踏《ふ》んだ。それでは、万が一上手くいかなかった場合に軌道を戻せない。木原はそのために何らかの保険を用意しておくはずだ。 (となると、結局ヤル事ァ変わンねェって訳か)  ガタガタと連続でキーを打つ。 (ハッ、ヒットォ!!) 『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の待機ポイントはすぐに見つかった。 (木原を殺してあのガキをもぎ取りゃイイ。ははっ、ヤル事分かるとヤル気が出るねェ!!)  邸内には狩猟用のライフルがいくつかあった。  何種類かの弾丸の形式の中から、自分のショットガンと 致している物を探す。|一方通行《アクセラレータ》は弾を込めて外に出る。      3  インデックスは立体駐車場から土砂降りの外へ飛び出した。  今までは病院みたいな大きな車に揺られていたのだが、こそこそと隠れているだけの余裕はなくなっていた。  背後から制止を求める声が追ってきたが、彼女は振り返らない。 (まったく、結局あの�ミサカネットワーク接続用バッテリー�って何だったんだよ! もしかして|騙《だま》されてたのかも? しかも迷子だけでも大変なのに、学園都市にあんなのが出てくるなんて!)  やたらと羽だけが巨大で、肝心の本体はビルの陰に隠れて見えなかった。何十枚という羽の塊が、ゆっくりと移動しているのが分かる。人間が歩いているのと同じぐらいの速度だ。  天使。  何であん女ものが学園都市に出現したのか、インデックスには全く理解できなかった。その上、あの天使の情報は一〇万三〇〇〇冊の中に存在しない。こんな事態は、アウレオルスの『|黄金練成《アルスロマグナ》』以来だった。つまり、目の前の現象はそれに匹敵する大事なのだ。 (止めないと……)  インデックスははるか向こうに見える、最大で一〇〇メートルクラスの|翼《つばさ》を|睨《にら》み付ける。 (あれを止めないと大変な事になる)  先の|一撃《いちげき》だけでも壮絶な|破壊力《はかいりよく》を秘めていたが、あれがインデックスの知る『天使』と同等の存在だとしたら、その真価はそんなものではない。指先一つで地球上の生物を根絶やしにし、宇宙の星々にまで深い|影響《えいきよう》を及ぼすほどの力を持っているはずだ。  禁書目録。  |必要悪の教会《ネセサリウス》。 |全《すべ》てこうした事態に備えて作られたものだが、これほど|心許《こころもと》ないと感じた事はなかった。プロの|魔術師《まじゆつし》ですら、これだけの恐怖を受けるのだ。それを無関係な人々に与える訳にはいかないとインデックスは思う。  不気味なほどに静まり返った街を、インデックスは走る。土砂降りの雨のせいか、すれ違う人は|人は|誰《だれ》もいなかった。  その時、ずっとずっと遠くにいる『天使』が、夜空を引き裂くように|咆哮《ほうこう》を始めた。まるで有刺鉄線で作られた首輪を引っ張られている|獣《けもの》のような音だった。  何十枚という巨大な羽が、ビリビリと|震《ふる》える。不気味に|蠢《うごめ》いているようにも見えるし、痛みに耐えて身じろぎしているようにも見える。  そうしながら、あの『天使』は鳴いている。  インデックスは少しでも多くの情報を手に入れるため、そちらへ注意を向けていたが、 「……、え?」  彼女は、ふと疑問の声を放った。  とても人間には理解できないような、ただ空気を震わせているだけの音。  なのに、インデックスはその声を聞いて、何故か懐かしさを感じていた[#「何故か懐かしさを感じていた」に傍点]。 「———、」  彼女の視線の先には、『天使』の巨大な翼がある。  本来この世界にいてはいけないはずの、| |神々《こうごう》しいのに背筋を凍らせるような光の翼。その翼は、時々風に流されるように輪郭が|曖昧《あいまい》になり、また元へ戻っていく。海の波のように、風で|霧《きり》が揺らぐように。  その動きは乱雑に見えて、実は一定のパターンがある。  完全|記憶《きおく》能力を持つインデックスだからこそ、情報を照合できたのかもしれない。  彼女はこれと同じ動きを、以前にも目撃していた。  九月一日。  地下街で魔術師シェリー=クロムウェルを撃退した後、|上条当麻《かみじようとうま》と|一緒《いつしよ》にカエルみたいな顔の医者がいる病院へ行った時に。  それは、  この引っ込み思案で、何に対してもオドオドしているような|雰囲気《ふんいセ》の持ち主は、 「……ひょうか?」      4 「どうなってんのよ、あれ」  |御坂美琴《みさかみこと》は|呆然《ぽうぜん》と|呟《つぶや》いた。  コンビニで買った傘を差し、彼女は雨に打たれた街の真ん中に立ち尽くしている。完全下校時刻をとっくに過ぎているせいか、天気のせいか、それとも|他《ほか》に理由があるのか、|誰《だれ》もいない大通りで。  |上条当麻《かみじようとうま》を捜していたのだが、時間も遅くなったし、雨脚も|洒落《しやれ》にならなくなってきたし、もう引き上げようと思っていた矢先だった。突然、街の一角のビル群が|粉塵《ふんじん》を上げて崩れていき、鋭く|尖《とが》った|翼《つばさ》のようなものが数十本も飛び出したのだ。  超能力にしても、随分とスケールが大きい。  というより、一体どんな能力を使えばあんな事ができるのだろう。  しかも、その直後に翼は放電に似た現象を起こし、学園都市外周部を|破壊《はかい》し尽くした。 『放電に似た現象』であり、それは『放電』ではない。美琴は学園都市で最も優秀な|発電能力者《エレクトロマスター》だ。その彼女から見ても、あれは電気を使った力ではなかった。  では何だ?  その力が電気に似ていれば似ているほど、その正体を|掴《つか》めなかった美琴は、自分がこれまで信じてきた科学的なルールが通用しないのだという事を理解していく。  携帯電話を使って|白井黒子《しらいくろこ》に連絡を入れても、応じる気配はない。  |風紀委員《ジヤツジメント》の詰め所にかけても、|警備員《アンチスキル》に電話をしても、結果は同じだ。  とんでもない所に一人で置き去りにされた気分だった。そして、|何故《なぜ》だか知らないが、学園都市の治安維持機能は|完壁《かんペき》に停止している。その上であの怪物の出現だ。あまりにも突発的に現実味の|薄《うす》い状況に追い込まれ、美琴は傘を差したまま立ち尽くしていた。  と。  ばしゃばしゃと|水溜《みずたま》りを|踏《ふ》む音を鳴らし、誰かが美琴を追い抜いた。遠くに見える怪物へ向かって行くルートだ。雨具も持たず、ずぶ|濡《ぬ》れのまま走る少女の背中に、美琴は見覚えがあった。真っ白な修道服を着た、いつも上条と|一緒《いつしよ》にいるシスターだ。 「ちょ、ちよっと! アンタこんなトコで何やってんのよ!? 危険だって分かんないの!」  美琴は思わず彼女を追いかけ、その腕を掴んでいた。 「|離《はな》して!!」  インデックスは振り返りもしないで叫んだ。 「行かないと。あそこにはひょうかがいるの。どうしているのか知らないけど、止めないと。あそこにいるのは私の友達なんだよ!!」  よほど切羽詰まっているのか、ほとんど説明になっていない。あまりの事態に|錯乱《さくらん》しているんじゃないだろうか、と|美琴《みこと》が思い始めた時、視界に新たな人影が現れた。 「とうま!!」  そう、|上条当麻《かみじようとうま》だ。  一〇〇メートルぐらい先の曲がり角から、彼は大通りに出てきた。少年はこちらに気づいていないらしい。やはりインデックスと同じく、巨大な|翼《つばさ》の群れにしか目を向けていない。  捜し人を見つけ、美琴は思わず口を開いたが、言葉は出なかった。  知り合いを見つけたはずなのに、インデックスの抵抗が爆発的に強くなったからだ。  彼女は美琴の腕を振り|解《ほど》き、土砂降りの中で叫ぶ。。 「|駄目《だめ》だよ、とうま! ひようかを殺さないでッ!!」      5  上条当麻は追われていた。  鉄橋でヴェントを見失ってから、最優先で『天使』を止めるために都市部へ戻ってきた矢先だった。|打ち止め《ラストオーダー》を追っていたのと同じ、黒ずくめの連中と鉢合わせしてしまったのだ。  とっさに車も入って来れないような細い裏路地に逃げ込み、入り組んだ道を通って追跡を|撒《ま》こうとしていた。が、多少の地の利はあっても、訓練された人間を手玉に取れるはずがない。 今まで体を|撃《う》ち抜かれなかったのが|嘘《うそ》のようだった。 「駄目だよ、とうま! ひょうかを殺さないでッ!!」  だから、その大声を聞いた|瞬間《しゆんかん》、上条は心臓が止まるかと思った。  声の内容よりも、単に『大きな音』を銃声と勘違いして、撃たれたかと|錯覚《さつかく》したのだ。 「ッ!!」  その場で硬直して、二秒ぐらいかけてゆっくりと振り返り、ようやくインデックスや美琴がこちらへ走ってくるのを見て、上条はわずかに力を抜いた。すぐに力を抜いている場合ではないと思い返し、二人の腕を|掴《つか》んで別の路地へと飛び込んだ。  バタバタという複数の足音が、表通りに鳴る。  黒ずくめの連中だった。 あちこちに目を走らせているが、やがて上条|達《たち》の|潜《ひそ》んでいる場所にも気づくだろう。しかし、美琴はともかく、インデックスは黒ずくめの連中など気にも留めていなかった。何やら|怯《おび》えた|瞳《ひとみ》でこちらの顔を見上げてくる。  これまで何があったとか、|何故《なぜ》今追われているのかとか、そういう事は尋ねない。インデックスは、それより重要な事だけを告げる。 「お願い、とうま。あそこには行かないで。どういう理屈かは私にも分からないけど、でもあそこにいる『天使』はきっとひょうかなんだよ。あれは絶対に止めなくちゃいけない現象なんだけど、でもとうまだけは|関《かか》わっちゃ|駄目《だめ》! とうまが触ったら、善悪なんて関係なくひょうかが消えちゃうんだよ!!」  雨水を吸い込んだ|上条《かみじよう》のシャツを|掴《つか》んで、インデックスは切実に訴えてくる。  よほど|興奮《こうふん》しているのか、言葉はほとんどぶっ切りだ。  しかし、『ひょうか』という名前には心当たりがある。  |風斬氷華《かざきりひようか》。  AIM拡散力場の集合体。人間の心を持つが、人間の体は持たない者。 (まさか……)  上条の知る彼女は、ああいった|破壊《はかい》活動とは全く縁のない人間だ。しかし、AIM拡散力場の組成を外部から干渉できる者がいれば、ああいう『変化』も起きるかもしれない。AIM拡散力場を|完壁《かんペき》に操れれば、形状から言動まで、|全《すべ》てを統御できる可能性もある。  現象であるが|故《ゆえ》の不完全性。  だとすれば、彼女をあんな風にしてしまったのは、|誰《だれ》だ? (ヴェントが街の学生|達《たち》をバタバタと倒したから……いや、違う……?)  必死に考える上条に、インデックスは切実な声で言う。 「とうま、ひょうかは私が何とかするから。だから、ひょうかに手を出さないで!」  インデックスにとって、風斬氷華は初めて作った友達だ。  禁書目録としての立場の間に揺れながらも、彼女は風斬を敵に回したくないのだろう。  上条は考える。  風斬氷華は善人だ。しかし、その彼女が暴走状態だとすれば、何の保障にもならない。泥酔した人間に、|普段《ふだん》の人格が当てはまらないのと同じだ。  だから言った。 「駄目だ」 「とうま!!」 「アイツは|俺《おれ》が止める。それに、問題はアイツだけじゃない[#「問題はアイツだけじゃない」に傍点]。お前だけには任せられない」 「でも、とうまの右手を使ったらひょうかが死んじやうよ!!」 「死なせねえよッ!!」  黒ずくめの男達から身を隠している事も忘れ、上条は思わず叫んだ。泣き言を言うインデックスの|襟首《えりくび》を掴み、強引に引き寄せる。|驚《おどろ》きで硬直した彼女に、上条は言う。 「殺すためじゃねえ! 風斬を助けるために立ち上がるっつってんだ! あんなのが普段の|風斬《かざきり》に見えんのかよ!? そんな訳ねえだろ。何かが起きちまったからあんな風になっちまってんだよ! だったら助けないと|駄目《だめ》だろうが!! 手を出すなだって? ふざけんな。アイツを助けるのに、いちいちお前の許可なんか必要ねえんだよ!!」  インデックスは、ぱくぱくと口を開閉した。  |上条《かみじよう》は構わず言う。 「|俺《おれ》には『天使』がどうだの、|魔術的《まじゆつてき》な詳しい仕組みだのは分からない。だからお前の知識が必要だ。でも今風斬に起きてる現象にはAIM拡散力場も|絡《から》んでるから、お前にも分からない事があるかもしれない。だったらそっちは俺も手伝える。俺|達《たち》なら風斬|氷華《ひようか》を助けられる!」  土砂降りの雨の音が遠ざかっていく。  周囲を支配するものは、少年の言葉だけになる。 「今日一日、街じゃいろんな事が起きた。正直、俺には|未《いま》だに|全貌《ぜんぽう》が|掴《つか》めない事ばかりだし、解決の糸口だって分かんねぇ。でもやらなきゃならねえ事は分かってる! 風斬を助けるのは俺達だ! 違うか!?」  確認を取るために、彼は質問する。  友達に対して、殺すだの殺さないだの見当違いな事を言っていたインデックスの目を覚まさせるために。 「行くぞ、インデックス。風斬氷華を助けるためにお前の力を貸してくれ!!」  インデックスは、その声を聞いて、こくんと|頷《うなず》いた。  上条は彼女の|襟首《えりくび》から手を|離《はな》す。  それから、改めて路地の出口に視線を走らせた。まずは表通りにいる黒ずくめの連中をどうにか|撒《ま》かないといけない。魔術も超能力も|関《かか》わらない、本当にただの銃弾は、上条にとって最も相性の悪い相手だ。彼の右手は異能の力にしか通用しないのだ。  と、 「はぁー……」  |一緒《いつしよ》に路地に連れ込まれた|美琴《みこと》が、大きな息を|吐《は》いて傘を捨てた。何やら疲れたような顔で、上条とインデックスを見る。 「何だか訳が分からないけど、またアンタはデカい問題に巻き込まれてるって事なのね」 「ま、まぁそうだけど」 「で、その中心点にはアンタの知り合いがいる、と」 「知り合いじゃないよ。友達」  インデックスが訂正した。  美琴はますますつまらなそうな顔で、路地の方を眺めて、 「一つだけ確認するけど、そいつは悪人じゃないのよね」 「絶対違う」  |上条《かみじよう》は即答した。迷いもしなかった。 「インデックスも言っただろ。あそこにいるのは、|俺《おれ》の友達だ」 「友達、って……」  |美琴《みこと》は、今も遠くで移動しながら、羽と羽の間で放電に似た現象を|撒《ま》き散らしている『天使』 を眺め、それから上条やインデックスの顔をもう一度見直した。 「その、ええと、あの友達、で合ってんのよね?」  質問に、インデックスと上条はほぼ同時に答えた。 「そうだよ、決まってるよ」 「当たり前の事を確認させんじゃねえよ」  ははは、と美琴は笑った。 「で、さっきの黒服|達《たち》が悪者って訳ね」 「何を|狙《ねら》ってるかいまいち|掴《つか》めねえけどな。少なくとも、良いヤツじゃないはずだ」  その時、複数の足音が路地の中まで入ってきた。  入口付近で情報を|窺《うかが》っていた黒ずくめの連中が|突撃《とつげの》してきたのだ。  侵入ではなく突撃。時間的な|猶予《ゆうよ》はない。  それでも美琴は笑っていた。 「しゃーない。何だか知らないけど、あれは大切な友達なんでしょ。アンタ達は一度言ったら聞かないし。さっさと助けてきなさいよ。こっちは何とかするから」 「|馬鹿《ばか》、お前……ッ!!」  上条は思わず美琴の肩を掴もうとしたが、 「ごめんごめん。止める間もなく始めちゃうわよ」  美琴はすでに路地の出口に向けてゲームセンターのコインを発射していた。  |超電磁砲《レールガン》。  音速の三倍で放たれた一撃は、路地の左右の壁を|扶《えぐ》り取り、|轟音《ごうおん》と|閃光《せんこう》を撒き散らして表通りへ突っ込んだ。黒ずくめ達には命中しないような軌道を選んだのだろうが、撒き散らされる|衝撃波《しようげきは》だけで何人かがひっくり返っている。  灰色の|粉塵《ふんじん》が舞う。  それが雨粒に|撃《う》ち落とされる前に、美琴は路地の地面に倒れていた黒ずくめ達の腹を躍みつけて意識を奪いつつ、自ら|遮蔽物《しやへいぶつ》のない表通りへ飛び出していた。 「|御坂《みさか》ッ!!」  |上条《かみじよう》は叫ぶが、表通りに控えていた黒ずくめ|達《たち》の応射が路地の入口近くまで来たため、彼はそれ以上進めない。一方、まさに『普通の戦力』に対して絶大な力を誇る|美琴《みこと》は、銃弾飛び交う戦場から上条へ声をかける。 「|罰《ばつ》ゲームよ!!」 「何だって!?」 「何でも言う事聞くって話! 今日一日はまだ有効だからね、アンタは『必ず友達助けて戻ってくる』事!! 分かった!?」  上条は叫び返しそうとしたが、バチバチという放電や銃弾が放たれる音がそれを|遮《さえぎ》る。くそ、と彼は小さく|吐《は》き捨て、 「必ず守る! だからテメェも死ぬんじゃねえぞ!!」  インデックスの手を引っ張って、何かを振り切るように上条は路地の奥へ奥へと走り出す。目的地は一つ。インデックスの言葉が正しいなら、|風斬氷華《かざぽりひようか》が待っているその場所へと。  ばしゃばしゃという水っぽい足音を聞いて、美琴は戦場でため息を|吐《つ》いた。  全く損な役回りだ。 (罰ゲーム、か。結局、こんなモンに使っちゃうなんてなぁ……)  でもまぁ、仕方がないか、とも思う。  友達を助けるために命を張るとか言っているのだ。水を差せるはずがない。しかし、そもそもこの黒ずくめ達(で、合っているのか?)が問題を起こさなければ、ちょっとはマシな罰ゲームが続けられたかもしれない。  そう思うと、|若干《じやつかん》ながらカチンと来た。 「今、私はとってもムシャクシャしている」  複数の銃口が丸腰の美琴に向けられる。  だが、引き金が絞られる直前で、彼女の前面にマンホールの|蓋《ふた》や水道管や看板などが次々と集まって盾が作られた。磁力によるものだ。射出された弾丸は|全《すべ》て鋼鉄の盾に|弾《はじ》かれる。 「逃げないってんなら、それなりに死ぬ気で来なさいよ」  返す刀で、|雷撃《らいげき》の|槍《やり》が乱射された。  負ける気はしなかった。      6  上条とインデックスは土砂降りの街を走っていた。  背後の美琴が気になるが、おそらく上条では足手まといにしかならない。  気持ちを切り替えて、上条は前を見る。  と、|隣《となり》を駆けているインデックスがこう尋ねてきた。 「ねえとうま。さっきから街が静かなんだけど、これって何なの? ひょうか以外にも、何だか別の|魔力《まりよく》の流れを感じるんだよ!」 「ああ。静かなのは多分みんな気を失ってるからだ。この街に入ってきた|魔術師《まじゆつし》のせいでな!あいつの|攻撃《こうげき》の仕組みも知りたい。治せる方法があるならそいつもだ!!」  彼が学園都市で起こっている事をかいつまんで説明する。  それを聞いたインデックスは無言になり、考え事をするように|俯《うつむ》いた。  土砂降りの雨に打たれる地面を|蹴《け》りながら、彼女は顔を上げる。 「多分……それは『|天罰《てんばつ》』だよ」 「何だって?」 「ある感情を|鍵《かぎ》にしているの。その感情を抱いた者を、|距離《きより》や場所を問わずに|叩《たた》き|潰《つぶ》す! だから神様の『天罰』。どこだろうが|誰《だれ》だろうが、神様に|唾《つば》を|吐《は》く者を許さないって理屈だね!」  インデックスは続けて言う。 「とうま、その魔術師はそういう素振りを見せなかった? 必要以上に、自分から特定の感情を|誘導《ゆうどう》するような!!」  特定の感情。  そう言われて、|上条《かみじよう》は前方のヴェントの事を思い出した。  ———わざと挑発するような言動。  ———わざと反発心を持たせるような化粧やピアス。  ———わざと何の関係もない民間人を|狙《ねら》って放たれた攻撃の数々。  ヴェントなりの行動理由や、もっと言えば魔術的に必要な事でもあるのかもしれないが、もしかすると、それ以外にも『ある感情を向けさせる』役割を持っていた可能性もある。だとすれば、その感情とは……。 「|嫌悪感《けんおかん》……いや、敵意や悪意[#「敵意や悪意」に傍点]? まさか、そいつが天罰術式の発動キーなのか!?」  確かにそんな攻撃が実在するなら、ヴェントはほぽ無敵だろう。  誰も彼女の前に立ち|塞《ふさ》がる事などできないだろう。  立ち塞がろうと思った時点で、魔術は発動してしまうのだから。  街の治安を守る|警備員《アンチスキル》は、ゲートを無断で通ろうとしたヴェントを止めようとした。彼らが倒れたという報告を、|他《ほか》の|警備員達《アンチスキルたち》は無線で受けた。さらにその情報を、街の人々はニュースで知った。 「多分、その天罰術式には敵意に応じた段階があるんだよ! 意識を奪い、肉体を|縛《しば》り、外部からの干渉すら封じるとか。でも、どの段階であっても喰らえば終わり。魔術師が『天罰は必要ない』と判断するまで、絶対に治らないと思う!!」  だからみんな倒れた。  もう学園都市内部だけではない。下手をすると、街の外———日本や世界のあちこちでニュースを経由して、被害は拡大し続けているのかもしれない。|他《ほか》にも、学園都市協力派の組織や機関には、自動で連絡が入り、それが|犠牲《ぎせい》を生んでいる可能性もある。  だが、 「そんなのできんのか。|魔術《まじゆつ》ってのは、そこまで便利なものなのかよ!?」 「普通ならできないよ! 私の一〇万三〇〇〇冊にもそんな記述はない。だけどその現象を説明するにはこれしかないの! ……自分でもおかしいのは分かってる。『|天罰《てんばつ》』っていうのは、文字通り天が与える罰だもの。ただの人の力で何とかできるはずがないんだよ!!」  しかし、ヴェントはそれを実現している。  それこそが『神の右席』の力だとでもいうのか。 「あの野郎、そんな方法で学園都市を———ッ!!」 「待って、とうま! 今の話が本当なら、私にその魔術師の|素性《すじよう》を話さないで! 今の私の『歩く教会』は、法王級の防御機能が失われているの。とうまと違って、私だって天罰術式に触れちゃう危険があるんだよ!!」  そうか、と|上条《かみじよう》は慌てて口を|噤《つぐ》んだ。  ヴェントの天罰術式は、インデックスにすら防げないものなのだ。上条の|幻想殺し《イマジンブレイカー》のような例外でない限り、条件さえ合致すれば|誰《だれ》でも|叩《たた》き|潰《つぶ》す。そしてインデックスは、他人を傷つける魔術師と戦う存在なのだ。  ともあれ、治しようがないなら、ここに|拘泥《こうでい》しても仕方がない。  今は|風斬《かざきり》の方だ。  ヴェントの天罰術式すら暴いたインデックスなら、そちらも分かるかもしれない。 「あの風斬の……『天使』の仕組みはどうなってる。あいつは|大丈夫《だいじようぶ》なんだよな! まだ助けられるんだよな!?」 「それは……」 「くそ、何でこのタイミングであんなのが出てくるんだ! 街で起きてる『天罰』と関係あんのか!? 単なる現象の暴走じゃなくて、『天使』なんて明確な形になってる理由は!?」 「分かんないよッ!!」  一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を丸暗記しているインデックスだが、珍しくそう叫んだ。  遠くに広がっているのは、間違いなく『天使』という魔術サイドの|代物《しろもの》のはずなのに。 「……私の頭の中にある魔道書と、外観や仕組みだけなら良く似てるの。でも、使われてるパーツが全然メチャクチャ、見た事もないようなものばかりなんだよ!! 未知の文字で描かれた壁画を見ているようなの。絵面から大体何をやっているかは分かるんだけど、その文化性や精神性っていう『奥』まで|踏《ふ》み込めないんだ!!」 「———、」  一番悔しいのは、おそらくインデックス本人だろう。  まさにこういう問題を解決するための、『禁書目録』なのだから。  「少なくとも、あそこにいる『天使』と、それを統率している『核』が別々の場所にあるのは分かるんだけど……」  「インデックスでも、解けない、か」  |風斬氷華《かざほりひようか》は、AIM拡散力場によって作られている存在だ。  その根幹に、超能力研究や最先端科学技術が含まれている。となると、そちらの処理をインデックスが行えないために、『天使』という現象の対策が練れないという訳か。  |上条《かみじよう》とインデックスは走りながら、会話を続ける。  土砂降りの雨が気にならないほどの|焦燥《しようそう》に駆られて。  「とうまは? とうまは、今のひようかの『仕組み』について何か分からない?」  「難しいな」  AIM拡散力場を使っているとか、言葉で言うのは簡単だ。しかし仕組みの解説まではできない。『車はガソリンで動いている』のは|誰《だれ》でも分かるが、『じゃあ設計図を描いてみろ』と言われて実行できるのはごく少数だろう。  (……|俺《おれ》よりもっと詳しいヤツはいないか。それこそ、鼻歌交じりで『設計図』を描けるような、どっかの大学の教授ぐらいのレベルのヤツ……)  しかし、上条にはそういった大人や研究者との|繋《つな》がりはない。  くそ、と|吐《は》き捨てようと思った時、彼の頭に一人の人物が浮かび上がった。 「|小萌《こもえ》先生だ!!」  確か、九月の初めに地下街でシェリーに|襲《おそ》われた時も、彼女は話を聞いただけで風斬の正体を看破していた。小萌先生ならAIM拡散力場についても詳しく知っているはずだ。  電話番号そのものは、あの時にかかってきた番号を登録してある。  上条は雨の街を走りながら、早速小萌先生の携帯電話に連絡を取る。  が、 「どうしたの、とうま」 「くそつ!!」  出ない。  ヴェントの|攻撃《こうげき》にやられたのか、それとも何らかの理由で携帯電話が使えない状況にあるのか、いつまで|経《た》っても小萌先生と繋がらない。 (手詰まりか……ッ!!)  上条は奥歯を|噛《か》み|締《し》め、登録番号のリストを上下させていく。しかし|他《ほか》はみんな学生ばかりだ。小萌先生以上に知識を持った人物がいるとは———、 「ッ!!」  |上条《かみじよう》はリストの一番下にあった番号に、とっさに連絡をつけた。  一番新しく登録した電話番号。  そいつの名前は、 「|御坂《みさか》ッ!!」 『だぁ!! な、何よ。このクソ忙しい中、人様の作業量増やしてんじゃないわよ!!』  ガガガッ!! という連続する銃声にまみれて、|美琴《みこと》の声が雑音混じりで返ってくる。通信状況が極端に悪いのは、彼女自身が|雷撃《らいげき》を使っているからか。  こちらもそれどころではない。  苦情は聞かずに本題に入る。 「確か|常盤台《ときわだい》中学ってのは、普通の中学とは授業内容の出来が違うって話だったよな! 卒業と共に第一線に立つために教育しているって事は、大学レベルの講義も受けてんだろ[#「大学レベルの講義も受けてんだろ」に傍点]!?」 『はぁ!? 何言って———危なッ!? 何言ってんのよアンタ!!』 「あの『天使』を止めるために、知識が必要だ! AIM拡散力場関連の詳しいアドバイザーが欲しい!! お前だけが|頼《たよ》りだ! 任せられるか!?」  ぶっ!? という変な声が携帯電話から聞こえてきた。  上条はいったん電話から耳を|離《はな》し、それから慌てて叫ぶ。 「お、おい御坂! |撃《う》たれたのか!? おい!!」 『違うわよ!!』  バンバンバチン!! と続けざまに雷撃の音が聞こえる。  美琴の声がその後に続いた。 『や、やるしかないんでしょ!! 別の事に頭使いながら戦えって、本当に|容赦《ようしや》ないわねアンタ!!』 「よし、じゃあインデックス。|俺《おれ》の電話はお前に預けておく。なんか分からない事があったら全部コイツに聞け!」  え? と拍子抜けした顔のインデックスに、上条は携帯電話を渡そうとする。  一方、美琴は美琴で、 『ええっ!?』 「??? 何だ、どうしたんだ御坂?」 「いや、えと、その、別に良いけど。でも、ええーっ!?」 「任せたぞ!!」  なんか意味の分からない事を言ってきたが、そちらに頭を|煩《わずら》わせている暇はない。  上条は白いシスターに携帯電話を押し付ける。 「俺は右手の事もあるし、おそらく|魔術《まじゆつ》関連でお前を手伝える事はねーと思う。悪いインデックス、お前、一人で何とかなるか」 「とうまはどうするの?」 「さっき、『天使』とそれを統率している『核』は別々の場所にあるっつったな。だったらお前は『核』の方に行って、問題を解いて来い。|俺《おれ》はその間、『天使』の方で一仕事しなくちゃならない」  続けて|上条《かみじよう》はこう言った。 「前に話に出た、例の|天罰《てんばつ》術式を使ってる|魔術師《まじゆつし》がいる。『神の右席』って組織の、ヴェントって魔術師が『天使』になった|風斬《かざきり》の命を|狙《ねら》ってんだ。風斬を解放するにしても、まずはそっちを食い止めないといけない。だからお前は問題を引き起こしている『核』を|頼《たの》む。俺はその間、ヴェントの|攻撃《こうげき》から風斬を守ってやる!!」  それを聞いて、インデックスはわずかに心配そうに|眉《まゆ》を動かした。  上条の口から出た、魔術について色々考えているのだろう。  しかしそれは言葉に出さず、彼女は上条に別の|台詞《せりふ》を放つ。 「分かった。とうま、ひょうかをお願い!!」 「お互い様だ! |頼《たよ》りにしてるぞ、インデックス!!」  二人は別れてそれぞれの道を走る。  共に同じ、風斬|氷華《ひようか》を助けるという目的をもって。      7 「ははっ、スゲーなオイ! ありゃあ一体何なんだ!?」  今は使われなくなったオフィスで、|木原数多《きはらあまた》は歓声をあげた。  数百メートル先で、あちこちのビルを切り崩しながら大量の『羽』が飛び出した。この窓からは『羽』しか見えないが、木原は|何故《なぜ》か一目で『天使』という言葉が浮かんだ。  事務机の上に寝かせている|最終信号《ラストオーダー》の頭にウィルスを流し込み、再起動させた途端に、あの『天使』が出現した。上層部から渡されたウィルスの名前は、ひねりもなく『ANGE」』。どう考えても無関係とは思えない。科学とは無縁の存在が、科学によって顕現していた。その非科学的な事態を、木原は頭から否定しなかった。逆に、ついに科学はこの領域にまで足を|踏《ふみ》み入れたのかと|呆《あき》れていた。  学園都市統括理事長アレイスター。  自分も|大概《たいがい》イカれた科学者だと思っていたが、あの野郎はそれ以上だ。 「ちくしよう、悔しい! 飛んでやがるなぁアレイスターッ!! 理論のりの字も分かんねーぞ!? 科学者のくせに科学を否定するたぁ、何たる科学者だよオイ!!」  周囲にいる五人の部下|達《たち》は、木原と違って戸惑っているようだ。目の前の光景を現実に存在するものとして処理して良いのかいけないのか、その段階ですでに迷っている風に見える。 「アイツ[#「アイツ」に傍点]を使って学園都市の敵をぶっ|潰《つぶ》すのが目的かよ! 確かにあんなモン用意すりゃあ、大抵の野郎ァどうにでもなっちまうだろうな。外周部に|誰《だれ》がへばりついてたか知らねえが残念でした! 見ろよテメェら! 天使なんざ持ち出しやがって、非核三原則どころの|騒《さわ》ぎじやねえぞ!! 聖書ってのはいつから飛び出す[#「飛び出す」に傍点]絵本になっちまったんだぁオイ!?」  脳が情報を処理しきれないまま、『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の部下|達《たち》はノロノロと|木原《きはら》の言葉に従って、|埃《ほこり》の|被《かぶ》ったガラス窓から外を見た。  しかしその誰もが、遠くに見える『天使』を|捉《とら》えていなかった。  今まさに、空を飛んだ|一方通行《アクセラレータ》が窓を|蹴《け》り破る直前だったからだ。  ガッシャァァ!! というガラスの悲鳴が|炸裂《さくれつ》した。  すでに能力使用モードは解放されている。  窓の一番近くにいた黒ずくめの一人が、|一方通行《アクセラレータ》の飛び蹴りを受けて反対側の壁まで吹っ飛ばされた。ノーバウンドで|薄《うす》い内壁に激突した『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の一人は、装甲服をバラバラに粉砕しながら床に崩れ落ちる。  |一方通行《アクセラレータ》は生死など確認しない。  真っ赤に染まった|瞳《ひとみ》はグラグラと揺らぎ、それでもターゲットを正確に捉える。 「木ィィィ原くゥゥゥゥゥゥゥゥン!!」  絶叫しながらショットガンの銃口を向け、迷わず引き金に指をかける。  |狙《ねら》いは胸から腹にかけての全部。  完全確実に殺す気だ。  と、木原は近くにいた自分の部下を前方へ突き飛ばした。『うわっ』と間抜けな声を出した男が、ちようど木原の盾になる形で|躍《おど》り出る。  そこへ無数の散弾が突っ込み、『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の一人が血を|撒《ま》き散らして転がった。木原は気にも留めない。顔面のパーツが|壊《こわ》れそうなほど爆笑している。 「ちゃーんと狙って|撃《う》てよぉ! じゃねーとみんなの迷惑だぜぇ!!」  あからさまな挑発を|一方通行《アクセラレータ》は無視する。  うろたえ、慌てて武器を構える黒ずくめ達ヘザッと視線を走らせ、 (|邪魔《じやま》ッ|臭《くせ》ェ盾だな……)  ガギリ、と奥歯を思い切り|噛《か》み|締《し》め、 (イイぜェ! オマエ達も、まさか『自分は命令されただけだから許してください』とかってェ|台詞《せりふ》|吐《は》く気はねェンだよなァ!!)  脚力のベクトルを操作し、木原から『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』へ狙いを変更し、その内の一人の|懐《ふところ》へと突っ込む。ショットガンは使わず、そのまま五本指を伸ばした。男の装甲服にはナイフや|拳銃《けんじゆう》などが留めてあり、肩の近くには|手榴弾《しゆりゆうだん》が四っも備え付けられていた。  |狙《ねら》いはそこだ。  人差し指から小指まで使って、四本のピンを|全《すべ》て抜く。  間髪入れずに腹へ|蹴《け》りをぶち込み、ボーリングのように|他《ほか》の『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』のメンバーを巻き込んで|薙《な》ぎ倒した。一番上にいる男が、慌てて装甲服についたままの手榴弾へと手を伸ばし、 人間爆弾が起爆した。  破片を|撒《ま》き散らすタイプの手榴弾が、血と肉を飛び散らせた。  これで、|木原《きはら》を除く『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』は残り一人。 「ひっ!?」  |一方通行《アクセラレータ》にギロリと目を向けられた最後の男は、とっさに事務机の上に転がっている物を|掴《つか》み起こす。|学習装置《テスタメント》で無理な処理を加えられたのか、意識を失い、ぐったりしている|打ち止め《ラストオーダー》だ。  |一方通行《アクセラレータ》が手にしているのは、細かい狙いの効かないショットガンだ。  人質を盾にすれば|攻撃《こうげき》できないと思ったのだろう。  だが、 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》の目の色が変わった。ゴガン!! という爆音が生じた。脚力のベクトルを操作した彼は、|一瞬《いつしゆん》で『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の真横まで|距離《きより》を詰めていた。  確かに|一方通行《アクセラレータ》はショットガンを|撃《う》たなかった。  代わりに彼は、一メートルを超す金属製の銃身をフルスイングし、「|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の顔面を|叩《たた》き|潰《つぶ》した。あまりの|衝撃《しようげき》にショットガンの方がバラバラに砕け散り、細かいスプリングやマガジンに収まっていた筒状の弾丸が空中を舞う。鈍い音を立てて男の体は空中で竹とんぼのように四回転もし、それから床に激突して動かなくなった。  手放され、空中にあった|打ち止め《ラストオーダー》の体を片手で支え、テーブルの上へと優しく置き直す。  それから|全《すべ》ての元凶、木原|数多《あまた》に視線を投げる。  これでヤツを守る護衛部隊は全滅した。  しかし、そちらの方がかえって身軽になったとばかりに、木原はグラゲラと笑う。 「カッコイーッ!! 一皮|剥《む》けやがって、|惚《ほ》れちゃいそーだぜ|一方通行《アクセラレータ》!!」 「スクラップの時間だぜェ! クッソ野郎がァあああッ!!」  悪党二人の叫びが空間を|震《ふる》わせる。  その細い両手を一度開いて再び握り、舌なめずりしながら木原は|一方通行《アクセラレータ》の元へと走り込む。  木原には『反射』が通じないが、|一方通行《アクセラレータ》はもはや|臆《おく》しない。  こちらも一〇本の指を開いて走り出す。  能力使用モード、残り時間は六〇秒。      8  |上条当麻《かみじようとうま》は爆心地にいた。  見慣れた第七学区の一角だった。背の高いビルは学生向けというにはややグレードの高いデパートや有名な企業の建物ばかりで、デパートに入っているレストランなども雑誌に良く紹介されている。通学路から外れているため毎日訪れるような事はないが、上条もインデックスを連れて(全くムードのない)食事に出かけたりもした。 『|学舎《まなびや》の園』のような高級感と、上条の学生|寮《りよう》のような庶民的な|匂《にお》いが同居する第七学区で、その一角はどちらかというと高級感エリアに収まる。実際、日中には|常盤台《ときわだい》中学や|霧ヶ丘《きりがおか》女学院の制服を着た少女|達《たち》もたくさん歩いていたはずだ。  子供だけでは作れない、一種独特の整えられた大人の空問。  そこが、  まるで砂場に作ったお城を|壊《こわ》したような、|瓦礫《がれき》の|廃嘘《はいきよ》に変わり果てていた。 「……、」  爆心地から半径一〇〇メートル前後の建物が残さず|破壊《はかい》され、|薙《な》ぎ倒されていた。|欠片《かけら》も残さないような、|徹底《てつてい》したクレーターという訳ではない。まるで巨人の腕で一棟一棟ビルをもぎ取って行ったような、乱雑な惨状だった。しかし逆に、斜めに傾いている建物や、根元の一階部分だけが取り残されたデパートなどは、妙に生々しい|爪痕《つめあと》となって上条の心を揺さぶる。  前方のヴェント。  彼女の特殊な攻撃を喰らって動けなくなった人達はたくさんいたはずだ。  そんな中で、さらにこんな大規模な倒壊が起きたのだ。あの瓦礫の山の中に、一体どれだけの人達が埋まっているのか、上条にはもう想像がつかない。レスキューの到着が遅れているが、もしやってきたとして、どれだけの人間を救出できるのだろう。  神経が|麻痺《まひ》する。  上条はふらふらとした動きで、爆心地のさらに中心点へ目をやった。  そこにいるのは、一人の天使。  本体は普通の人間と同じサイズだ。  それに対して|翼《つばさ》の方の縮尺があまりに巨大すぎて、まるで翼の塊に人間が|呑《の》み込まれそうになっているように見えた。  灰色の|粉塵《ふんじん》も、土砂降りの雨も、その|全《すべ》てを吹き飛ばすように、彼女の翼は|呟《つぶや》い光を放っていた。全長は一〇メートルから一〇〇メートル。乱雑に伸びる雑草のように統一性のない、鋭く|尖《とが》った巨大な|翼《つばさ》が、何本も何十本も小柄な少女の背中に接続されている。  |上条《かみじよう》から一〇〇メートル近く|離《はな》れた所にいる『天使』は、彼に対して横へとゆっくり移動していた。か細い二本の足で歩いているだけのはずだが、少女が一歩一歩を|踏《ふ》み出すごとに、ズン……という低い|震動《しんどう》が伝わってくる。  少女。  |風斬氷華《かざきりひようか》。  長い髪の少女だった。黒の中に、わずかな茶色の混じった|綺麗《きれい》な髪。基本は腰まで伸ばしているのだが、一房だけ頭の横で|縛《しば》って垂らしていた。気弱そうなスカートの長さもいじっていない学校指定の青いブレザー。その中で、赤いネクタイがアクセントとなっている。  上条|当麻《とうま》が知っているはずの少女だった。  気弱で泣き虫で、悪党を|殴《なぐ》る事にさえためらうような、そんな女の子のはずだった。  しかし、  今、上条が見ているものは、そうした風斬氷華の像から明らかにかけ|離《はな》れていた。頭はグラりと垂れ、半開きの唇からは|半端《はんぱ》に舌が飛び出ていた。見開かれた眼球は、機械のレンズが細かい文字を追うようにフラフラと不規則に揺れている。顔を|濡《ぬ》らす雨水と|涎《よだれ》が混ざり合い、彼女の制服の胸元をべっとりと濡らしていた。しかし、そのぬめった光と感触を得ても、風斬は ピクリとも動かない。  何十もの巨大な|翼《つばさ》。人間|離《ばな》れした|雰囲気《ふんいユ》。壁のような存在感。  それらはミーシャ=クロイツェフにも似ていた。  しかし、目の前にいる大天使は彼女よりもさらに不自然で、|歪《ゆが》んでいた。  彼女の顔に感情はなかった。  不気味にふらつく目玉は、涙の一滴も流していなかった。  流す事すら、許されていなかった。  何らかの制約によって。  彼女の頭の上には、直径五〇センチほどの輪が浮かんでいた。  輪は|風斬《かざきり》の手足の動きに合わせて回転速度を変動したり、輪の直径を広げたり|狭《せば》めたりを|繰《く》り返している。輪の外側には鉛筆のような棒が無数に出っ張っていて、ガシャガシャガチャガチャ!! と高速で出し入れされていた。  |上条当麻《かみじようとうま》は覚えている。  風斬|氷華《ひようか》の頭の中には、三角柱のようなパーツが入っている。彼女の手足は、その三角柱に合わせて動いているのだ。  それを見ているような気がした。  |頭蓋骨《ずがいこつ》いっぱいに電極を刺して人間を操るのより、寒気を感じさせる光景だった。 (かざ、きり……)  あまりの光景に、上条はとっさに風斬の顔から目を|逸《そ》らしていた。  これでは死体を見ている方がまだマシかもしれない。  止めなければならないと、上条は心の底からそう思った。理由など、いらなかった。 「風斬ィィいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!」  上条は思わず叫んでいた。  どこかを目指して歩いていた風斬の足が、ピタリと止まる。その首が、ゆっくりと上条の方へ向こうとする。  しかし。  ガガガリッ!! という金属を|擦《こす》るような音と共に、風斬の頭上にあった天使の輪が高速回転した。輪の外側にびっしりとついている鉛筆ぐらいの棒が、ジャガッ!! と一斉に輪へ突き刺さる。  悲鳴のような音が聞こえた。  風斬の首の動きが強制的に止められ、ぎぎぎ、と|震《ふる》えた。歯車の目が詰まったように、彼女の首が元の向きへと戻されていく。不自然に首をねじったまま、風斬は再びゆっくり歩き出す。  バヂッ!! と電気のような音が|響《ひび》いた。  見れば、はるか頭上で、巨大な羽と羽の|距離《きより》が近づくたびに、青白い光が|瞬《またた》いている。まるで発射前に調子を確かめている風にも見えた。  チカチカッ、と|風斬《かざきり》の周囲で妙な光が|瞬《またた》いた。天使の輪と同調しているようなタイミングだった。そして、その光に|誘導《ゆうどう》されるように、風斬の体が強引に動かされる。  本当は何もしたくないのに、そちらが気になって気になって仕方なくて、どうしてもそちらへ動いてしまわないと気が済まないと|怯《おび》えているように見えた。  ガスの元栓がどうしても気になるように。  何度手を洗っても汚れが落ちないと思ってしまうように。 (……、重度の強迫神経症みたいなもんか)  漠然と思う。規則で決まっている訳でもないのに、どうしても確かめないとならない。あの光はそれと同じだ。次々と『注意点』を飛ばす事で、風斬の動きを精神的に誘導しているのだ。  しかし。  そんな状態を延々と続けていたら、神経が|磨《す》り減っていくのは|避《さ》けられない。目隠しした人間の背中に焼けた鉄板を押し付けて、逃げ惑う人間を迷路のゴールへ導いていくようなものなのだから。  それは、人としての風斬の心を完全に無視した行いだった。  無様に転がる人間の背中に|嘲笑《ちようしよう》を浴びせるようなものでしかなかった。 (くそ……ふざけんじゃねえぞ!!)  思わず|上条《かみじよう》は駆け寄ろうとしたが、その足が止まる。  近づいてどうする?  彼は風斬の体には触れられない。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》は、風斬|氷華《ひようか》という幻想をも問答無用で砕いてしまうのだから。 、 「ちくしょう……ッ!!」  上条は歯を食いしばり、役立たずの右手を|瓦礫《がれき》の壁へ|叩《たた》きつけた。  ここに埋まっている人|達《たち》も助けられない。ああして異変に|襲《おそ》われた風斬も救えない。あまりにも自分が小さすぎて、どうしようもなく|惨《みじ》めだった。  そんな彼の耳へ、新たな足音が聞こえてきた。  目の前にある不幸が、さらに別の不幸を招き寄せるように。 「おやおや。大罪人同士、キズの|舐《な》め合いでもやってるトコだったかしら」  上条は振り返る。  そこにいるのは、大昔のワンピースの原型みたいな衣装を身にまとった、顔中ピアスだらけの女。学園都市の都市機能のほとんどを奪い、その中を悠々と歩いて上条を殺しにやってきた、『神の右席』という組織の一員。  前方のヴェント。  彼女の手には、有刺鉄線を巻いた巨大なハンマーが握られている。  病気なのか、それ以外に何らかの理由があるのか、ヴェントの口元からは赤い血が垂れ、雨に打たれた衣服のあちこちにも|染《し》みを作っていた。それでも、ヴェントの表情は変わらない。  無数のピアスによって顔のバランスが崩れ始めているヴェントは、その武器を片手にニヤニヤと笑う。|侮蔑《ぷぺつ》と|嘲《あざけ》りに満ちた、同じ人間に向けているとは思えないような笑みを。 「せっかく後回しにしてやろうって考えてたのに、自分から殺されに来ちゃったの。コレ以上|悲惨《ひさん》なモンを見たくないから先にぶっ潰して欲しいってコトかな」 「|風斬《かざきり》はやらせない」 「へぇ。あんなモンに対しても情が|湧《わ》くんだ。とんだ博愛主義者よねぇ。|黙示録《もくしろく》に登場する 『特大の淫婦』よりも|醜《みにく》く汚れた|冒涜《ぼうとく》の象徴だってのに。そこらの変態でも|流石《さすが》にアレは受け入れられないと思うわよ」 「テメェ!! |撤回《てつかい》しろ!!」 「ナニについて? もしかしー、|普段《ふだん》はああじゃないとかって言うつもり? |馬鹿馬鹿《ばかばか》しい、私はソイツを見るのは今日が初めてだけど、あの学園都市の|長《おさ》が街の全部を使って無害で役に立たないものを作るとでも思ってんの。|莫大《ばくだい》な価値や戦力があるんだよ。むしろアンタが今まで見てきたモノの方が未完成不完全のイレギュラーだったんでしょ」  学園都市の長。  科学サイドとして、世界の半分を丸々支配下に置いている者。  風斬|氷華《ひようか》が学園都市全体のAIM拡散力場を用いて作られた存在なら、その管理を行っている(かもしれない)人物の筆頭は、確かにそいつだ。ただ偶発的に生まれてきたのではなく、そこに何らかの目的があったとしたら、確かに『未完成』『不完全』という言葉にも|信愚性《しんぴようせい》が生まれてくる。 「私は『神の右席』の一員として、ソコの怪物を見過ごすワケにはいかない。ま、こっちだってロクな集団じゃないケド、そっちの怪物は、その私|達《たち》ですら認められない。ソイツは、十字架を掲げる|全《すべ》ての人々を|嘲笑《あざわら》う、冒涜の塊———消滅すべき者なのよ」  バチン!! という|轟音《ごうおん》が上条の耳を打った。 (……ッ!? またか!!)  振り返れば、風斬の背中に接続されている巨大な羽から、雷に似た光が|瞬《またた》いている所だった。羽と羽の間で火花がブリッジを描いていて、音階はどんどん甲高いものへ変わっていく。今にも|溢《あふ》れて外部へ飛び出しそうだ。  |上条《かみじよう》は少しだけ|黙《だま》って|全《すべ》てについてを考えた。  それから言った。 「もう一度だけ、|繰《く》り返しても良いか」 「ナニを?」 「撤回しろ[#「撤回しろ」に傍点]、クソ野郎[#「クソ野郎」に傍点]」  へぇ、とヴェントは楽しそうに笑う。 「意外にカワイイ所があるじゃない。イイでしょう、気持ちぐらいは|汲《く》んでやるわ。どのみち、アンタ|達《たち》は順番に殺していく予定だし、仲良く|一緒《いつしよ》に殺してアゲル」  彼女にとってはそれが最大の|譲歩《じようほ》なのだろう。  |上条《かみじよう》に言わせれば、|唾《つば》を|吐《は》き捨てたいほどの低条件だが。 「もしかして、その怪物に救援でも求めてる? だったら無騨よ。二人がかりであっても、私には勝てない」  ヴェントは楽しげな調子でそう告げた。 「知ってる? 『天使』ってのは、元々自分の意思がない。完全なる神様の道具なのよ」  ヴェントは|嘲笑《あざわら》うように告げた。 「ソイツが誤作動を起こしたり、別の命令系が混線したりすると、堕天使とかって呼ばれる存在になる。一番有名なのは『|光を掲げる者《ルシフエル》』の造反よね。この一機の『不具合』に引きずられて、天界に配備されていた全天使の三分の一が混線を起こし、戦争と化してしまった」  さて、と彼女はハンマーでゴリゴリとアスファルトを|擦《こす》りながら言う。  上条の目を見て、言う。 「そこの怪物は、神聖かな? ソレとも堕落かしらん?」 「ッ」 「言うまでもないわよねぇ! そこにいるのはタダの堕天使野郎だ!! ソレも神様が|創《つく》った天使が暴走したダケじゃあない、人間の作った|不恰好《ぷかつこう》な羽つき人形がさらに混線した、罪を罪で重ねた真っ黒な罪人野郎だ!!」  ヴェントは地面につけていたハンマーを片手で持ち上げ、上条に突きつける。 「学園都市にどんな意図があるかは知らない! |完壁《かんぺき》な天使を作ろうとして失敗したのか、ソレとも最初っから堕落を作ろうとしやがったのか! いずれにしても貴様達のやってるコトを、私達は認めない!!」  その言葉は、感情だけで人間を打ちのめせるものだった。  |風斬氷華《かざなりひようか》という存在を、|完壁《かんぺき》に否定する声だった。 「今のソイツに、私の『本命』が通用するとは思えない。そもそも人間と同じ精神性を保っているかどうかも分からないしね。でも私は殺す! 私の力が足りずとも、今の不完全な『堕天使』なら、空中分解しそうな内燃制御系に介入する術式を組んで、自滅を|誘発《ゆうはつ》させてやるわ!! 怪物を怪物の力で吹っ飛ばしてやるって言ってんのよ!!」  |上条《かみじよう》はその言葉を受けていた。  奥歯を|噛《か》み|締《し》め、彼女を正面から|睨《にら》みつけ、口を動かす。 「……、やらせるかよ」  |戦闘《せんとう》条件は、無理難題にもほどがあった。  そもそも上条はヴェントに勝てるかどうかも分からないのに、そこへさらに|風斬《かざきり》を|庇《かば》いながら戦えと言われているのだ。おまけに、その風斬だって無害であるとは限らない。あの|翼《つばさ》から|繰《く》り出される壮絶な火花で、背中を|撃《う》たれれば一発でおしまいだ。  それでも、上条|当麻《とうま》は右手の|拳《こぶし》を強く握り締めた。  彼は言う。 「……ただでさえ学園都市の上の連中からこんな目に|遭《あ》わされて、無理矢理に|誘導《ゆうどう》させられた手足を血に染めさせて、助けを求める事も涙を流す事も全部封じられて……。その上、今度は勝手に外からやってきたテメェみたいな人間に、化け物扱いされたまま殺されうだと?」  今の『あの子』に伝わっているかどうかなど関係ない。上条は風斬|氷華《ひようか》を守ると決めた。それを果たすため、彼はヴェントの前に立つ。土砂降りの雨に打たれて、巨大な天使を背にして、自分にとって不利な条件を|呑《の》めるだけ呑み続けて。 「ふざけんじゃねえよ。人の友達を何だと思ってやがる!!」 [#改ページ]    第十章 彼らのそれぞれの戦場 The_Way_of_Light_and_Darkness.      1  制限時間は六〇秒、  とにかく|木原《きはら》を殺すしかない。|戦闘《せんとう》終了後にたとえ一〇秒でも時間が残っていれば問題はなかった。能力使用モードと通常モードでは消費電力の量が棚違いなのだ。戦闘時には数秒の時間でも、通常時に切り替えれば数十分間の行動が可能となる。  廃棄オフィスの片隅には、携行型に改造された『|学習装置《テスタメント》』が転がっていた。  あの分なら、最低限だが|打ち止め《ラストオーダー》の頭を|治療《ちりよう》する環境は整っていると言える。  本当にここでウィルスをぶち込んだのなら、おそらくオリジナルスクリプトはまだ木原が持っている。ならばワクチンプログラムを作る事はそれほど難しくはないはずだ。 (だから殺せ。とにを殺せ!! アイツを殺せば|全《すべ》てが終わる! |他《ほか》の事ァ何にも考えンな。どの道、|俺《おれ》ァもォ光の道には帰れねェ。なら木原と|一緒《いつしよ》に地獄へ落ちる事だけ考えろ!!)  広い廃棄オフィスの一室で、|一方通行《アクセラレータ》はそれだけを考え木原の|懐《ふところ》へと弾丸のように突っ込む。右手の五本指を開いた。ベクトル反射能力を利用し、|皮膚《ひふ》に触れただけで全身の血を逆流させ、結果として血管や内臓をズタズタに爆破させる|悪魔《あくま》の手。同じフロアに|打ち止め《ラストオーダー》がいる事を考えると、あまり派手な手は使えなかった。それでも十分人間は殺せる。  下から顔を|狙《ねら》うように、鋭く放つ。  対し、木原は首を振っただけで軽々と|避《さ》けた。そこに『少しでも触れたら死ぬ』という恐怖や|緊張《きんちよう》はない。『絶対に当たらないから問題ない』とでも言いたげな顔だ。  空振りの|一方通行《アクセラレータ》に、木原のクロスカウンターが飛ぶ。  ボクシングのジャブを何十倍も精密にした、放った直後に手元へ引き戻す拳。  それは|一方通行《アクセラレータ》の『反射』の壁をすり抜けて、鼻っ柱に|容赦《ようしや》なく激突する。 「ァ……ッ!!」  ガシュッ! という、すり|潰《つぶ》すような鈍い音が|響《ひび》く。  決してハンマーのように、派手で重たい一撃ではない。|流石《さすが》に鼻にもらえば視界が揺れるが、かと言ってこれだけで意識が奪われるようなものでもない。  だが、  痛みによってわずかに動きを止めた|一方通行《アクセラレータ》へ、さらに軽い連撃が|襲《おそ》った。顔、胸、肩、腹、そしてまた顔、顔、顔。木原は|一方通行《アクセラレータ》が腕を振れば後ろへ下がり、それを追おうとすれば逆に|距離《きより》を詰めて|攻撃《こうげき》してくる。。 「ぎゃはは!! このクソ野郎が! どの|面《つら》下げて|俺《おれ》の前に立ってんだあ?」  |木原《きはら》の叫び声と共に、ゴン罫 という|衝撃《しようげき》が|一方通行《アクセラレータ》の頭を揺らした。  やはり『反射』が通じない。  核兵器の爆風を直接受けても髪の毛一本揺らがないはずの、絶対の壁が。  |一方通行《アクセラレータ》はひとまず後ろへ下がろうとする。  木原はさらに大きく前に躍み込み、続けて顔面にもう一発靱硲放った。 「ッ!!」  |一方通行《アクセラレータ》の『反射』は、分厚い防弾板を体の前に展開している訳ではない。  あくまでも、『向かってきた力を逆方向に向け直す』ものでしかない。前から向かってくる力を逆向きへ変更する事で、あらゆる攻撃から身を守っている。  つまり、 (後ろへ向かう力に[#「後ろへ向かう力に」に傍点]『反射[#「反射」に傍点]』をかければ[#「をかければ」に傍点]、そのまま前へ向かってくる[#「そのまま前へ向かってくる」に傍点]!!)  |殴《なぐ》られ、口の端を切って血をこぼしながら、|一方通行《アクセラレータ》は確信を得る。  木原|数多《あまた》は自分が放った嘩を|一方通行《アクセラレータ》に当てる直前で逆向きにさせているのだ。『反射』のわずかな保護膜に触れるか乱かのラインに差し掛かっ瓦畷隙に。そうする事で『後ろへ向かう拳を自ら前へ向け直す』羽目になっているのだ。  ならば体を守るベクトル制御能力を変更すれば良いのだが、まるでそれを先読みしていたように木原の拳のターン方向も微細に再調節される。一方通行という能力[#「一方通行という能力」に傍点]を直接開発した頭脳は|半端《はんぱ》ではないらしい。 「どうした小憎ォ!! あのガキ助けに来たんじゃねえのかよお?」  タイミングを奪われ、リズムを|掌握《しようあく》され、手玉に取られる。軽い軽いと思っていた木原からのダメージは、アルコールのように徐々に体に蓄積していく。|一方通行《アクセラレータ》の体の動きが鈍くなるたびに、木原はより大胆な行動に切り替え、|一方通行《アクセラレータ》の『酔い』の速度を加速させていく。 「ぐ……ああァ……ッ!!」  さらに時間は無情に過ぎていく。  学園都市最強の能力をフルに使ってもこれだけの差があるのに、電極の加護がなければ彼は自分の足で立つ事すら難しくなる。そうなれば逆転の機会は絶対に訪れない。  |焦《あせ》りが時間を削り、その時間がさらに焦りを|誘発《ゆうはつ》していく。 (……、クソッたれが!! 木原ごときで止まっている余裕もねえってのに、これじゃあのガキの|治療《ちりよう》のために『|学習装置《テスタメント》』を使う時間もなくなっちま———ッ!!) 「余裕だなぁ、スクラップの殺人野郎!! もう勝った後の算段かぁ!?」  ゴン!! という|轟音《ごうおん》が|響《ひび》く。  考え事をしていた|一方通行《アクセラレータ》の意識が、今度は確実に揺さぶられた。  |木原数多《きはらあまた》の動きがかなり大振りになっていた。ダメージを重ねた|一方通行《アクセラレータ》は、もうこちらの速度を処理できないと判断したのだろう。  |一撃《いちげき》一撃の間隔は長くなり、その代わりに|拳《こぶし》の一つ一つに重みが増す。 「テメェさあ、もしかして自分で自分をすげー格好良いとか思ってんのか?」  顔面を|潰《つぶ》されるような一撃に、|一方通行《アクセラレータ》の二本の足がふらついた。注意しないと|絡《から》まって転びそうになる。 「たった一人で巨大な悪の組織に立ち向かって、|哀《あわ》れな|囚《とら》われのガキい助けるために奔走して、そういった行動で自分の人生|全《すべ》てチャラにできるとでも考えてんのかよ?」  そちらへ注意を向けている間にも、さらに木原の拳は飛んでくる。両腕で急所を守ろうとしても、常に防御の|隙間《すきま》をすり抜けるように着弾した。ダメージは極まり、引き結んだ唇の隙間からドロリとした血の塊が噴き出す。 「ぎゃはは! ふざけんじゃねえよ! テメェは一生泥ん中だ! |這《は》いずっても這い上がっても泥まみれなんだよ!! だったらそのまま沈んでろ! テメェみてえなのがベタベタ歩くと周りが汚れちまうんだよお!!」  ドゴン!! という|一際《ひときわ》大きな|衝撃《しようげき》と共に、|一方通行《アクセラレータ》の体がついに床に崩れた。|両膝《りようひざ》を折り、|綿埃《わたぼこり》と毛先が同化したカーペットの上に額がぶつかりそうになる。 (……ちく、しょう。クソッたれが……)  それでも、|一方通行《アクセラレータ》はスチール製の事務机に手を置いて、完全に倒れる事だけは防ぐ。体の中にあったスタミナは、木原からのダメージで|扶《えぐ》り取られていた。マラソンを終えた後のように、全身が休息を求めて悲鳴をあげている。 (……分かってンだよ。一生泥ン中だって事ぐれェ。オマエ|達《たち》が思い出させたンだろォが。だから|俺《おれ》はもォそこに未練なンかねェ。俺が求めてンのはそこじゃねェ……)  歯を食いしばり、痛みの感覚を強引にこらえて、|一方通行《アクセラレータ》は支えとしている事務机へ力を込める。その腕の力を使い、彼はふらふらと体を起こしていく。 (……いい加減にしろよ。ドイツもコイツも、よってたかってあのガキを|狙《ねら》いやがって。地獄へ行くのは、俺とオマエだけで良い。そこにあのガキを巻き込むンじゃねェよ、このクソ野郎……)  しかし、彼のそういった覚悟は|無駄骨《むだぼね》に終わった。  ピピッ、という小さな電子音。  首元のチョーカー型電極から発せられた、小さな小さな最後|通牒《つうちよう》。  一分間、六〇秒が経過したという機械的な合図。  示された意味は、バッテリー切れ。  ガクン、と。 |全《すべ》ての力を失った|一方通行《アクセラレータ》は、|木原数多《きはらあまた》の前で|埃《ほこり》だらけの床に崩れ落ちた。      2  バヂィ!! という|轟音《ごうおん》が|響《ひび》く。 『天使』の羽と羽の間を、今にも|溢《あふ》れ出しそうな火花がブリッジを描いていく。 「ハハッ!!」  前方のヴェントが巨大なハンマーを片手に|上条《かみじよう》の元へと正面から突っ込んできた。  上条は向かってくるヴェントに合わせ、握った|右拳《みぎこぶし》を全力で|叩《たた》きつけようとする。  ビュン!! という風を切る音が響いた。  それはヴェントがハンマーを振り回した音ではない。  ヴェントの体が真上に三メートルも飛び上がった音だった[#「ヴェントの体が真上に三メートルも飛び上がった音だった」に傍点]。  下や左右ではなく、上へ|避《さ》ける。  おそらく空気を使った|魔術《ぽじゆつ》の一種なのだろう。  拳を空振りした上条の顔面へ、|容赦《ようしや》なく飛び|蹴《げ》りのカウンターが|襲《おそ》いかかった。ゴン! という鈍い音と共に彼の体が|濡《ぬ》れたアスファルトの上を転がっていく。 (がっ、ぁ!? こいつ……ッ!!)  鼻を押さえて|上条《かみじよう》は慌てて起き上がる。  ヴェントは目と鼻の先にいた。  振り上げられたハンマーは、そのまま路上の上条目がけて勢い良く振り下ろされる。  じゃりり! と|鎖《くさり》の|擦《こす》れる音が聞こえた。  見れば、血に濡れて赤く染まった舌のチェーンは上条の顔を目がけて、|螺旋《らせん》の|槍《やり》を描いている。  その形をなぞるように、風の凶器が発生した。 「ぐああッ!!」  上条は叫びながら右手を突き出す。ヴェントの|攻撃《こうげき》が|弾《はじ》け、周囲に空気の|嵐《あらし》が|撒《ま》き散らされる。雨粒の方向が、ほんの数秒だけ大きく乱れた。  それを二人は見ていない。 「ふっ!!」  ヴェントが息を吸い込み、さらにハンマーをがむしゃらに振り回した。舌の鎖は生き物のように|蠢《うごめ》く。上条は右手で受け止めるのを|諦《あきら》め、後ろへ転がるように|回避《かいひ》する。|幻想殺し《イマジンブレイカー》に|頼《たよ》り続けては永遠に不利な体勢を直せない。そう思った彼は、転がる勢いを利用して後方へ下がりつつ、一気に地面から立ち上がる。  外れた空気の鈍器がアスファルトに突き刺さる。その破片が空中に舞う。  両腕を使って石の嵐から顔面を守る上条に、ヴェントの|耳障《みみざわ》りな声が飛んできた。 「げほっ……。クソ、やっぱり出力が落ちてやがる……」  口から血の塊を|吐《は》き、上条の背後にいる天使を|睨《にら》み付ける。  血の伝う鎖を揺らし、ヴェントは声を張り上げた。 「はは、さっきっから面倒臭いわねえ!! 気持ち悪い右腕ぶら下げて、吐き気がするような『天使』を|庇《かば》って、どこまで私を笑わせりゃあ気が済むのかしらぁ!?」 「ふざけんじゃねえよテメェ!! 世の中にはテメェの持ってる視点しかねえとでも思ってんのか!? 何で自分以外の他人を受け入れようとしねえんだテメェらは!!」  石の嵐の中を突っ切って、ヴェントはもう一度上条の|懐《ふところ》へと走り込んで来る。  不思議とアスファルトは彼女の体に当たらない。まるで向こうが|避《さ》けているような|錯覚《さつかく》を得る。これもまた空気を使った|魔術《まじゆつ》の一種なのかもしれないと上条は予測する。  ハンマーを振り回し、彼女は叫ぶ。  歯の間から、赤い血を|漏《も》らしながら。 「私は科学が嫌い! 科学が憎い!!」  上条がそのハンマーを右手で|叩《たた》き落そうとした所で、唐突にハンマーが|虚空《こくう》へ消えた。上条の|拳《こぶし》が空を切った所で、見計らったようにもう一度ヴェントの手からハンマーが出現する。  トン、とヴェントは無防備な|上条《かみじよう》の腹にハンマーの先を押し付ける。  そのハンマーの|柄《え》に、舌の|鎖《くさり》をぐるぐると巻きつけて。 「私をこんな風にした科学が嫌い!」  直後、空気の鈍器がハンマーの先端から吹き荒れた。  上条はとっさに身をひねったが、それでも|脇腹《わきばら》を鈍器が|掠《かす》める。たったそれだけで、グルン! と彼の体が竹とんぼのように回転した。着地などできるはずもなく、そのまま崩れかけた壁に激突する。 「私の弟を見殺しにした科学が憎い!!」  訳の分からない一方的な|罵声《ばせい》を浴びせ、ヴェントはさらにハンマーを|薙《な》ぎ払う。あれだけ|絡《から》まっていた鎖はいつの間にか外れていた。空気の鈍器が生まれ、上条の元へと|襲《おそ》いかかった。壁に体を押し付けていた上条は、そのまま勢い良く横へ飛んで|回避《かいひ》する。  ビルの壁がオモチャのように砕けて割れた。  その威力にゾッとした上条だったが、ふと彼の動きが止まった。  砕けた壁の向こうに、大学生ぐらいの男の人が倒れていたのだ。 「待———ッ!!」  上条が止めようとしたが、  ゴォン!! という|轟音《ごうおん》が、上条の言葉に重なった。 『天使』の羽の火花だ。  それは轟音を通り越して、もはや|衝撃波《しようげのは》に近かった。 「ッ!!」  あまりの|震動《しんどう》に、上条は思わず両手で耳を押さえて苦痛の表情を浮かべた。ヴェントから目を|離《はな》し、背後を振り返れば、ついに|風斬《かざきり》の羽と羽の間でブリッジを描いていた火花が、許容量を超えて解き放たれていた。  ドッ!! という音の領域を超えた何かが突き抜けた。  それは蛇のように生物的なラインを描き、|一瞬《いつしゆん》で学園都市の外まで突き抜けた。ともすれば地平線の向こうに隠れるほどの |距離《きより》が離れているにも|拘《かかわ》らず、爆風で巻き上げられた|土壌《どじよう》がウェーブを描くのが確かに見えた。  おそらく『敵』を討つため、天使の攻撃が再び放たれたのだ。 (くそ……)  頭がガンガンに痛む。  早くヴェントを止めないと倒れている人|達《たち》を巻き込むと分かっていても、体が上手く動かせない。  一方、ヴェントの方は痛みも気にしていないような顔で、 「科学なんてこんなモンだ!! アンタもその一員なのよ! 気持ち悪いとか思わないワケ!?」  口から血を流し続けるヴェントは、力の限りにハンマーを振り回し、舌のピアスが照準を決定し、特大の空気の鈍器がコンクリートを粉々に打ち砕いた。  そこにいた一般人を、わざと巻き込むように。      3  前後左右のバランスが|掴《つか》めない。どちらに向けて力を入れれば起き上がれるのか、それすら『計算』できない。投げ出された手は見えるが、指が何本あるか、目で追いながらカウントしていくと数が分からなくなる。  バッテリー切れによって、|一方通行《アクセラレータ》の首筋にある電極は効力を失っていた。  今の彼は、もう能力を使用する事もできないし、言葉を理解する事もできないし、一〇本指を折れば答えが分かる程度の計算もできない。|拳《こぷし》を握って|木原《きはら》に|喰《く》らいつくどころか、そもそも自分の体重や重心の管理すら行えないため、まともに立ち上がるのも難しい。  廃棄オフィスの床は|埃《ほこり》まみれで、カーペットの毛先と綿埃が|絡《から》み合っている。それを|頬《ほお》に押し当てて倒れている|一方通行《アクセラレータ》は、この状況を『不快』と感じてはいるのだが、 (……どう、すれば、この、『不快』を、取り除け、たっけ?)  受動的に情報を得る事はできても、能動的な反応を示す事ができない。間にあるべき『計算』が封じられているからだ。  そんな|一方通行《アクセラレータ》の頭上から、声が降り注ぐ。  木原|数多《あまた》のものだ。 「次第に[#「次第に」に傍点]、寝ちまっては来たっつのそれは良くてそれほどたくさんの問題で遠いですかぁ[#「寝ちまっては来たっつのそれは良くてそれほどたくさんの問題で遠いですかぁ」に傍点]!?」  何を言われているのかサッパリ理解できない。  そもそも、自分はここで何をやりたかったのか。自問はしても自答ができない。確か|打ち止め《ラストオーダー》がここにいるはずだ。彼女をここから連れ出さなくてはいけないはずだ。それは分かる。『計算』しなくても良い、あらかじめインプットされている情報を意識面に出力するだけなら|一方通行《アクセラレータ》にも行える。  しかし、  具体的にはどうやって? (…………………………………………………………………………………………………、)  |一方通行《アクセラレータ》の動きはそこで止まった。  もっとも、そもそも彼の思考能力が万全の状態であっても、この答えを導くのは不可能だっただろう。学園都市最強の能力をフルに使っても、木原数多はそれらを先読みし、|煙《けむ》に巻き、|一方通行《アクセラレータ》の力を制限した上で、逆に痛烈なカウンターを仕掛けてくる。世界を滅ぼすほどの力を|叩《たた》きつけてもケロリとしている|木原《きはら》に対し、今の|一方通行《アクセラレータ》はチョーカー型電極の恩恵をなくし、|杖《つえ》にすがってようやく立ち上がれる程度の運動能力しか持たない。これで勝算を導き出せというのは厳しすぎる。たとえ『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を使ったとしても、出力される解答は〇%の一語に尽きるだろう。  だが[#「だが」に傍点]。 「———?」  その|瞬間《しゆんかん》、さんざん|侮蔑《ぶぺつ》の言葉をぶつけていた木原の口が止まった。  |嘲《あざけ》りに満ちた表情に、|若干《じやつかん》の困惑が加わった。  無理もないだろう。|一方通行《アクセラレータ》の首筋にあった機器を見て、その機能と弱点をほぼ正確に予測していた者ならなおさらに。  ミシリ、と。  事務机を|軋《きし》ませ、それにすがるように、|一方通行《アクセラレータ》が再び立ち上がったからだ。  とても戦えるような状態ではなかった。  彼は自分自身の体重すらも支えられない。今は事務机に両手をついているが、それを|離《はな》せばすぐにでも床に崩れ落ちるはずだ。眼球の焦点も合っておらず、不規則にグラグラと揺れる黒目が何を映しているのかは、もう本人にしか分からないレベルだ。  強大な敵に立ち向かうどころか、地球の重力にも負けている|一方通行《アクセラレータ》。  しかし、それでも彼は木原|数多《あまた》と|対峙《たいじ》する。  その無様な様子を眺め、木原が|馬鹿《ばか》のように笑った。 「同じく砲撃中隊を退けた事にあなたは何を与えてます[#「同じく砲撃中隊を退けた事にあなたは何を与えてます」に傍点]!?」  決して届かない|罵声《ばせい》を浴びせかけられる。  バッテリーも切れたのにお前は何をやってんだよ、というニュアンスの言葉なのだが、今の|一方通行《アクセラレータ》に届くはずがない。そして、仮に届いたとしても彼の行動は決して変わらない。  現状の|一方通行《アクセラレータ》はあらゆる計算ができない。  この絶望的な状況を理解できても、それを打破するための勝算が浮かばない。  けれども。  逆に言えば、今の|一方通行《アクセラレータ》はあらゆる敗因が計算できない。  |故《ゆえ》に、彼は決して|臆《おく》しない。  たとえどんな状況に追い込まれても、次の|一撃《いちげき》で殺されると分かっていても。  最後の最後のその|瞬間《しゆんかん》まで。  彼はただひたすらに、計算もしないで戦う事を選択し続ける。      4  |上条《かみじよう》の両目が見開かれた。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》を秘めた右手は届かなかった。  土砂降りの雨の中、ヴェントの放った|一撃《いちげき》がコンクリートの壁を爆弾みたいに打ち砕く。そこに気絶していた人間を含めて、|全《すべ》てが灰色の|粉塵《ふんじん》の中へ消えていった。  それは戦場の野戦病院を|襲《おそ》い、|治療《ちりよう》を待っている重傷者一人一人の頭に銃口を押し付けて引き金を絞るような行為だ。  どう考えても巻き込まれた人が生きているはずがなかった。  灰色の粉塵が晴れた後には、グチャグチャに引き裂かれた人肉が散らばっているだけのはずだった。  一方では、ガァン!! ゴォン!! と、立て続けに|風斬《かざきり》が放電に似た攻撃を発射していく。  上条の心を余計に押し|潰《つぷ》していくように。 「テ、メェえええええええええぇッ!!」  叫びは、かなり遅れて上条の口から放たれた。  頭の処理が遅れるぐらい、目の前の光景は|凄惨《せいさん》だった。  ビュオ!!と、|嵐《あらし》に吹かれるように、突如として粉塵が取り除かれる。  だが。  その奥にいたのは、気を失ったまま、しかし傷一つ作っていない民間人だった。 「な……?」 「あ……?」  上条とヴェントは、倒れている大学生を見る。  攻撃は、確かに直撃したはずだったのに。 (どういうコト……。くそ。目の前で一般人を潰せば、感情面からちょっとは揺さぶりをかけられたはずなんだけど)  ヴェントは、そう思案していたが。  ふわり、と。  淡い光を放っ綿のようなものが、ゆっくりと夜空から降ってきていた。  首を巡らせ、上条とヴェントの二人は確認する。  無傷だった大学生の周囲に、何か光る|鱗粉《りんぷん》のようなものが、うっすらと漂っていた。目を|凝《こ》らさなくては分からないほど|薄弱《はくじやく》な異能力の|証《あかし》。しかし、それらは|衝撃《しようげき》を|阻《はば》むように、大学生の周囲を漂い、|覆《おお》っている。それこそが、この民間人をヴェントの攻撃から守ったものの正体のようだ。  どこから……? と|上条《かみじよう》は周囲へ視線を飛ばす。  光り|輝《かがや》く|鱗粉《りんぷん》は、土砂降りの雨も気にせずにふわふわと周囲に漂っている。  上条やヴェントは、生存者の様子と同じぐらいに、全く別のものに気を取られていた。  それは鱗粉の光。  その輝きを、上条|当麻《とうま》は知っている。  彼は後ろを振り返る。  そこには無数の|翼《つばさ》から鱗粉を|撒《ま》いている、|風斬氷華《かざむりひようか》がいた。 「はは……」  笑った。  上条は、その光景を前に思わず笑ってしまった。  周囲の|瓦礫《がれき》が音を立てた。ガラガラと崩れていく|残骸《ざんがい》の中から現れたのは、大学生と同じく生き埋めにされた一般人|達《たち》だ。男も女も、子供も大人も、大勢いる。  鱗粉は一〇〇人でも一〇〇〇人でも包み込み、ひたすらに守り続けている。  彼らに傷は、ない。  たったの一つも。  ザァ!! と。周囲一帯が輝く鱗粉に照らされていく。  彼女の|想《おも》いが、|闇《やみ》を|拭《ぬぐ》う!! 「ははは」  |誰《だれ》だか知らないが、風斬をあんな風にした人間が、生存者の安否など気にしているとは思えない。だとすると、|破壊《はかい》活動の方はともかく、生存者達を救ったこの輝く鱗粉については、裏側に|潜《ひそ》む何者かの命令によるものではないはずだ。  となると、これはあの子の意思によって引き起こされた現象だ。  あんな体にされて、自由も全部奪われて、それでも必死に抵抗した結果、彼女は身を削って最後の一線を守り抜いたのだ。  風斬の頭上にある天使の輪に取り付けられた鉛筆ぐらいの棒が、ガシャガシャガチャガチヤ!! と高速で動く。彼女の体を|誘導《ゆうどう》するための光がチカチカと連続で|瞬《またた》く。  おそらく、風斬の勝手な行動を停止させるためのコマンドなのだろう。  ゴキリ! と風斬の右腕から妙な音が聞こえた。  あまりの|束縛力《そくばくりよく》に、彼女の腕がメキメキとシルエットを崩していく。  それでも、周囲に漂う鱗粉は決してなくならない。  絶対に、彼女は守る事をやめない。  ドガァッ!! という|轟音《ごうおん》と共に、立て続けに風斬の羽から放電に似た|攻撃《こうげき》が学園都市の外周部へ放たれる。しかし、その軌道を|塞《ふさ》ぐように無数の|鱗粉《りんぷん》が|喰《く》らいついた。あまりの|破壊力《はかいりよく》に鱗粉は軽々と吹き飛ばされるが、|風斬《かざきり》は抵抗をやめない。どれだけ体を痛め付けられても。  破壊と守護、相反する二つの行動。  それが、今の風斬|氷華《ひようか》を示していた。  たとえ何者からの支配を逃れられなくても、他人に対する|攻撃《こうげき》を止められなくても、風斬はそこで|諦《あきら》めなかった。  彼女は自分の体を|軋《きし》ませるほど抵抗し、  少しでも不幸になる人間を減らすために、  血の|滲《にじ》むような覚悟で力を振り絞り、  一緒に戦ってくれているのだ[#「一緒に戦ってくれているのだ」に傍点]。 「こ、の、偽善者が!! ナニやってんのよ!?」  ヴェントが顔を真っ赤にして叫んでいたが、|上条《かみじよう》の耳には届いていなかった。 「はは」  良かった、と彼は思った。  上条|当麻《とうま》は、風斬氷華を守るために立ち上がって正解だったのだと、  たったそれだけの事が、はっきりとした。 「はははははっ!!たまんねーな! たまんねーよ!! |日頃《ひごろ》から不幸不幸って言ってるけど、これだけあれば十分に幸せじゃねぇか[#「これだけあれば十分に幸せじゃねぇか」に傍点] なぁ!?」 「な、ナニを……何のコトを言ってんのよ、アンタ!!」  常軌を逸した上条の笑いに、これまで主導権を握り続けてきたヴェントの方が思わず後ろへ下がった。赤く染まった舌の|鎖《くさり》が尾を引いていく。それに対して、上条の方は質問に答える気が全くない。彼はすでに満足してしまっていた。これ以上の答えを求めないが|故《ゆえ》に、ヴェントの言葉に応じる事もない。答えが出てしまっている以上、ヴェントに何を言われて何をやられた所で、上条の心は絶対に折れない。 「待ってろよ、風斬」  今度こそ、『届いている』という確信を得て、上条当麻は話しかける。  破壊のための攻撃を|撒《ま》き散らし、守護のための鱗粉でそこから抵抗し続ける少女へと。 「今、インデックスがお前を助けるために動いてくれてる。この手の|厄介事《やつかいごと》は、あいつに任せておけば問題ねぇよ。なんて言っても、お前の友達だからな。期待に|応《こた》えてくれんだろ」  だから、と告げて、上条は右手に力を込めた。  先ほどまでとは比べ物にならないほど、固く、強い|拳《こぶし》が形成される。 「安心しろ。それまでの間、ここは俺が絶対に食い止めてやる」      5 「ふざ、っけんじゃねえそこの廃人野郎ぉ!!」  |木原数多《きはらあまた》は叫び、事務机に寄りかかって体をふらつかせている|一方通行《アクセラレータ》を本気で|殴《なぐ》り飛ばした。もう|一方通行《アクセラレータ》は能力を使えない。これまでの「|拳《こぶし》を返す』特殊な殴り方をせず、全力で体重をかけて殴っても問題ないのだ。  結果、|一方通行《アクセラレータ》の体は|紙屑《かみくず》のように舞う事になる。  ただし、その直前で彼は木原の手首を|掴《つか》んでいた。想像以上に強い、そして『飛んできたものを掴む』という犬や猫並みに単純な本能の動きによって、ガクンと|一方通行《アクセラレータ》の体が|縫《ぬ》い止められる。 「チッ!」  木原は拳に|喰《く》らいついた|一方通行《アクセラレータ》の手を振り払おうとしたが、思うようにいかない。その間に、|一方通行《アクセラレータ》はもう片方の手で|緩《ゆる》く拳を握って、それを木原の顔面へ |叩《たた》き込む。  ぱしん、という間の抜けた音がしただけで、痛みはほとんどなかった。  |一方通行《アクセラレータ》が木原の耳のすぐ上———側頭部の髪の毛を掴んで[#「側頭部の髪の毛を掴んで」に傍点]、思い切り引き剥がさなければ[#「思い切り引き剥がさなければ」に傍点]。 「ごァああああああああああああああッ!?」  木原の絶叫と共に、血が|飛沫《しぶき》をあげた。  雑草のようにまとめて引き抜いたため、髪の毛と|一緒《いつしよ》に地肌までベリベリと|剥《は》がしていた。ちょうど草の根に|絡《から》む土のように、|一方通行《アクセラレータ》の持っている『髪束』には肌色の|皮膚《ひふ》やピンク色の肉が|薄《うす》く張り付いている。  情けなどない。  |容赦《ようしや》などない。  |一方通行《アクセラレータ》は、表情を崩す木原のすぐ目の前で、口を引き裂いて笑っていた。  本能だけで戦っているに近い彼は、極めて原始的な『|爽快感《そうかいかん》』を顔に表した。 「こんの、クソガ、キ……ッ!!」  木原は片手で頭の横を押さえながら、後ろへ大きく下がろうとした。  しかし|一方通行《アクセラレータ》は、まるでゾンビのように木原に抱きつき、そのまま床へ押し倒す。『テメぇ!!』と木原が叫んだが、言語機能のない|一方通行《アクセラレータ》には|完壁《かんぺき》に届いていなかった。 (なめやが……ッ!!)  木原は叫ぽうとしたが、その時、|一方通行《アクセラレータ》は木原の耳を|掴《つか》み、そのまま引き|千切《ちぎ》ろうとした。 「おおおっ!?」  慌てて首を振ってその指を|避《さ》け、木原は|一方通行《アクセラレータ》の顔を殴って、その下から脱出する。体を転がすように、床の上を移動する。 (ふざけやがって、ここで殺してやる!!)  |木原《きはら》は倒れたまま、床に転がっている|拳銃《けんじゆう》を見た。|一方通行《アクセラレータ》に|潰《つぶ》された『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の武器の一つだ。  それを使って|蜂《はち》の巣にしようと思った木原だが、 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》がその手を|掴《つか》む。  自分の手をさらに拳銃へ近づけようとする木原に、|一方通行《アクセラレータ》はもう片方の手を木原のみぞおちにねじ込んだ。それを二回、三回と|繰《く》り返すと、木原は一度拳銃を|諦《あきら》め、のしかかってくる|一方通行《アクセラレータ》の顔へ肩を|叩《たた》き込み、|距離《きより》を取ろうとする。  ほとんど本能的な行動か、それでも|一方通行《アクセラレータ》は木原と拳銃の間を割るように倒れ込んだ。 (このクソガキ……行動力を失った分、一つ一つの動きがキレ始めてやがる!?)  もぞもぞと床で|蠢《うごめ》く|一方通行《アクセラレータ》を|睨《にら》みながら、木原は荒い息を|吐《は》く。  もしも|一方通行《アクセラレータ》にまともな思考能力が残っていたら、違和感に気づいていたかもしれない。  学園都市最強の|超能力者《レベル5》を軽くあしらうような化け物が、この程度でここまで|緊張《きんちよう》するのはおかしい、と。  トリックがあったのだ。  結局の所、木原|数多《あまた》が|一方通行《アクセラレータ》を圧倒していたのは、彼が『|一方通行《アクセラレータ》を直接開発したから』に過ぎない。だから性格面、能力面、運動面など、あらゆるデータが|揃《そろ》っていた木原は、『|一方通行《アクセラレータ》にのみ有効な』必殺戦術を身につけていただけだったのだ。  もちろんそれを成功させるには、普通の人間よりはるかに優れた体術のセンスと、|膨大《ぽうだい》な研究データを戦術に組み込むための天才的な頭脳が必要になる。しかし、それを実現したとしても、学園都市でも七人しかいない|超能力者《レペル5》を正面から打倒するほどのものではない。  本当に小細工なしで|超能力者《レベル5》を叩き潰せるのなら、木原はそもそも『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の部下など使わないだろう。ピアスだらけの女が出現した時にも自分でさっさと対処したはずだ。実際、今回の作戦で木原は|一方通行《アクセラレータ》以外の人間を潰す時には絶対に部下を差し向け、自分は表に出ないように|徹底《てつてい》していた。  しかし、その化けの皮はここで|剥《は》がされた。  |一方通行《アクセラレータ》が、|超能力者《レペル5》から何の力も使えない|無能力者《レペル0》へ切り替わった事で。  これまでの|戦術《すぺて》を捨てたために、木原の『対抗策』も意味をなくしてしまった。 (|馬鹿《ばか》にしやがって。殺してやる、絶対ぶっ殺してやる。くそ、何でこんな事になってんだ。|俺《おれ》はずっとこいつを圧倒していたはずだ。床を|這《は》いずる理由が全く浮かばねぇ……)  口の中でブツブツと悪態をっく木原だったが、ふと窓の外に異変を感じた。 『天使』の様子がおかしい。  具体的に、一体どこに『異変』が生じているのか、木原には掴めない。だが、とにかく違和感があった。|曖昧《あいまい》な言い方をすれば、突き刺すような|禍々《まがまが》しさが消えている。 (異、変……?)  |呆然《ぽうぜん》と、|木原《きはら》は思う。 (ま、さか、アレイスターも、考えていなかったような、問題でも……)  額の汗を|拭《ぬぐ》い、立ち上がろうとした木原は、そこで|一方通行《アクセラレータ》の顔を見た。  彼の口は、言葉を発するように動いていた。  しかし、それは木原|数多《あまた》の耳まで届いていなかった。届いていたとしても、今の|一方通行《アクセラレータ》はまともに人の言葉を話せる状態ではない。何を伝えたいのか、木原に理解するのは不可能のはずだった。 それでも、木原はこめかみの血管が不気味に脈動するのを感じた。  |馬鹿《ばか》にされていると、表情や|雰囲気《ふんいき》だけで思い知らされたからだ。 (なめ、やがって……)  木原数多の眼球が、一気に血走る。 (殺すだけじゃ足りねぇ。ただ心臓を止めても、こいつは余裕をもって死んでいく。もっと奪え。こいつが死の意味すら奪え。そのためには何をすれば良いんだよ)  彼の思考が一気に回る。|一方通行《アクセラレータ》にとって何がが弱点で、何が急所で、何をやられるのが最も|辛《つら》い事なのか。演出、脚本、効果、それら|全《すべ》てをひっくるめ、最悪のシナリオを構成していく。  あはっ、と木原は笑った。 彼は自分の手を素早く白衣の内側へ突っ込んだ。取り出されたのは一枚のチップだ。中身は|打ち止め《ラストオーダー》の脳に打ち込まれた、ウィルスのオリジナルスクリプトだった。  |学習装置《テスタメント》を使って彼女の頭を|治療《ちりよう》するにしても、このデータは絶対に必要なものだった。  これがなければ|打ち止め《ラストオーダー》は絶対に助からない。  そのチップを、  木原数多は、|一方通行《アクセラレータ》の目の前で、|掌《てのひら》で包んでグシャリと握り|潰《つぶ》した。 「ぎゃははははははははははははッ!!」  |嘲《あざけ》りに包まれた爆笑が廃棄オフィスを揺るがした。  バラバラと、プラスチックの破片が床に落ちていく。|一方通行《アクセラレータ》は、動かなかった。計算のできない彼は、そのチップの|破壊《はかい》が何をもたらすのか、答えを導けない。それでも木原は満足だった。眼前で全てを破壊した事がこの上なく楽しかった。 「ざまあみろ! ざまぁぁぁみろ!! 勝利条件は一つじゃねえ! 悔しがれよこのクソガキ!! |俺《おれ》はテメェの一番大切にしているものを全部ぶっ|壊《こわ》してやったんだ! テメェはもう何にも取り戻す事あできねえんだよ!! あははあはぎゃはは!!」  これが|一方通行《アクセラレータ》や|木原数多《きはらあまた》の住んでいた世界だった。  加減も|容赦《ようしや》も情けも救いもない。  善も悪も死ぬ。ただ弱いヤツから順番に食い物にされていく。だからこの世界に迷い込んだら、|打ち止め《ラストオーダー》のような人間は絶対に生き残れない。当たり前すぎていちいち口に出す事もなかった、根本的な裏社会の法則。それに巻き込まれて、また一人の人間が命を落とした。  それだけの事だ。  たったそれだけのはずだ。  木原はゲラゲラと笑いながら、|一方通行《アクセラレータ》の|脇腹《わきばら》を|蹴《け》りつけた。希望を奪うだけでは許さず、その上で|叩《たた》き殺す。木原の顔には、略奪者の愉悦が深々と刻まれていた。 「ほぉーら、次はテメェの番だ。天国ってのがあるかどうか、今からくだらねえ事でも考えてやがれ!!」  もはや、望みなどない。  しかし、救いは|一方通行《アクセラレータ》と|打ち止め《ラストオーダー》を見捨てなかった。 「いた!! あの子だ!!」  廃棄オフィスに|踏《ふ》み込んでくる足音。  つい数時間ほど前に聞いていたにも|拘《かかわ》らず、随分と|懐《なつ》かしさを感じさせる少女の声。  |蹴飛《けと》ばされ、床を転がっていた|一方通行《アクセラレータ》の首が、声のした方へ向く。  そこに、  ずぶ濡れの白い修道服を引きずった、インデックスが立っていた。      6  バチバチと放電に似た|轟音《ごうおん》を|撒《ま》き散らす巨大な天使を背に、|上条当麻《かみじようとうま》はヴェントの元へと突っ込む。  矢のような速度だった。先ほどまでの動きが|嘘《うそ》のようだ。いや、おそらく逆だろう。生き埋めにされた人々の生存が確認され、さらにあの[#「あの」に傍点]|風斬《かざきり》の心はそのままだ。彼女がそうそう簡単に他人へ『敵意』を向けないのも分かりきっている。そしてもうヴェントの乱雑な|攻撃《こうげき》が周囲へ被害を拡大させていく事もない。|全《すべ》ての不安や|懸念《けねん》から解放された上条はその|枷《かせ》を外し、全力で戦う事ができる訳だ。  守れば良い。  彼はただ自分の大切な友達を守れば良い。  シンプルだ。  それ|故《ゆえ》に、|上条当麻《かみじようとうま》は何もかもから解放された。 「クソッ!!」  ヴェントは悪態をつきながらハンマーを振り回したが、すでにその時には、上条は彼女の|懐《ふところ》深くへと|潜《もぐ》り込んでいる。ドバン!! と|一撃《いちげき》で空気の鈍器を吹き飛ばすと、さらにそのままヴェントのハンマーの有刺鉄線を巻かれていない所を|掴《つか》むべく、右手を前へ前へと突き出す。 「ッ!!」  触れる寸前で、ヴェントの右手からハンマーが消えた。即座に左手にハンマーが移り、上条の|掌《てのひら》が空を切る。  がら空きの胴を|狙《ねら》って、ヴェントのハンマーが|横殴《よこなぐ》りに上条へ|襲《おそ》いかかる。  上条はこれを身を|屈《かが》めて|避《さ》ける。ブォ!! という|轟音《ごうおん》を頭上にやり過ごし、そのままヴェントの腹の真ん中へ鋭角に突き立てた|肘《ひじ》を|叩《たた》き込んだ。  ドン!! という鈍い音が|炸裂《さくれつ》する。 「げうっ!?」  ヴェントの体がくの字に折れ曲がり、さらに足の裏が滑って地面を転がった。上条は、さらに彼女の腹へ杭のようにカカトを沈めようとしたが、それより先に、ヴェントは倒れたままハンマーを思い切り振り回した。  空気の鈍器が、上条の顔面目がけて射出される。 「ッ!!」  慌てて後ろへ下がる上条のすぐ近くを、ビュオ!!と風の凶器が突き抜けた。土砂降りの雨を食い破り、粒子のような残像を引いていく。  仕切り直しだが、上条の顔には笑みがあった。  いける。 (ヴェントは、|俺《おれ》の右手にハンマーを掴まれる事を避けた)  上条は、右手の五本指を開き、もう一度握って、 (つまりこいつで打ち消せるって訳だ。しかも、すぐさま|壊《こわ》れたハンマーが元通りになるって事もなさそうだな。一度ぶっ壊しちまえば、ハンマーの方は封じられる!!) 「やっぱ近づかれて、こっちが得するコトはなさそうね……」  ヒュン、と長いハンマーを手の中で回し、肩で|担《かつ》ぐ。  唇の間からこぼれた赤い血が、細い|鎖《くさり》を伝って先端の十字架を|濡《ぬ》らしていく。  上条は|拳《こぶし》を構え直し、口元に|獰猛《どうもう》な笑みを浮かべて言う。 「周りを気にしなくて良いってんなら、こっちも存分にやり合える」 「ハッ。まるで後ろの化け物に協力してもらってるみたいね」 「みたいじゃねえ。本当に協力してもらってんだよッ!」 「言ってろ!!」  ヴェントがハンマーを肩に|担《かつ》いだ状態から一気に振り下ろし、|上条《かみじよう》が勢い良く前へ駆けた。  正面から飛んでくる空気の鈍器を右手で|弾《はじ》き飛ばし、続いて生み出された二発目は上条の足元へ落ちた。アスファルトが粉々に吹き飛び、大量の破片が上条を|襲《おそ》う。  彼は身を|屈《かが》め、できる限り当たる数を減らし、その上で両手をクロスして顔面へ向かってくる破片を防ぎながら、さらに前へと突き進む。  そうしながら、叫ぶ。 「これがテメェの限界だ!! 人の盾を使えなけりゃこの程度じゃねぇか!!」 「「神の右席』を……ナメてんじゃねぇぞおおおお!!」  ヴェントは絶叫し、さらにハンマーを振り回して空気の鈍器を生み出そうとする。  その|攻撃《こうげき》はもう読めている。  ハンマーを使って『武器』を生み出し、舌の|鎖《くさり》の軌道に合わせて発射する。ようはそのワンパターンだ。上条の右手があれば対処できる。 (いや、おそらく、本来のヴェントはこんなもんじゃないはずだ)  彼女には『自分に敵意を向けた者を|全《すべ》て|叩《たた》き|潰《つぶ》す』術式がある。それとこの空気を操る攻撃を組み合わせれば、ほとんどの人間は|敵《かな》わないだろう。たとえ当たらなくても[#「たとえ当たらなくても」に傍点]、凶器を向けられただけで相手の[#「凶器を向けられただけで相手の」に傍点]『敵意[#「敵意」に傍点]』は生まれるのだから[#「は生まれるのだから」に傍点]。  しかし、上条の|幻想殺し《イマジンブレイカー》はヴェントの大本命『|天罰《てんばっ》術式』を寄せ付けない。  今の彼女は、|牽制《けんせい》のための『鈍器』しか使えない。 (だから勝てる!! ここで終わらせてやる!!)  上条は右手が一つの塊になるほど固く握り|締《し》め、ヴェントの|懐《ふところ》へと飛び込もうとする。  彼の手が届く前に、ヴェントが水平にハンマーを振るった。  空気の鈍器が生まれる。  が、それが射出される前に、ヴェントは手首を返すと、さらにハンマーを下から上へ振り上げる。ドッ!! という|轟音《ごうおん》と共に、二発目の鈍器が生み出された。  二つの鈍器は、バラバラに飛んでくる事はなかった。  お互いを食い破って一つの塊になると、まるでシャワーのように扇形に|炸裂《さくれつ》した。数百もの|尖《とが》った空気の|錐《きり》が、上条目がけて一気に襲いかかってきた。  これは右手だけでは防ぎ切れない。 「ああああっ!!」  前へ|踏《ふ》み込む足を強引に曲げ、上条は全力で横へ転がる。ズドッ!! という鈍い音と共に、背後数十メートルのアスファルトがまとめてめくれ上がった。学生服の腕の辺りが弾け飛び、|皮膚《ひふ》が引きつれてピピッ、と切れる。  転がった直後で身を屈めている上条へ、ヴェントはさらにハンマーを振り上げる。  縦横に連続で振り回すと、今度は勢い良く三つの鈍器が生み出された。  |上条《かみじよう》はギョッと体を|強張《こわば》らせる。 (まずっ!?)  きちんと起き上がっていない今の上条は、機敏には動けない。ここへ先ほどのシャワーが難いかかれば、今度は|避《さ》けられる保障がない。 「くそ、当たっちまう……っ!!」  とっさに右手を構えた上条だったが、  ごぽっ!! と。  ヴェントが不意に体を折り曲げたと思ったら、その口元から血の塊が爆発した。  制御を失った三つの鈍器が、その場で爆発する。ドン!! という|轟音《ごうおん》と共に、ヴェントの体が真後ろへ|弾《はじ》かれる。 「ヴェント!!」  思わず上条は敵に叫んでいた。  確か、以前にもヴェントは口から血を|確か、以前にもヴェントは口から血を|吐《は》いていた事があったはずだ。 「……ナニを、|馬鹿《ばか》みたいな声を出しているんだか」  口の中に|溜《た》まった血を吐き捨てながら、ヴェントはよろよろとハンマーを構え直した。  今の爆発で、黄色い衣装のあちこちが破れ、血が|滲《にじ》み始めていた。 「アンタら科学サイドが、仕掛けたコトでしょう? あの『天使』の出現に合わせ、『界』全体へ強制的に術的圧迫を加える。いわば、|魔力《まりよく》の|循環《じゆんかん》不全を引き起こすってトコか。アレイスターも、いやらしい手を考える……」  ヴェントの口調は|朦朧《もうろう》としていて、何を言っているのか詳しく理解できない。  が、どうやら今のヴェントは|魔術《まじゆつ》を使うと血を吐くような状況にあるらしい。  空気の鈍器を続けて何度も生み出すやり方も、余計に負担を増しているのかもしれない。  それでも。  彼女は血を吐きながら、さらにハンマーを続けて振り回す。  上条の顔色が変わった。 「|馬鹿《ばか》野郎!! そうまでして戦う理由なんかあるのか!?」 「ヒトを|殴《なぐ》り殺そうとしているクソ野郎が! 白々しい|台詞《せりふ》を吐いてんじゃないわよ!!」  縦から横へと続けざまにハンマーが|躍《おど》り、三つの鈍器が生み出され、ギュルリと渦を巻いて、一本の鋭い杭と化して上条へ襲いかかる。  ズォ!! という轟音と共に、彼の耳のすぐ横を杭が突き抜けた。  上条がとっさに避けたのではない。  反応できなかった。当たらなかったのは、ヴェントの照準が勝手に揺らいだからだ。  彼女の体力は、もう長くは|保《も》たない。 (複数の空気をぶつけ、そのベクトルを掛け合わせ、全く別の方向や強さで風を|撃《う》ち出す……) 「今の|攻撃《こうげき》……流体力学の応用か!?」 「ムカつく野郎だわ。人の|魔術《まじゆつ》を知ったような顔で勝手に分類しやがって……ッ! 科学的な言葉を使われるだけで|虫唾《むしず》が走んのよ!!」  叫んだが、その意思に体力が追い着いていない。  振り上げていたハンマーが、腕ごとゴトンと地面に落ちる。両手はだらりと下がっているが、しかしヴェントの|瞳《ひとみ》からはギラギラした敵意が消える事はない。 「おおおアっ!!」  彼女は血まみれの歯を食いしばり、ハンマーを下から上へと振るう。  体力の限界を感じさせるような、ふらふらした軌道だった。  発射された風の鈍器は|上条《かみじよう》に当たらず、すぐ横の路上へ直撃した。  それを見た上条は言う。 「ハッ、レスキューが必要なんじゃねぇのか?」 「ふざけんじゃ、ないわよ……」 「悪りぃがこっちも立て込んでんだ。さっさと病院送りにしてやるよ!!」 「|黙《だま》れ!! 私はもう二度と、科学なんぞに身を預けない!!」  ヴェントは|吼《ほ》えるように叫んだ。  今の|台詞《せりあ》に、上条はわずかに|眉《まゆ》をひそめる。 「もう二度と、だって?」  思わず|呟《つぶや》くと、ヴェントの顔により一層深い怒りが刻まれる。  口の中に|溜《た》まった血の塊を|傍《かたわ》らに|吐《は》き、手の甲で唇を|拭《ぬぐ》いながら、彼女は言った。 「……私の弟は、科学によって殺された」 「なに?」  赤く染まった歯を食いしばり、全力でハンマーを振り上げ、彼女は続ける。 「遊園地のアトラクションの|試運転《モニター》で誤作動を起こしたおかげでね。幼い私は弟と|一緒《いつしよ》に、二人|揃《そろ》ってグチャグチャの塊になった。科学的には絶対に問題ないって言われてたのよ! 何重もの安全装置、最新の軽量強化素材、全自動の速度管理プログラム! そんな|頼《たの》もしい単語ばかりがズラズラ並んでいたのに!! 実際には何の役にも立たなかった!!」 「お前……」 「だから私は科学が人を救うなんて信じない。そこの天使も同じってコトよ。何が人を守ってるだ。その陰でしっかり|破壊《はかい》してんじゃない!!」  上条は、言葉もなかった。  そんな彼に、ヴェントは舌を出して言う。 「|驚《おどろ》いたぁ? 世界を|統《す》べる『神の右席』の一人が、こんな理由で戦ってるだなんて。でもね、私は『神の右席』を利用してでも科学を|潰《つぶ》したいほど憎んでんのよ!!」  |激昂《げつこう》はしても、すぐさま|攻撃《こうげき》は来ない。  ヴェント自身、体力の限界を肌で感じているのだろう。  必殺のタイミングを計っているのか、じりじりと足を動かし、ゆっくりと横方向へ動く。  赤く色づいた舌をベロリと出して、彼女は言う。 「B型のRh-。今、|吐《は》いてるこの血は、病理学的にはとっても珍しいモノだって医者は言ってたわ。輸血のストックもそうそう簡単には見つからない。じゃあ病院に運ばれた私|達《たち》姉弟はどうなったと思う?」 「……、」 「二人分の輸血なんて用意できなかった[#「二人分の輸血なんて用意できなかった」に傍点]。方々に連絡しても一人分しか集まらなかった。ソレまで死にかけのまま待ち続けた私達は、医者達から絶望の話し声を聞いたわ。どちらか片方しか救えないって。そして私だけが生き残った! お姉ちゃんを助けてくださいって、そう言ったあの子はそのまま見殺しにされたんだ!!」  歯と歯の間から血をこぼしつつ、それでもヴェントは攻撃しない。  絶対に殺すと、その時を待つと、言外に宣言しているように。 「科学は私達の道を奪い、その上、救いの術だと思っていた聖書さえ、こうして|冒涜《ぼうとく》で塗り|潰《つぶ》そうとしてる! |所詮《しよせん》、科学の本質なんてこんなモノよ。人の|邪魔《じやま》しかしない!!」  肩で息を吐き、自らの力を倍加させるように、ビリビリと空気を|震《ふる》わせて、叫ぶ。 「だから私は科学が嫌いで科学が憎い! 科学ってのがそんなに冷たいものなら、全部ぶち騰して、もっと温かい法則で世界を満たしてやる。ソレが弟の未来を食い|潰《つぶ》した私の義務だ!!」 「———、」  なんていう事だろう、と|上条《かみじよう》は思った。  結局、ヴェントは自分のせいで弟を死なせてしまった事を、ずっと悔いているのだろう。彼女にとって一番の敵は、おそらく科学ではなく自分自身だ。その手で守ろうとした者を死なせて今を生きている、ヴェント自身のはずだ。  |天罰《てんばつ》術式。  自分に敵意を向けた者を、問答無用で打ち倒す|魔術《まじゆつ》。  初めて聞いた時は、さぞかし便利な力だと感じた。しかし、その術式は逆に言えば、多くの人達から常に敵意を浴び続けるような環境でなければ[#「多くの人達から常に敵意を浴び続けるような環境でなければ」に傍点]、全く役に立たないのだ。  全世界の人間から恨まれる人生を選んだヴェント。 他人から敵意を受けなければ価値も結果も作れない。それを抑えるためには世界の|闇《やみ》に身を|潜《ひそ》めているしかない。まるで好意を受ける可能性すら廃しているような生き方だ。  それが|相応《ふさわ》しいと信じて、死んだ弟のためだけに、|破壊《はかい》に走る彼女。  とても、上条では|真似《まね》できないと考えた。  その上で、彼は言う。 「ふざけんじゃねえよ」  なに? とヴェントは|眉《まゆ》をひそめる。  |上条《かみじよう》は続ける。 「何が、科学が弟を殺した、だ。その医者だって初めから死なせたくなかったに決まってんだろ。お前|達《たち》を二人とも助けたかったに決まってんだろ!! 事故が起きたアトラクションの方だってそうだ。人を傷つけるために動かしてた訳じゃない。笑顔を作りたかったんだよ!!」 「|黙《だま》れ……」 「死に掛けてたお前の弟は、お姉ちゃんを助けてくださいって、どんな気持ちで言ったんだよ!! 自分がどんな状況にいるのか全部知った上で、それでもそいつはお前を助けたいって願ったんじゃねぇえのか!! そんな人間が、科学に対して|復讐《ふくしゆう》して欲しいなんて言うと思ってんのかよ! お前の幸せを|誰《だれ》よりも願っていた人間がッ!!」 「黙れっつってんだよおおおおッ!!」  |激昂《げつこう》のあまり、ヴェントはがむしやらにハンマーを振り回した。  これまでのような計算はない。ただ乱雑に飛ばされた空気の鈍器は、上条の右手によって軽々と吹き飛ばされる。 「たった一〇歳にも満たない子供が、死に掛けて意識を|朦朧《もうろう》としている状態で、目の前に傷ついた肉親がいて! ソンナ状態で決断しろと言われたら、誰でも首を縦に振ってしまうわ!! 小さな子供の意見ってコトなのよ。そこに価値なんてあるものか!! 血が足りなければ弟の方に回せば良かったのよ! 何なら私の血も使ってしまって良かったんだ!!」  上条の顔色はピクリとも変わらない。  土砂降りの雨の中、彼はヴェントの顔を正面から見据えて、告げる。 「価値ならあっただろ」  |唾《つば》を吐き捨て、彼は言う。 「たとえ小さな子供の意見だったとしても、そいつの決断があったから、お前は今もこうして生きてるんだろ! だったら価値はあったんだ!! その価値は、お前が一番分かってなくちゃいけないんじゃないのか!?」 「|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい!!そんな言葉が|慰《なぐさ》めになるか!? 私は他人の未来を|喰《く》ったのよ!!」 「全く同じ境遇の人間に、今の一言を叫べるのかよ!」 「ッ!!」  ヴェントの息が詰まった。  上条は、そこへ畳み掛けるように言葉を突きつける。 「|俺《おれ》にはできない。だからお前に反論する!! そんな生き方は間違ってんだよ! お前の弟がどんな人間かは知らない。でも、そいつは|俺《おれ》にもできない事をやった。あの時、お前の弟は世界で一番すごい事をしたんだ!! そこに泥を塗るのか!? ずっと科学を憎みながら死んでいったって、そんな言葉で台無しにしちまうのかよ!!」 「———、笑わせる」  前方のヴェントは、ほとんど唇を動かさずに、言った。 「その程度の言葉で、私の道が変わると思うワケ? この道は、私が決めた。たった今、ココで話を聞いただけのテメェに、そうそう簡単に捻じ曲げられるはずがないのよ!!」  一歩だけ後ろへ下がると、体に残ったわずかな力を振り絞って、重たいハンマーを持ち上げて、構える。口からこぽれた血が舌の細い|鎖《くさり》を伝い、先端の十字架を|濡《ぬ》らしていく。  応じるように、|上条《かみじよう》も|右拳《みぎこぷし》を固め、正面からヴェントを見据える。  互いの|距離《きより》は、わずか五メートル。  上条なら二歩で拳の射程距離に入る。あれだけ弱っているヴェントなら、|一撃《いちげき》が入ればそれで意識を奪えるだろう。  しかし、その間にヴェントも一撃を放てるはずだ。複数の空気の鈍器を重ね合わせた結果、まるで科学の流体力学のように形状やベクトルを変化させる、彼女の必殺技を。  一発ずつの、小細工なしの勝負。  周囲の|瓦礫《がれき》がガラリと崩れる音と共に、|火蓋《ひぶた》は切って落とされた。 「「!!」」  上条の体が前へ突き進む。  ヴェントはハンマーを連続で勢い良く振り回し、血を|吐《は》きながら一度に七つもの風の鈍器を生み出す。それらは互いに食い合い、ベクトルを変え、ギュルリと渦を巻いて、一本の巨大な|杭《くい》と化した。  三本の鈍器を束ねた杭ですら、上条は反応できなかった。  二倍以上の数となれば、どれほどの威力が出るのか想像もつかない。  それでも上条は|臆《おく》しない。  |避《さ》けるための動作へ移らない。真っ向から拳で迎え|撃《う》つため、拳にさらなる力を加える。ほんの数センチ、拳と杭の照準がずれれば上条の頭は確実に爆発するはずだ。その事実を理解して、なお上条の|瞳《ひとみ》は全く揺らがない。 (学園都市や|風斬氷華《かざきりひようか》が抱えている危機的状況も)  あるいは、ヴェントの目の動きや呼吸のタイミングで、攻撃を予測できるかもしれない。土砂降りの雨粒を使えば、風の攻撃を読める可能性もある。 (ヴェントが|囚《とら》われている、科学への憎しみも)  しかし、|上条《かみじよう》はそういった打算は|全《すべ》て捨てた。  この勝負の決着は、そういう小手先で決まるのではない。  胸の中の全てをぶつけ、最大の|一撃《いちげき》を放とうとしている彼女を見て、そう思った。 (そんな幻想は、ここでまとめてぶち|壊《こわ》す!!) 「おおおおおおおおおおおおおおおおおお治おおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  上条とヴェントは叫ぶ。  |拳《こぶし》と|杭《くい》は、ほぼ同時に飛んだ。  ゴォッ!! という|轟音《ごうおん》と共に、ヴェントと上条の間を杭が突き抜け、雨粒が砕け散り、粒子状に吹き飛ばされた。細かい|霧状《きりじよう》になって爆発した雨粒が、|瞬間的《しゆんかんてき》に視界を|塞《ふさ》ぐ。まるで蒸気のように周囲へ|撒《ま》き散らされる。  音が消えた。  その直後。  ドガッ!! と原始的な音が|炸裂《さくれつ》し、上条の拳が空気の杭の先端を|捉《とら》え、その一撃をまとめて打ち砕いた。 「……ッ!!」  ヴェントはさらにハンマーを振り上げようとしたが、もう体力が残っていないようだ。  そして、上条はそこへ深々と|潜《もぐ》り込む。 「お前の弟に比べれば、全然大した事はないだろうが……」  その拳を限界まで固く握り|締《し》め。  ヴェントの顔を|睨《にら》み付けて、 「少しだけお前を救ってやる。もう一度やり直して来い、この|大馬鹿《おおばか》野郎!!」  ゴン!! と上条の拳がヴェントの鼻っ柱に突き刺さった。  彼女の体が数メートルも飛んで、雨に|濡《ぬ》れたアスファルトの上を転がった。      7  インデックスは、ボロボロになって床に倒れている|一方通行《アクセラレータ》と、彼を|蹴飛《けと》ばしている白衣の男を発見した。それは奇しくも、地下街の出入り口近辺で目撃した時と似た構図だった。 (あの時の……ッ!! この人|達《たち》もあれと関係があるの!?)  とはいえ、今は彼らの方へ向かう余裕はない。  彼女にとって、一番重要なのは『大天使』を抑えるためのカギだ。  だが、 (ッ!?)  インデックスの目が見開く。白衣の男は|一方通行《アクセラレータ》の正面に立つと、倒れたままの彼の頭を思い切り|蹴《け》り飛ばした。|一方通行《アクセラレータ》の体が、抵抗なく床を転がる。  インデックスは思わずそちらへ駆け寄ろうとしたが、 「おおおゥゥあッ!!」  |喉《のど》から叫び声とも鳴き声とも言えない音を出し、|一方通行《アクセラレータ》は事務机に、バン! と手をついて起き上がった。ちようどインデックスの盾になる位置だった。  インデックスはやや|逡巡《しゆんじゆん》したが、やるべき事は山積みだ。  彼女は机の上に置いてある、電話線の抜かれた電話機を|掴《つか》むと、それを白衣の男に向かって投げた。その動きに合わせて|一方通行《アクセラレータ》が飛び掛かっていくのを|尻目《しりめ》に、インデックスは事務机に寝かされている、一〇歳前後の少女へ目を向ける。  携帯電話の写真で一度だけ眺めた事のある、|一方通行《アクセラレータ》の捜し人。  この少女が、|全《すべ》てのカギだ。 (ここじゃ|駄目《だめ》だ。『作業』するにしても、もっと安全な所へ……ッ!)  インデックスはぐったりしている少女の体を抱えて、廃棄オフィスを出ようとしたが、|打ち止め《ラストオーダー》の|衰弱《すいじやく》した様子を見て、下手に動かすのは危険だと判断した。|戦闘《せんとう》に巻き込まれないよう、机の上から、陰になる位置にゆっくりと床へ下ろす。 「テメェ!! 勝手な事してんじゃねえぞボケがぁ!!」  白衣の男が|喚《わめ》いたが、そこへ、|一方通行《アクセラレータ》が強引にしがみつく。  インデックスは改めて少女の体を頭の先から足の先まで観察する。  |魔術的《ぽじゆつてき》な視点で。 (やっぱりこの子が全ての『核』だ。基本は天使の構築。形のない『|天使の力《テレズマ》』を人のイメージという『袋』に押し込め、風船人形のようにシルエットを作っていく。クロウリーも所属していた『黄金』の魔術結社でも行われていた術式)  ザァッ!! と、一〇万三〇〇〇冊の知識があっという間に魔術の|謎《なぞ》を解き明かす。  しかし、 (……ここから先が分からない)  ギリッ、とインデックスの奥歯から音が鳴った。 (おおまかな全体図は分かっても、それがどんな部品で作られてるのかが理解できない!!)  |喩《たと》えるなら、木を削ってバイオリンを作っている職人に、電子部品を使ってエレキギターを作ってくれと|頼《たの》むようなものだ。同じ楽器であっても扱う分野が違いすぎるため、『何となく』でしか状況を|掴《つか》めないのだ。  そして、精密な作業を行うのに『何となく』では話にならない。  インデックス一人ではここが限界だった。  だからこそ、彼女は迷わず救いを求める。 「短髪、質問!!」  インデックスが言葉をぶつけたのは、彼女の手にある携帯電話だ。  その先に|繋《つな》がっているのは、一人の少女である。 『|美琴《みこと》サマと呼べ!!で、質問って———ザザザ! ガリガリガリ!! っ何なのよ?』  バンバンガン! と電話の向こうから|頻繁《ひんぱん》に爆発音が聞こえた。しかし、美琴はそちらには触れない。そっちが背負う必要はないと言わんばかりに。  インデックスはその好意に甘える事にする。 「�脳波を応用した電子的ネットワーク�って何!?」  インデックスの質問に、美琴は|常盤台《ときわだい》中学で得た知識をフルに使って回答していく。  その答えを聞いて、さらに次の質問が飛ぶ。 「�学園都市に|蔓延《まんえん》しているAIM拡散力場�っていうのはどういう意味!?」  二人の少女は、それぞれ科学と|魔術《ぽじゆつ》、片方ずつの知識が欠如している。  だから、お互いに導き出そうとしている答えを|だから、お互いに導き出そうとしている答えを|完壁《かんペき》には理解できていない。 「�脳波を基盤とした電気的ネットワークにおける安全装置�っていうのは?」  それでも、構わず二人の少女は突き進む。  問題を解くために。途中の解法を理解できなくとも、正答していれば構わないと。ある意味でプライドを捨て、|蚊帳《かや》の外にいる事すらも自覚して、ひたすらに状況の回復だけを願って行動を続けていく。 (ようは、街中に特殊な力が満ちていて、それを束ねるのがこの女の子で、この女の子の精神を|縛《しば》る事で特殊な力を|捻《ね》じ曲げ、『天使』を作っているだけ! それなら!!) 「この子の頭の中にある『結び目』をほどけば良いんだ!!」  科学サイドの人間なら、それは『ウィルス』と呼んでいたかもしれない。 (でも、この考えを具体的な手段にするにはどうすれば……)  インデックスに魔術は使えない。  そして、|打ち止め《ラストオーダー》を助けるのに魔術を使う必要はない。  インデックスはその『結び目』をほどくために、『言葉』を使う事にした。人間の精神をいじくるというと、さぞかし特殊に聞こえるかもしれないが、本を読んで勉強するのだって同じ事だ。人間は元々そのための『窓口』を解放しているのである。 『結び目』に適合した言葉を選び、それを聞かせる事で『ほどけば』良いのだ。  そのための具体的な方法は、 「……歌」  インデックスはそう思う。 「単純な言葉よりも伝わりやすい。一時間の説教を受けたって泣かない人も、一分間の歌で涙を流す事もある。リズムや音程を使って、多重的に感情をやり取りできるから。だから」  しかし、それを聞いた|美琴《みこと》はやや慌てた調子で反論した。 『ちょ、ちょ、|大丈夫《だいじぎぷ》な訳!? 人間の頭の上書きは反復学習が基本だし、そもそも脳の|記憶《きおく》や適応がそんなに優れているとは限らないのよ!! その上、電気的ネットワークに介入するなら、「|学習装置《テスタメント》」みたいに専用の機器を使ったデジタルな数値入力は必須でしょ? そんな声とか歌とか、原始的なアナログ方式でどうにかなる訳!?』  美琴の|台詞《せりふ》に出てくる科学的な単語の意味は理解できないし、インデックスだって確証はない。彼女は「|魔滅の声《シエオールフイア》』や『|強制詠唱《スペルインターセプト》』など、いくつか人の精神に干渉する|攻撃《こうげき》方法を覚えているが、こういう使い方は初めてなのだ。 「できるよ……」  それでも、インデックスはそう答える。 「祈りは届く。人はそれで救われる。私みたいな修道女は、そうやって教えを広めたんだから!」  迷わずに、ただ前だけを見て。 「私|達《たち》の祈りで救ってみせる。この子も、ひょうかも、学園都市も!!」      8  |木原《きはら》に|殴《なぐ》られ、|叩《たた》かれ、|潰《つぶ》され、|一方通行《アクセラレータ》の体が床を滑る。  今の彼は、戦える状態ではなかった。  そもそも脳の損傷のせいで、二本の足で立ち上がる事もできないのだ。半ば倒れ込むような動きで木原の体にまとわりつくというこれまでの戦い方も、木原の方がそれを警戒し、|距離《きより》を取って戦うようになれば封じられてしまう。 「あははぎゃははあはははッ!!」  |喉《のど》を裂くような木原の笑い声が続く。  とても頭の|皮膚《ひふ》を思い切り|剥《は》がされた人間の顔とは思えない。  |一方通行《アクセラレータ》は胸倉を|掴《つか》まれ、床から引きずり起こされ、事務机の上に背中を叩きつけられ、そこへさらに木原の|拳《こぶし》が放たれる。ミシミシと|頭蓋骨《ずがいこつ》から嫌な音が聞こえ、顔の皮膚が引きつったように切れていく。脳が揺さぶられたせいか、指先から力が抜けるのが分かった。  しかし、意識だけは切れない。  そこだけは、絶対に揺らがない。 「———、」  |一方通行《アクセラレータ》の耳には、少女の|滑《なめ》らかなメロディが聞こえていた。  言語機能を失った|一方通行《アクセラレータ》には『声が聞こえる』というだけで、『どんな言葉か』は分からない。だが、少女の詠唱には感情があった。言語の壁を越えた所にある、|打ち止め《ラストオーダー》を思いやる気持ちを、|一方通行《アクセラレータ》は確かに感じていた。  声にどんな意味があるかなど、知らない。  あるいは、単に|打ち止め《ラストオーダー》の手を取って痛みを|和《やわ》らげようとしているだけかもしれない。  だが、それは立派な救いだった。  |打ち止め《ラストオーダー》は、今までそんな事もしてもらえなかったのだから。 「おおおおおおぉぉあああああああッ!!」  木原の絶叫と共に|一際《ひときわ》重たい拳が放たれ、|一方通行《アクセラレータ》は事務机を|蹴散《けち》らして汚い床を転がった。体のあちこちが激痛を発した。起き上がるのが|億劫《おつくう》なほどに。  それでも、|一方通行《アクセラレータ》はうっすらと笑っていた。  少女の滑らかな歌は続いていた。  温かい光の中にあるような詠唱だった。おそらくは、本来、|打ち止め《ラストオーダー》がいるべき世界の人間にしか出せない声だった。|一方通行《アクセラレータ》は、ただそれを聞いていた。ろくな演算能力もない頭で。自分には絶対出せない声を。  |打ち止め《ラストオーダー》みたいなガキは、木原|数多《あまた》だの、|一方通行《アクセラレータ》だの、そういったクソ野郎どもの手を行ったり来たりするべきではない。光の世界の住人は、同じ世界の温かい人々に助けてもらうのが、[番まっとうなのだ。  しかし、  それがどうした。  |何故《なぜ》、|一方通行《アクセラレータ》がそこで引け目を感じなくてはならない。何故、その光を|眩《まぶ》しいものだと、自分のような|闇《やみ》が触れてはいけないな老と結論付けなくてはならない。  正しい事は正しい人間だけがやるべきか? 善行は善人だけがやるべきか? なるほど確かにその通り、それこそが|筋《すじ》を通すというものだろう。  だが、  そもそも、そんな風に筋を通さなければならない理由は何だ。  |一方通行《アクセラレータ》は、|打ち止め《ラストオーダー》を助けたい。  理不尽な暴力に|虐《しいた》げられ続ける彼女を、助けてやりたい。  そう思う事の、どこが悪い。  光とか闇とか、そんな立ち位置などどうでも良い。 |一方通行《アクセラレータ》が光の世界にいるから、彼女を守りたいのではない。たとえ彼女がどんな世界にいても、|一方通行《アクセラレータ》はこの手で少女を守りたい。  世界の区別など、関係ないのだ。  悪人が善人に手を差し伸べたって、問題はあるか。  闇の人間が光の世界を守ったって、文句はあるか。  今の今まで|傍若無人《ぽうじやくぷじん》に振る舞ってきた学園都市最強の悪党が、  この段階にきて、そこだけを|律儀《りちぎ》に守る必要がどこにあるというのだ。 「……、」  ガン! と、|一方通行《アクセラレータ》は、座ったまま事務机へ手を伸ばした。  そのままギリギリと音を立て、彼はゆっくりと立ち上がる。  結論は出た。  悪にしても胸を張れ。闇の世界を突き進んだとして、それでも光を救ってみせろ。進むべき道が周りと違うからといって、それを恥じるな。闇の奥にいる事を誇りに思えるような、それほどの黒となれ。  既存のルールは全て捨てろ[#「既存のルールは全て捨てろ」に傍点]。  可能と不可能をもう一度再設定しろ[#「可能と不可能をもう一度再設定しろ」に傍点]。  目の前にある条件をリスト化し[#「目の前にある条件をリスト化し」に傍点]、その壁を取り払え[#「その壁を取り払え」に傍点]。 「き、はら」  言語機能を失ったはずの口から、声がこぼれた。  ぎちぎちぎちぎちぎち、と彼の足が、ゆっくりと体を支え、 「|木《き》ィィ|原《はら》ァァあああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  その|瞬間《しゆんかん》、|一方通行《アクセラレータ》は動かせないはずの足を使って走り出した。  天敵である|木原数多《きはらあまた》の元へと一直線に。  たとえ、あらゆる現実と戦い、傷つき、多くのものを失ってでも、  たった一つの幻想を守り抜くために。      9  木原数多の笑みが、より一層深く、|獰猛《どうもう》に刻まれていく。  あの|一方通行《アクセラレータ》が、立ち上がった。  あれだけ痛めつけても、さんざんに|殴《なぐ》り飛ばしても、それでも自分の名を叫びながら、こちらへ走ってきた。  まるで、背後にある空間を守ろうとしているように。  事務机の陰に隠れている、二人の少女を助けようとしているように。 「……面白れェ」  敵が倒れない事に対し、木原はそう言った。  その顔は獰猛な喜びで満ちていた。 「そおーだよなぁ!! そんな簡単に倒れちまったらつまんねーもんなぁ! サービス精神|旺盛《おうせい》で助かるぜぇ|一方通行《アクセラレータ》! こっちも今までテメェにゃムカつきっ放しだったんだ。銃なんか使わねえよ。殺す前に|拳《こぶし》でたぁっぷりと沈めてやるぜぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」  木原の頭の中が飛んだ。  |獣《けもの》のように|吼《ほ》える。その叫びを聞いても、|一方通行《アクセラレータ》はもちろん、変な女の歌も揺らがない。極限の集中で、もはや周りの何も見えていない———あの女は瞑想状態に入っているのだろう。何もかもが|輝いている《テキだらけ》。最高の舞台だ。 (後は死体があれば|完壁《かんぺき》だが———何でテメェは生きてんだぁコラ!!)  木原は向かってくる|一方通行《アクセラレータ》をそのまま迎え|撃《う》った。  両手の拳を握り、ゴキリと関節を嶋らす。  鋼鉄のように拳を握り|締《し》めると、|一方通行《アクセラレータ》の顔の真ん中へと|容赦《ようしや》なく|叩《たた》き込む。  ズドン!! という|轟音《ごうおん》が|響《ひび》いた。  ミシミシペキペキと細かい感触が木原の腕に伝わってくる。  なのに、  |一方通行《アクセラレータ》の動きは、全く止まらない。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああッ!!」  顔を|潰《つぶ》されるのも気にせず、カウンターの拳が木原の顔面を|捉《とら》えた。木原の鼻が砕けて痛みが爆発した。全力の|一撃《いちげき》だった。説明されるまでもなく、それが分かった。 (……ご、ぽッ!!)  ギリギリと、飛んできた拳を押し返すように、|木原《きはら》は首を元に戻す。  彼は握っていた五本指をさらに固くして、 「おおぁ、|響《ひび》かねえぞ小僧ォああああッ!!」  拳を|一方通行《アクセラレータ》の細い顔面へ|叩《たた》きつけた。彼の体がグルンと回転し、そのまま床へ倒れ込む。何やら床でモゾモゾと|蠢《うごめ》いていたが、木原はそこへ全体重を乗せた足を突き込んだ。  太い|杭《くい》を、|金槌《かなづち》で打ち込むように。  ゴン!! という|轟音《ごうおん》が|炸裂《さくれつ》する。木原は意味不明の絶叫を|繰《く》り返しながら、|一方通行《アクセラレータ》のあちこちを次々と|踏《ふ》み|潰《つぶ》す。何かが砕ける音が聞こえ、赤い液体が飛び散った。 「よぉーし調子が出てきた! |俺《おれ》ぁエンジンようやく温まってきたけどテメェはどうだよ!? すげーなぁお前、もしかしたら本気であのガキ助けられんじゃねえの?」  楽しげな言葉に、|一方通行《アクセラレータ》は一切応じない。  床の上で潰されながらも、その眼光だけは決して衰えない。  助けるために。少女の命を守るために。  彼の心は砕けない。 「はぁーっ!!ぜぇーっ!!」  踏み潰している木原の方が、息切れするほどの執念だった。  ははは、と彼は笑って周囲を見回す。  あちこちの床には、|一方通行《アクセラレータ》に倒された無能な『|猟犬部隊《ハウンドドツグ》』の部下|達《たち》が転がっている。そして、彼らの持っていた銃器なども同様だ。色々と面倒臭くなってきた木原は、そちらに近づいて、床に|屈《かが》み込んだ。 「……ちょっと面白くしてやるからさぁ、もっとやる気出してくれよ」  その中から一つを選んで拾い上げ、彼は|薄《うす》く笑った。マラソンを終えた後のランナーのような表情だった。  木原|数多《あまた》は、手の中にあった物を、今も倒れている|一方通行《アクセラレータ》へ軽く放り投げた。  ピンを抜いた、対人殺傷用の|手榴弾《しゆりゆうだん》を。  ただでさえ脳の機能の一部を失われ、木原に打ちのめされて床に転がっている|一方通行《アクセラレータ》に、その手榴弾を|避《さ》けたり|弾《はじ》き飛ばしたりするだけの余裕はなかった。  ゴッ、という小さな音と共に、手榴弾は|一方通行《アクセラレータ》の額にぶつかって、わずかに跳ねた。  小さな塊が、ふわりと浮くだけの時間もなかった。  バガッ!! という爆発音と共に、手榴弾が炸裂した。|衝撃波《しようげきは》と共に大量の破片が|撒《ま》き散らされ、灰色の煙が吹き荒れた。|近距離《きんきより》で爆発したため、|木原《きはら》の|頬《ほお》にも破片の一つが|掠《かす》めた。それだけでも彫刻刀で切りつけたように、ざっくりと肌が切れる。しかし木原は笑っていた。|爽快感《そうかいかん》しかなかった。  |沈黙《ちんもく》が訪れる。  |瞑想《めいモう》状態に入ったままのシスターだけが、細く長く詠唱を|響《ひび》かせている。 「ひゃ」  勝った。 「ぎゃははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!」  木原は腹の底から|吼《ほ》えた。  死んだ。あれは死んだ。何しろ頭から数センチの位置で爆発したのだ。何をどうやったって生身の人間に耐えられるはずがない。今は煙のような|粉塵《ふんじん》に|覆《おお》われているが、それが晴れた後にはグチャグチャに引き裂かれた、元の体格が分からなくなっているぐらい |破壊《はかい》された死体が、木原の前にさらけ出されるはずだ。  |手榴弾《しゆりゆうだん》の生んだ灰色の粉塵が、密度を|薄《うす》めつつ周囲へ広まった。まるで大波のように、木原の前から後ろへ流れ、彼の視界を覆っていく。  この煙が晴れた時、|一方通行《アクセラレータ》の死体が現れる。  その無様な終わりを見て、木原|数多《あまた》の戦いは終了する。 (アレイスターは、量産品のガキは殺すなっつったが、それ以外なら何やってもイイんだよなぁ。ならあの変な歌を続けてるシスターともども、とりあえず|手土産《てみやげ》にコイツの死体でも押しつけて、自我をぶっ|壊《こわ》してやるか) 「はは、」  そんな風に思っていた、木原の顔を、  ガシィッ!! と。  何者かの手が、正面から|鷲欄《わしづか》みにした。 「……ッ!!」  木原数多の目の前に、|誰《だれ》かが立っている。  粉塵の中では、それが誰かはハッキリと見えない。 (が、ぁ———ッ!?)  普通に考えれば、|一方通行《アクセラレータ》である可能性が一番高い。しかし、木原には納得できなかった。能力さえ使えなければ、|一方通行《アクセラレータ》はその辺の高校生よりも体は弱い。何のトリックもなく、手榴弾の爆風を|凌《しの》ぎ切れるはずがない。  彼の『反射』が何らかの理由で復活したとも考えにくい。彼を掴む腕には、|煤《すす》がついていた。『反射』が機能しているのなら、小さな汚れすらも|弾《はじ》き返すはずだ。 「どうしてだよ……」  しかし、そこにいたのは確かに|一方通行《アクセラレータ》だ。  白い髪、赤い|瞳《ひとみ》、整った顔立ち、張りのある肌、細いライン、首元のチョーカー、灰色を基調にした衣服、筋肉の少なめな手足、ギラギラと光る黒い靴、  それら全てを無視して[#「それら全てを無視して」に傍点]、木原数多は絶叫する[#「木原数多は絶叫する」に傍点]。 「どうなってんだよ、その背中から生えてる真っ黒な|翼《つばさ》はァあああ!?」  翼というよりも、噴射に近かった。  墨よりも黒く、光をも|呑《の》み込む、正体不明の噴射の羽。  彼は『天使』というものを|目撃《もくげき》している。その出現の片棒を|担《かつ》いだ事も理解している。にも|拘《かかわ》らず、目の前で展開された現象を、正しく認識する事ができなかった。 (こ、この野郎……)  |一方通行《アクセラレータ》の力は、『種類を問わず、あらゆるベクトルを制御下に置く』事にある。彼の言語機能や歩行機能、そして『新たな力』の補給も、それら|全《すべ》てはこの空間内に存在する、何らかの力を利用しているのだろう。  科学的に考えて、今の|一方通行《アクセラレータ》には物理法則の演算ができないため、それらの力を制御するのは不可能だ。  しかし、それ以外の法則ならば。  そもそも、非科学的な理論を|捉《とら》えるのに、既存の演算能力など関係があるのか。  オカルト。  |木原《きはら》クラスの研究者でなければ逆に分からない、数千数万と科学実験を重ねた中で、ほんのわずかに顔を|覗《のぞ》かせる、イレギュラーな法則のようなもの[#「ようなもの」に傍点]。 (新たな|制御領域の拡大《クリアランス》の取得だと。こいつ、『|自分だけの現実《パーソナルリアリテイ》』に何の数値を入力した……。一体どことの通信手段を確立しやがったんだ!?」  思い当たる節と言えば。  この学園都市に満ちている力の代表格と言えば。 (AIM[#「AIM」に傍点]……おい[#「おい」に傍点]。まさか[#「まさか」に傍点]……天使だの何だの[#「天使だの何だの」に傍点]、あの力の正体は[#「あの力の正体は」に傍点]!?)  しかし、相手はそんな事など気にも留めない。  メキィ!! と、|一方通行《アクセラレータ》はさらに腕に力を込め、木原の|頭蓋骨《ずがいこつ》を圧迫すると、 「———、」  彼は笑う。静かに笑う。 「は、はは」  |木原数多《きはらあまた》も手足をダラリと下げて、思わず笑い返していた。  質問する。 「うっ、後ろ……気づいてんのかよ、化け物」 「ihbf殺wq[#「ihbf殺wq」に傍点]」  ドォッ!! と、黒色の|翼《つばさ》が爆発的に噴射する。  |掌《てのひら》から噴き出した、説明不能の不可視の力が木原数多へ|襲《おそ》いかかった。  彼の体が|一方通行《アクセラレータ》の手を|離《はな》れ、恐るべき速度で廃棄オフィスを突っ切り、砕けた窓の外へと放り出され、そのまま音速の数十倍の速度で夜空を|掻《か》っ切った。あまりの速度に、プラズマ化したオレンジ色の残像が尾を引いていく。  生死など、わざわざ確認するまでもない。      10  土砂降りの雨の中、甥鷲脚道路に座り込んでいた。元々全身はびしょ|濡《ぬ》れなので、もう雨水だらけの路面など気にならない。ようやく体を休ませる事ができて、ホッと息を|吐《つ》いた。  天使の羽は|沈黙《ちんもく》していた。  先ほどまで散々|撃《う》ち続けていた|膨大《ぽうだい》な火花が、すっかりなりを|潜《ひそ》めている。 (……インデックスの方は……)  向こうも順調なのだろう。まだ|風斬《かざきり》の羽や天使の輪が完全に消える事はないが、そちらの輪郭も徐々に揺らぎつつある。 (本当にヤバかったら、それどころじゃないだろうしな。|打ち止め《ラストオーダー》……あの電話の野郎、ちゃんと助けてると良いんだけど)  電話、で思い出した。  上条はポケットから|打ち止め《ラストオーダー》の携帯電話を取り出す。学園都市はこんな状態だが、一応救急車を呼んだ方が良いだろう。他人の電話を使うのは気が引けるが、今はそんな場合ではない。  案の定、電話に応対した人間はいつも通りの対処はできないかもしれないと言ってきた。それでも、何もしないよりかははるかにマシだ。  携帯電話をポケットに戻し、上条は周囲を見回した。風斬の出現と同時に辺り一面は|瓦礫《がれき》と化した訳だが……それと共に、彼女の力によって、そこにいた住人|達《たち》はかろうじて助かった|螺《ヨ》 しい。今も|暗闇《くらやみ》のあちこちに、光る|鱗粉《りんぷん》のようなものが漂っているのが見える。  救助した方が良いのだろうか、と思う反面、上条の|幻想殺し《イマジンブレイカー》であの鱗粉の効果が失われるかもしれない。ひとまずそちらは放っておくしかなさそうだった。 「にしても……」  |上条《かみじよう》はその辺に転がっているヴェントを見た。  どう考えても意識はない。 『|天罰《てんばつ》術式』を受けて、学園都市で倒れている人々を起こす方法でも尋ねてみたかったが、何度|頬《ほお》を|叩《たた》いても、目を覚ます気配はなかった。  これからヴェントはどうなるんだろう、と上条は思う。学園都市の都市機能をほぼ完全に停止へ追い込んだ存在を、学園都市が野放しにするとは思えない。科学と|魔術《ぽじゆつ》のパワーバランスうんぬんの話も通じないだろう。そもそも、先にそれを破ったのは魔術サイドなのだ。  一線を越えてしまったかもしれない。  学園都市としては、たとえ彼女を殺してでも危険な技術をこの世から消そうとする。一方、『神の右席』やローマ正教は、それほど高威力の術式を、そうそう簡単に手放そうとはしないはずだ。これまで何度かあった『科学と魔術の話し合い』とやらで何とかなるとは思えなかった。最悪、これが|全《すべ》ての|崩壊《ほうかい》の引き金となる危険性すら考えられる。  (クソツ……)  確かにヴェントのやった事は歴史的に見ても|大事《おおごと》だろう。しかし彼女の事情を知る上条としては、ここで安易に処刑したり戦争の道具にしたりというやり方に賛同できない。|償《つぐな》うにしても、その方法は最悪だ。 (科学と魔術の両方全部を敵に回して、この狭い地球を永遠に逃げ続けるなんてできねぇよな。でも、何とかしねえと。せめて事態を収めるまで、一時的にでも隠れてもらわないと。|土御門《つちみかど》のヤツに相談するのが妥当かも。それでも上手くいくかどうか……)  単純にイギリス清教に預かってもらうという選択肢はない。それをやるにはヴェントの存在は重すぎる。何より、一介の高校生が世界レベルの問題を『収める』なんて、できるとは思えない。それでも、何かしなければ気が済まなかった。このままヴェントを捨てておくのは、あまりにも後味が悪すぎる。 「とりあえずは、目を覚ますのを待つか。派手に|殴《なぐ》っちまったし……」  |風斬《かざきり》の方……と上条はヴェントから視線を移したが、相変わらず反応はなかった。彼女の様子に変化はない。何だか|虚《うつ》ろな目で、背中に巨大な|翼《つばさ》をいっぱい生やしている。翼の輪郭は時間が|経《た》つにつれて少しずつ|曖昧《あいまい》になっていく。比較的短い翼は、ほとんど形状を失いつつある。おそらく、インデックスが何らかの干渉を行っているからだろう。  しかし、|完壁《かんぺき》に翼が消えるには、まだ時間がかかりそうだ。  上条は自分の右手を見た。そこに宿る力を使えば、あんな翼の一〇本二〇本は触れただけで打ち消せる……かもしれない。だが、それと|一緒《いつしよ》に風斬本体まで巻き込まれてしまっては元も子もない。こういった時に役に立たない自分の力が少し恨めしかった。 (それにしても……)  ヴェントが風斬を憎んでいた以上、やはりあれは学園都市が起こした現象なのだろう。上層部、という事だったが、彼らの|狙《ねら》いは何なのだろう。ヴェントが突発的にやってきた以上、単にその防衛・|迎撃《げいげき》のために|風斬《かざきり》が生み出されたとは思えない。何か|他《ほか》に目的があるのだ。  問題は山積みだ、と|上条《かみじよう》は|呟《つぶや》く。  その時、  ゴン!! と。  突然目の前のコンクリートの山が砕け、上条の視界が灰色の|粉塵《ふんじん》で|覆《おお》われた。 「!?」  上条は目を|庇《かば》うように手を当てて、思わず後ろへ下がった。  バランスを失った|瓦礫《がれき》に、|残骸《ざんがい》の山の一つが丸ごと吹き飛ばされていた。  空気中の粉塵は、土砂降りの雨に流される。  爆心地に突き立っていたのは、風力発電のプロペラだった。無造作に引き抜いて投げつけてきたのか、瓦礫を吹き飛ばしたクレーターのど真ん中に、柱の半分ほどが埋まっていた。電柱のように巨大な柱が、だ。  一体どんな腕力があればこんな事ができるのか、上条は|愕然《がくぜん》としていたが、 (!! ……ヴェントは!?)  慌てて周囲を見回す。  先ほどまで、すぐ近くで気を失って倒れていたはずのヴェントがどこにもいない。  しかし代わりに、上条は別のものを発見した。  少し|離《はな》れた所に、一人の男が立っている。 「|誰《だれ》だ!!」  上条がいきなり攻撃的に叫んだのは、男がぐったりしたヴェントを片手で抱えていたからだ。  青系の|長袖《ながそで》シャツの上に、さらに白い半袖シャツを着重ねている。ズボンは通気性の良さそうな、|薄手《うすで》のスラックスだった。スポーティな格好ではあるが、元気さはない。壮年の男性が好むゴルフウェアを連想させた。シックな黒い傘と合わせて、上条のような高校生には出せない静かで揺るぎない気配で満たされている。  が、これだけの惨状を|目《ま》の当たりにして、少しの|緊張感《きんちようかん》もない方が逆に恐ろしかった。白い肌も茶系の髪も、|全《すぺ》てが鋭い刃に見える。 「失礼」  男は言った。|流暢《りゆうちよう》な日本語だった。 「この子に用があったものでな。手荒な|真似《まね》を|避《さ》けるために目を|呟《くら》ませてもらったが、気に|障《さわ》ったかね」 「|誰《だれ》だっつってんだよ」 「後方のアックア。ヴェントと同じく、『神の右席』の一人である」  あっさりと出てきた名前に、|上条《かみじよう》はより一層の警戒を抱いた。『神の右席』という組織内の上下関係は全く分からないが、単純にヴェントと同等の力を持っていると仮定すると、これはかなりまずい。|疲弊《ひへい》しきった今の学園都市にさらに第二波が|襲《おそ》いかかれば、もうこの街は立ち直れない。  と、ガチガチに体を|強張《こわば》らせている上条に、アックアは小さく笑った。屈強そうに見えるこの男には、あまり似合わない表情だ。 「心配しなくても良い。兵の|無駄死《むだじ》には|避《さ》けるべきだ。今日の所はこれで引き返す。|流石《さすが》に貴様の後ろに控えている『堕天使』と戦うのは|無謀《むぽう》だろう。少なくとも、準備を整えるまではな」  逆に言えば、準備さえできればいつでも戦える、とアックアは言っている。  上条の目がより一層厳しくなるが、それを受けても彼は|堪《こた》えない。 「今までヴェントを苦しめていた、|魔術《ほじゆつ》を|潰《つぶ》す効果はすでに失われているようだが、こちらにも事情がある」  彼は息を|吐《つ》きながら、|離《はな》れた所に|佇《たたず》む|風斬氷華《かざほりひようか》へ視線を投げた。  天使と言えば、あの|神裂火織《かんざきかおり》ですら互角に持ち込むのが精一杯だった存在だ。『神の右席』という訳の分からない集団でも、それは駆け引きの材料になるらしい。  ともあれ、|黙《だま》って帰ってくれるなら一向に構わない。  ただし、 「ヴェントを離せ」  上条は、アックアに対してその一言を突きつけた。 「……学園都市の負傷者を助ける方法でも聞き出す気かね」 「それもある」  彼は答えた。それ以外もある、という意味で。 「そいつの科学への敵対心はただの勘違いだ。そいつだって本当はその事に気づいてる。『神の右席』なんて場所にいたら、いつまで|経《た》ってもその感情から抜けられない!」 「ヴェントの|闇《やみ》が、そう簡単に打ち消せるものか」  アックアはつまらなそうに答えた。 「我々『神の右席』は、単なる不幸な小娘に、同情心で手を差し伸べる事はしない。我々は世界を動かすために存在する。そしてヴェントは、その力を使ってでも個人の事情を貫こうと決意していた。今まで、彼女がどれだけのものを支払ってきたか、知っているか。その力がどれほどのものか、貴様に想像がつくのか」  言われてみれば、ヴェントの行動理由には、組織としての成果などは含まれていなかった。逆に考えれば、組織にいるためには、そのメリットを自分で作り続けなくてはならない。  |上条《かみじよう》は、少しだけその事を考えた。  考えた所で、そんな簡単に彼女の気持ちが理解できる訳がない。 「……だったら、何だよ」 「なに?」 「言葉を聞いてもらえないからって、そこで何も言わねえんじゃ、どうにもならねぇんだよ」  上条とアックアは正面から視線をぶつける。  もっとも、上条とは違って、アックアの方には随分と余裕があった。  ふん、とアックアは息を|吐《つ》いた。 「ここでヴェントを|離《はな》したとして、科学サイドに|捕縛《ほばく》されれば間違いなく処刑だな」 「ッ!!」  アックアの言葉に、上条は身を固くした。  そんな彼の様子に、アックアは笑みを深くする。まるで七夕の短冊に記された願い事を読んでいる大人のような目だ。 「これをくれてやる」  ピッ、とアックアは指先の動きだけで、上条に向けて何かを|弾《はじ》いた。  受け取ると、それはヴェントの舌についていた|鎖《くさり》と十字架のアクセサリだった。 「どの道、貴様の右手で|破壊《はかい》されているから必要ない。ただのガラクタだ。それが|壊《こわ》れたから、ヴェントはもう『|天罰《てんばつ》』を使えん。制圧された人間もすぐに回復するだろう。今はそれで学園都市の|平穏《へいおん》を守れたという事で安心しておけ」 「待てよ!! そんなので納得できるか!!」  上条は|拳《こぶし》を握るが、アックアは一向に取り合わない。 「一つだけ、貴様に教えてやる」  彼は堂々と背中を向け、それから言った。 「私は聖人だ。|無闇《むやみ》に|喧嘩《けんか》を売ると寿命を縮めるぞ」  ダン!! という地面を|蹴《け》る|凄《すさ》まじい音が聞こえた。  上条が|瞬《まばた》きした時には、もうアックアとヴェントはどこにもいなかった。前後左右のどちらへ走ったかも分からない。あるいは上に飛んだのかもしれない。ともかく、上条に分かるのは|桁違《けたちが》いの速さだという事だけだ。  戦いが終わっても問題は解決しない。  それどころか、もっと大きな戦いを招いているだけの気がする。 (……止めるんだ)  ローマ正教。  学園都市。 (ちくしょう。この流れを、必ず止めるんだ……)  土砂降りの雨の中、|上条《かみじよう》は夜空を見上げて口の中で|呟《つぶや》いた。  黒い雲が晴れる気配は、ない。 [#改ページ]    終 章 正と負の進むべき道へ The_branch_Road.  アックアはヴェントを|脇《わき》に抱えて学園都市の外へ出た。  ヴェントの|霊装《れいそう》が|破壊《はかい》された事によって、街の住人は順次目を覚ましていくだろう。あの術式は後遣症もなく、ただ敵対者を無力化していくという、ある意味において理想的な大規模制圧術式だった訳だが、それもここでなくなった。  これからは、そういう甘い事も言っていられなくなる。  今度ぶつかる時は、確実に大量の血が流れるだろう。 「嫌な世の中だ」  本当に|鬱屈《うつくつ》そうな声を出して、アックアは気を失っている|同僚《どうりよう》を抱え直す。  今度は携帯電話が鳴った。  傘とヴェントにそれぞれ手を|塞《ふさ》がれているアックアは、面倒臭そうに両手を見て、それから傘を横へ放り捨てた。|水属性《アツクア》の名を冠するくせに、土砂降りの雨に打たれた途端に彼は顔を|曇《くも》らせる。  携帯電話の画面には、見慣れた番号が表示されていた。 「テッラか」 『ええそうですよ。左方のテッラです。そちらは終わりましたか、アックア』  金属を|擦《こす》るような、耳に|障《さわ》る声だった。  アックアは片手で抱えているヴェントへ視線を投げかけ、 「ヴェントがやられた。今、回収して学園都市外周部の別働部隊を下げさせた所である。我々の被害が七割を超えたため、|上条当麻《かみじようとうま》への|追撃《ついげき》、及び学園都市の攻略は一時中断とする。事前に貴様から提示された状況対処方法一覧にある通りだ。……不完全とはいえ、『天使』が出てきてここまでやられるとは|流石《さすが》に予測もつかなかったがな」 『ご苦労様です』 「|叱責《しつせき》はなしか」 『あなたや……まして、あのヴェントに対して悪意を向けてどうするのです。もっとも、やられたというのなら、霊装の方も|潰《つぶ》された可能性が高そうですがねー』 「未練もなさそうだな」 『元々、ヴェントの性質「|神の火《ウリエル》」があっての「|天罰《てんばつ》」ですからねー。ぶっちゃけ、霊装単品に未練はありませんよ。そもそも我々は一般的な|魔術師《まじゆつし》からはかけ|離《はな》れた存在ですからねー、|各々《おのおの》に調整されたもの以外は一切使えません。「|神の薬《ラフアエル》」の私が持っても意味のない道具に、一体何の価値があるのです? 「|神の力《ガブリエル》」たるあなたも分かっていますよねー』  アックアは思わず息を|吐《つ》いた。 『神の右席』というのは、どいつもこいつも自分本位の連中ばかりだ。 「ヴェントはこちらで回収したが、連絡の取れない|他《ほか》の『別働部隊』の方はどうなった?」 『例の「堕天使」の|一撃《いちげき》で|壊滅《かいめつ》しましたねー』 「我らとまでは言わずとも、ヤツらにも力はあったはずだ、人数も相当のものだ。本当に———」 『まとめて|潰《つぶ》されました』  さらりと答えは返ってきた。 『学園都市側から局地迎撃展開していた者|達《たち》は、科学サイドに回収されたようですけどねー』  アックアはわずかに|黙《だま》った。 「では、我らの|手駒《てごま》は死んだのか」 『物理的な面はもちろん、精神的な傷が|半端《はんぱ》ではありません。かろうじて生きていますが、あれを|繋《つな》ぎ合わせるなら新しい人材を補充した方が簡単ですねー』  その辺りは、二〇億の信徒を抱えるローマ正教独特の考え方か。  アックアは|脇《わき》のヴェントを抱え直し、それから言った。 「ならば、|残骸《ざんがい》は私が拾っておこう」 『あなたが? 「神の右席」が、死体回収の雑務を負うと?』 「今も|敗北者《ヴェント》を運んでいる。ものはついでだ。残骸の数が多少増えても許容できる。それに生き残る見込みがあれば、それに越した事はない」 『お優しい事です』 「生きていようが死んでいようが回収はするのだ。自分の足で歩ける者には歩かせた方が手間は省けるというだけである」  ふん、とアックアはつまらなそうに息を|吐《つ》いた。  雨に打たれながら、彼は続けてこう言った。 「次はどう出る? 何なら私が今から引き返して標的の首を切り落としてきても構わんが」 『やめておきましょう。アックアも見たんですよねー? |巷《ちまた》では面白い情報が飛び交っていますよ。そちらの詳しい話を聞いた上で、あの学園都市をどう落とすかを考え直した方がよさそうです』 「……学園都市を落とす、か」 『気に入りませんか?』 「貴様の意見に合わせて|退《ひ》いたが、やはり私一人でも学園都市に戻って、今すぐ|上条当麻《かみじようとうま》とアレイスターを|斬《き》り捨てた方が早い気がする。小細工は苦手だ。倒すべき敵は、真正面から倒した方が楽に決まっている。今なら民間人の|犠牲《ぎせい》も最小限で済むだろう」 『いやいや。どうなんでしょうねー。確かに潰すだけなら簡単ですけどねー、どうにも利用価値があるとは思えませんか。例えば、あの「堕天使」とか。実に我々「神の右席」向けの素材じゃないですか?』 「……、」 『倒すべき敵と、残しておきたいものの仕分けをしておきたいのですよ。今やってしまうのは、博物館で|戦闘《せんとう》を始めるようなモンですか』 「戦場での略奪行為には賛同しかねるぞ」 『ははぁ。元|騎士《きし》らしい発想ですねー。貴族様の口はお上品だ。出てくる言葉が違います』 「騎士ではない。私は|傭兵《ようへい》崩れのごろつきである」 『戦場でのモラルを重視するごろつきねー。ま、ともあれヴェントを連れてさっさと引き返してくださいねー。こいつは「右方のフィアンマ」からの指示でもあります』 「了解した」  アックアは携帯電話を切って、それから学園都市の方を一度だけ振り返った。  ———|潰《つぶ》すだけなら簡単。  ———倒すべき敵と、残しておきたいものの仕分けをしておきたい。  それらテッラの言葉を|反芻《はんすう》してから、今度は別の人間の|台詞《せりふ》を思い出していた。 『ヴェントを|離《はな》せ』  つい先ほど出会った少年のものだ。 『そいつの科学への敵対心はただの勘違いだ。そいつだって本当はその事に気づいてる。「神の右席」なんて場所にいたら、いつまで|経《た》ってもその感情から抜けられない!』  そして、今後間違いなく|刃《やいば》を向ける敵のものだ。 「果たして……」  アックアは放り捨てた傘を拾い上げ、口の中で|呟《つぶや》いた。  敵の事情にさえ胸を痛めた、あの標的の顔を思い出しながら。 「……学園都市は、貴様が思っているほど貧弱な存在なのかね。左方のテッラ」 「!!」  |上条当麻《かみじようとうま》は大天使の方を見た。  インデックスの処置が終わったのか、|風斬《かざきり》の背中に接続されていた何十本もの|翼《つばさ》が、一つ一つ空気に消えていく。一〇メートル級でも、一〇〇メートル級でも、消える速度に変化はない。カウントダウンのように均等な間隔を空けて翼が失われていき———最後の一本も消えた。 「やった……。インデックスのヤツ、ちゃんとやりやがった!!」  とん、と。  風斬|氷華《ひようか》は力なく|膝《ひざ》から地面へ崩れ、そのまま横に倒れた。ゆっくりとした彼女の動きを追うように、長い髪が尾を引いていく。 「|風斬《かざきり》ッ!!」  |上条《かみじよう》は思わず叫んで駆け寄ったが、右手の|幻想殺し《イマジンブレイカー》を考えると抱き抱えるのは危険だ。そんなもどかしさに|囚《とら》われている彼をよそに、風斬は|濡《ぬ》れた地面に手をついて、のろのろと上半身を起こした。 「良かった……無事だったか……」  力を貸せないせいも手伝って、上条は余計にホッとした。立ち上がれないような状態だったらどうしようと思っていたのだ。 「どっか痛む所とかないか? お前も大変だったな。インデックスがやったんだから、多分|大丈夫《だいじようぶ》だと思うけど、一応確認してみろ。あいつも心配してたし、問題ないなら早くやるべき事を終わらせて、みんなの状態を確認して、それからインデックスに顔見せに行こうぜ」  ようやく一息ついた上条に、風斬は不思議そうな顔をした。  それから、彼女は言う。 「だめ、ですよ」 「あ?」 「良かったなんて、思えないです……」  ガタガタと|震《ふる》えながら、風斬の唇が動く。  その視線は、上条に向いていなかった。、そして、上条はその先を知った。風斬|氷華《ひようか》は、メチャクチャに|破壊《はかい》された街並みを、ただ|呆然《ぼうぜん》と眺めていた。自分の身が暴走した事も、『天使』という、|誰《だれ》にも説明のできない事柄に巻き込まれた事も、|全《すべ》て|脇《わき》に置いて。 「……何で、こんな事になっているんですか……」  おそらく、風斬がずっと|憧《あこが》れていた街並み。  それらが片っ端から粉々になったのだ。彼女の目の前で。 「全部、私のせいなのに。私がここにいなければ、少なくとも周りに被害は出なかったのに。どうして、私一人だけが無傷なんですか。おかしいでしょう、こんなのって」 「……、」 「結局、私って何なんですか!? みんなと|一緒《いつしよ》にはいられない、少しでも近づけばこんな風に|壊《こわ》してしまう! なら、何で私は生まれたんですか!! AIM拡散力場に支えられているだけのくせに! 能力者の人|達《たち》の力でやっと存在している化け物なのに!!」  おそらく、彼女自身、自分が何を言っているのか、何を言おうとしているのか、心の整理がっいていないのだろう。  それぐらい、風斬氷華は目の前で起きた惨状に心を痛めている。  痛めてくれている。 「せっかくあの子に『友達』って言ってもらって、それで少しは人間らしくなれたと思ったのに。あんな羽が生えて、凶暴な火花を散らして、みんな|叩《たた》き|壊《こわ》して! これじゃ本当にただの化け物じゃないですか!! もう嫌なんです。私を|殴《なぐ》って全部終わりにしてください!!」  AIM拡散力場の集合体である彼女が、|上条《かみじよう》の右手に触れればどうなるか、それぐらい|風斬《かざきり》なら分かっているだろう。分かっている上で、そう言っているのだろう。  何が化け物だ、と上条は思った。  こんなにガチガチに|震《ふる》えて、それでも|命乞《いのちご》いの一つもしないで、みんなの心配をしている少女の、一体どこが化け物だ。|拳《こぶし》を握って殴り合う事しかできない上条よりも、よっぽど『人間』らしいじゃないか。  そう考えたら、上条はつい口元を|緩《ゆる》めてしまった。 「……な、何で、そこで、そんな顔を浮かべるんですか?」 「安心したからだ」  ポツリと、彼は|呟《つぶや》いた。 「お前の申し出は受けられない。|俺《おれ》は、自分の体にどうしてこんな力が宿ってんのかは知らない。だけど、少なくとも、そんな事をするためのものじゃねぇ。自分の『友達』を消しちまうぐらいなら、役立たずの右手なんて、ここでぶち切った方がまだマシだ」  その言葉に、風斬の目が見開かれた。  友達と、そう言われた事に。 「どう、して」 「こっちこそ、分かんねえな。あの光の|鱗粉《りんぷん》みたいなのは、お前が作ったんだろ。お前は、みんなを守ってくれたじゃないか。自分の身に何が起きてるかも分からなくて、これからどうなっちまうのかも読めなくて、そんな中でもみんなを守るために努力したんだろ。それは、お前の思い浮かべてる『人間』とは違うのか。お前の中の『人間』は、それでもまだ足りないのか」  風斬は、もう何も言えなかった。  雨の中で、上条の言葉だけが続いた。 「お前はきっと、俺みたいに|駄目《だめ》な高校生なんかよりも、ずっと立派な『人間』なんだ。お前はそれを誇って良い。胸を張れよ。前を見ろ、顔も知らない人|達《たち》のために戦い続けて、ちゃんとみんなを守り抜いたお前に、|俯《うつむ》いて下を見る理由なんか一つもねえんだ」  それでも、風斬|氷華《ひようか》は顔を上げなかった。  ぐすっ、と。鼻をすする音が聞こえた。  上条は小さく笑って、視線を風斬から遠くへと移した。問題が解決したのなら、さっさとインデックスと合流したいが、携帯電話は彼女に預けたままだったので連絡の取りようがない。さっきは|打ち止め《ラストオーダー》の携帯電話を使ってしまったが、レスキューと私信では話が違う。 「さて、と。多分お前の鱗粉のおかげで|大丈夫《だいじようぶ》だと思うけど、一応手当てが必要な人がいないか確かめてみよう。聞いた話じゃ街の機能はすぐに復活するって言うし、そしたらレスキューも動くだろうからそんなに心配いらないだろうけどな」  |上条《かみじよう》は楽観的に告げた。 「終わったら帰ろう。インデックスもその内、|寮《りよう》に戻ってくるだろ。お前もいつ消えちまうか分からないし、それまでにインデックスと合流しとかないと、あいつは本当に怒りそうだからな。……っと、お前は|俺《おれ》の部屋に来るの初めてだっけか。ま、汚ねえ所だけど|我慢《がまん》してくれよ」 「うう、あ……?」  |風斬《かざきり》は何かを尋ねたが、それは|鳴咽《おえつ》としゃっくりに|阻《はば》まれ、上手く出てこなかった。  だが、上条は笑ってこう答えた。 「何で、とか言ってんじゃねえよ。友達だからに決まってんだろ」  |一方通行《アクセラレータ》は廃棄オフィスの事務机に寄りかかっていた。 「だっ、|大丈夫《だいじようぶ》なの!?」  歌のための|瞑想《めいそう》状態を解除し、パタパタと走ってきたのはインデックスだ。もっとも、今の|一方通行《アクセラレータ》には他人の言葉が理解できない。何となく、表情や声の大きさなどで『心配されているらしい』事が|掴《つか》めるぐらいだ。  インデックスは傷の具合を確かめつつ、|一方通行《アクセラレータ》の背中をじろじろ眺めて、その白い手でペタペタと触っていく。 「??? ……何にもない……?」  確かに|悪魔《あくま》のような|翼《つばさ》が生えていたはずなのだが、|痕跡《こんせき》らしいものは残っていなかった。衣服が破れている様子もない。 「(……力場は『|天使の力《テレズマ》』に|酷似《こくじ》していたけど、実質的には全然違った。そもそも、悪魔学の実用は普通の『|天使の力《テレズマ》』とは扱いが違うものだし……あんな大量の力、聖人だってまとめきれるかどうか……)」  口の中でブツブツ言っていたインデックスだが、 『こら! 結局何がどうなったのよ!? 歌の時からこっちが何言っても全く反応しないし! あのでっかい羽もなくなったみたいだけど、本当にもう大丈夫な訳!? 黒ずくめどもは全部片付けたから、なんか手伝う事あればそっちに行くけど!?」  携帯電話からの声を聞くと、ハッとしたように顔を上げた。インデックスはとにかく|一方通行《アクセラレータ》や|打ち止め《ラストオーダー》の体の具合が悪い事を優先するようにしたらしい。 「まっ、待っててね。今お医者さんを呼んでくるから!! あの子はもう大丈夫だから、あなたも倒れちゃ|駄目《だめ》だよ!!」 『ち、ちょっと聞いてんのアンタ!?』  インデックスは廃棄オフィスから飛び出して行った。|一方通行《アクセラレータ》はそれをぼんやりと眺めながら、 (……ああう、ぐ……)  言葉はサッパリ理解できなかったが、今はそちらよりも気になる事がある。  |一方通行《アクセラレータ》は首を動かした。  汚れた事務机の下に、|打ち止め《ラストオーダー》の小さな体がぐったりと横たわっていた。本当に助かっているのかどうかも分からない状態だ。一応、窓の外に広がっていた天使|騒動《そうどう》は収まっているのだが、計算のできない彼は『天使の消失』と『|打ち止め《ラストオーダー》の状況の変化』を結び付けられない。  彼女は|大丈夫《だいじようぶ》なのか。ウィルスなどはどうなった。医者に連絡は。普通ならあれこれ考えるべき事はあるはずなのに、電極のバッテリーが切れた事で、少しも意見がまとまらない。体の方も、先ほどの戦いでボロボロになり、もうまともに動かせなかった。  そこへ、新しい足音が聞こえてきた。  インデックスのものではない。足音は複数ある。 『|一方通行《アクセラレータ》。お話がありますが、よろしいですか』  飛んできた声は、こんな状態の|一方通行《アクセラレータ》でも理解ができた。  声は、耳を介して届いているものではない。どうも脳に直接干渉する、何らかの能力でも使っているらしい。  |一方通行《アクセラレータ》が目を向けると、廃棄オフィスに数人の人間が入ってきた所だった。シルエットは一般的な男性よりも二回り以上|膨《ふく》らんでいる。表面は非金属の素材を利用しているようで、頭の先から足の裏まで全部|覆《おお》われていた。各関節に曲げるための|亀裂《きれつ》が走っている。頭と首と肩のラインが|滑《なめ》らかに|繋《つな》がり、一体化していた。背中にある|薄《うす》っぺらいリュックのような物は、バッテリーだろう。手足が動くたびに、小さなモーター音が|響《ひび》いてくる。  |駆動鎧《パワードスーツ》だ。  ずんぐりした装甲を揺らす彼らは、ドーム状の頭部を回転させ、無数のカメラで|一方通行《アクセラレータ》を観察している。オートフォーカスのせいか、キュイキュイという音が耳についた。  と、そこまで『考え』た|一方通行《アクセラレータ》は、ふと|眉《まゆ》をひそめた。 (……計算、能力が……?)  ある程度、戻っている。能力使用には程遠いが、少なくとも普通の生活の思考ぐらいなら問題なさそうなレベルまで。  久方ぶりに『疑問』の処理を行えるようになった|一方通行《アクセラレータ》に、連中の一人が告げた。  その人物だけは、周囲の|駆動鎧《パワードスーツ》とは違う。  スマートな黒の|装束《しようぞく》で身を包んだ、線の細いシルエットだった。  やはり顔まで隠されていて、性別も分からない。 『複数の方式の|精神感応《テレパス》系能力者を用意しています。我々の言語、演算能力をあなたとリンクさせる事で、極めて短い時間ですが対話の可能な状態を維持しています。あなたからの言葉も、我々には通じるはずですよ。おっと、超能力は範囲外です。「|自分だけの現実《パーソナルリアリテイ》」までは補えませんからね』 『……能力者か』  |一方通行《アクセラレータ》は|鬱屈《うつくつ》な表情で告げた。 『こちらも「外」での仕事がありまして。今も回収部隊が|土御門元春《つちみかどもとはる》などを救出していますが、我々は一足早く「中」へ帰還した訳です』  チッ、と|一方通行《アクセラレータ》は舌打ちする。  |妹達《シスターズ》という例外を除けば、銃器と能力の両方を使う特殊部隊の存在は聞いた試しがない。|風紀委員《ジヤツジメント》などは『訓練で触れてみる』程度のものだったはずだ。危険度で言えば、|木原《きはら》の操っていた『|猟犬部隊《ハウンドドッグ》』以上だろう。その上、この連中は|一方通行《アクセラレータ》や木原|数多《あまた》の動きを正確に追っている。そうでなければ、|戦闘《せんとう》終了のタイミングを見計らって|踏《ふ》み込んでこれない。  おそらくは、彼らこそ学園都市の最も暗い|闇《やみ》の闇。  |一方通行《アクセラレータ》は、ついにその連中と接触してしまった訳だ。 『何の用だ』 『ええ。大切なお話があります』 『聞いてやっても構わねェが、その前にこっちの質問に答えろ』  何でしょう、と男は気軽に返してきた。  |一方通行《アクセラレータ》は告げる。 『|打ち止め《ラストオーダー》はどォなった。ウィルスは』 『一応停止していますが、ずさんですね。言ってしまえば、歯車を一つ取って、空回りさせている状態に過ぎません。|所詮《しよせん》、あれが|連中《うも》の限界でしょうね。ウィルスの進行速度はストップしていますので、「|学習装置《テスタメント》」を使えば再調整可能ですが』 『余計な|真似《まね》すンじゃねェ! 医者と研究者には心当たりがあるンだよ!!』 『そうですか。まぁ、彼らに任せても問題はありません』  |一方通行《アクセラレータ》は、|唾《つば》を|吐《は》き捨てた。  こちらの戦力や|手駒《てごま》、人聞関係も|全《すべ》て把握済みのようだ。 『……本題は何だ?』 『協力的で助かります』|丁寧《ていねい》な言葉が返ってきた。『今回、|貴方《あなた》が引き起こした一連の|騒動《そうどう》、並びに学園都市が|被《こうむ》った損害についてのご相談をと思いまして』 『……、』 『続けさせてもらいますね。まずは金銭的な問題を。建物や施設に対する物理的損害、「|猟犬部隊《ハウンドドッグ》」の欠損人員の|治療《ちりよう》と|補償《ほしよう》、民間人に対する情報操作の費用、それら|全《すぺ》てを合わせますと、ざっと八兆円ほど請求させていただく事になります。次に統括理事会の一人、トマス=プラチナバーグ|襲撃《しゆうげき》についてですが———』  男は延々と説明しているが、その口調は軽い。|一方通行《アクセラレータ》はうんざりした目で彼の顔を見返す。 『その|代償《だいしよう》として、|俺《おれ》を滅多切りにして研究素材にでもすンのか?』 『それも道の一つですが、我々は別の道も提示したい』  男は人差し指を立てた。 『我々と行動を共にする気はありませんか?』 『何だと』 『あなたの力はそのまま軍事方面に使えますし、現実的な話だと思いますよ、軍需産業は値がインフレを起こしていますからね。|戦闘機《せんとうき》一機、|艦船《かんせん》|一隻《せき》でいくらすると思います? まぁ、ざっと一艦隊級の働きをしていただければ、八兆円程度なら払い切れるでしょう。多少、時間はかかりますがね』  チッ、と|一方通行《アクセラレータ》は舌打ちした。 『学園都市は何をそンなに急いでやがる。ここまでやらかした俺みてェな人間を使い回そォなンざ、まともな思考じゃねェ。どっかと戦争でも始めるつもりか』 『お答えできません』 『そォかい。まァオマエの答えが何であれ、俺が言うべき事は一つだけだ』  |一方通行《アクセラレータ》は男を|睨《にら》みつけ、そして言った。 『———ふざけンじゃねェよ』 『へえ』 『ナニが損失の|補填《ほてん》だ。ナニが学園都市が |被《こうむ》った損害だ。元はと言えば、全部オマエ|達《たち》みてェなクソ野郎が群がってきたのが原因だろォが!!』  事務机に背中を預けるように座ったまま、|一方通行《アクセラレータ》は|吼《ほ》える。 『どォしてここまでやられた俺達[#「俺達」に傍点]が、これ以上オマエなンぞの言いなりにならなくちゃならねェ!? |叩《たた》き殺されてェのかオマエは!! ここはオマエ達の方が頭を下げる場面なンだよ! 裏でコソコソ何してっか知らねェが、ソイツに俺やあのガキを巻き込むンじゃねェ!!』  正論だった。  正論を言わないはずの彼の口から、正論が出た。 『学園都市は、ここが正念場です』 『……人の話を聞いてやがンのか?」 『下手をすると、落ちる[#「落ちる」に傍点]と言っているのですよ。我々はこれに|抗《あらが》いたいし、あなたにも協力して欲しい。まぁ、強制はしませんが、一度良く考えてみる事です。仮に学園都市が完金に消えた場合、我々能力者に居場所はあるのか。また、その他の技術[#「その他の技術」に傍点]に関しても同様です』 『———、』  学園都市内でも許されない、国際法で禁じられた軍用量産能力者一万体。彼女|達《たち》は『外』に居場所がない。下手をすると、今までより|酷《ひど》い軍事研究所へ送られる羽目にもなりかねない。何しろ、|打ち止め《ラストオーダー》達は何らかの大きな計画を|担《にな》うぐらい、重要な価値のある存在なのだから。  |一方通行《アクセラレータ》が守るべき少女、そして彼女が愛した風景のためには、今の学園都市は必要だ。敵が何であるかは分からないが、みすみすここを|破壊《はかい》させる訳にはいかない。どれだけ|醜《みにく》かろうが、やはり学園都市は小さな小さな子供達の世界だった。  統括理事会という『教師』は汚いが、彼らがいなければ学園都市という「学校』は機能しなくなる。こればかりは『生徒』の方がいくら暴れても解決はしないだろう。  結局の所、進むべき道は一つだ。  彼は舌打ちすると、覚悟を決めた。  目の前の男に言う。 『一つだけ教えろ』 『何でしょう』 『今回の件の|首謀者《しゆぼうしや》の名前だ。予想はついてるンだが確証がねェ。だから教えろよ。あのガキをこンな風に扱った人間の首を切り落とす。そいつを契約条件にしてやっても良い』 『回答するのは構いませんが、どうせスケープゴートですよ?』  |一方通行《アクセラレータ》はわずかに|黙《だま》った。 『……なるほど。回答を控える程度には価値がある人物って訳か』 『で、どうしますか[#「どうしますか」に傍点]』 『好きにしろ』 『良い返事です』  男は腰に差していた|拳銃《けんじゆう》を抜いた。  その銃口を、座り込んでいる|一方通行《アクセラレータ》の胸板に突きつけて、 『どうぞよろしく、新入りさん』  ガンゴン!! と立て続けに銃声が|響《ひび》いた。  暴徒鎮圧用のゴム弾を受けた|一方通行《アクセラレータ》の体が、床に転がる。男は拳銃をホルスターに戻しながら、周囲の|同僚《どうりよう》へ指示を出した。 「|撤収《てつしゆう》する。|戦闘《せんとう》の|痕跡《こんせき》を削除しろ。負傷者は経路B、|一方通行《アクセラレータ》は経路Gを使って運び出せ」  気を失った|一方通行《アクセラレータ》の両手を、二人の男がそれぞれ|掴《つか》んで引きずっていく。  ようやく小さな光を知った彼は、再び|闇《やみ》の奥へと落ちていく。  今度こそ、二度と這い上がれないほど深くへ。  カエル顔の医者は病院へ戻ってきた。  もっとも、その下準備にかなりの手間をかけていた。建物内に|妹達《シスターズ》を先行させ、敵兵の待ち伏せや爆弾などの置き|土塵《みやげ》がない事を確認するだけで一時間以上も経過している。 (まさか、患者さんに仕事を手伝わせるとはね)  少々本気で嫌気が差したように、カエル顔の医者は息を|吐《は》く。今後は自分の手足となる人間をきちんと雇っておいた方が良いかもしれない。  主立った負傷者|達《たち》は、観光バスクラスの特殊な大型救急車両『病院車』の中で処置を終えていた。ベッドの空き状況を確認し、それぞれの患者達を病室に戻し、ようやく一段落ついた……といった所である。  診察室の|椅子《いす》に座り、彼はしばらくぼんやりと|天井《てんじよう》を眺めた。  それから、机にあった電話機に手を伸ばす。  外線のボタンを押してから、シャープを数回|叩《たた》いた。乱雑なようでいて、一定のリズムがあった。その後に、特殊な番号を次々と打ち込んでいく。  受話器に耳を当てると、普通の呼び出し音は聞こえなかった。  ワンコールもなく、即座に相手へ|繋《つな》がったのだ。 「おはよう、アレイスター。さんざん好き勝手に暴れた気分はどうかな?」 『とてもとても。ようやく第二段階ヘシフトできた、という所だ。この程度で好き勝手などと呼ぶのはまだ早い』  音質は|驚《おどろ》くほどクリアで、同じ電話回線を使っているのかと疑問を抱くほどだった。電話機に全く別のケーブルが繋がっていると言われた方がまだ説得力がある。  しかし、カエル顔の医者にとっては慣れたものだ。  彼は|一方通行《アクセラレータ》にも述べている。自分は世界の|闇《やみ》を知る先輩だと。 「まだ早い、か。君は一体いつまで|一方通行《アクセラレータ》や|打ち止め《ラストオーダー》を使い回すつもりなんだい?」 『さあな。それよりも、最後まで|保《も》ってくれるかどうかの方が|懸念《けねん》されている。ベクトル制御装置に、AIM拡散力場の数値設定を入力する作業はようやく終えた所だが……もう片方の完成度が今一つでな。 |一方通行《アクセラレータ》、 |最終信号《ラストオーダー》、 |風斬氷華《ヒューズカザキリ》で |三位一体《さんみいったい》とする方法もあるのだが、それでは甘い。私はその先へ行かねばならない』 「|絶対能力《レペル6》の、さらに先にあるもの……か」 『そうでなければ、わざわざ外部から|幻想殺し《イマジンブレイカー》を招き寄せた意味がない』 「アレイスター。一つ君に言っておくべき事があるんだけどね?」 『何だ』 「僕の患者をオモチャにするのはやめてもらいたいんだ」 『ふ』  笑みが返ってきた。  |沈黙《ちんもく》する医者に、統括理事長は語る。 『聞かなかったらどうする。いや、何ができると言うんだ』 「分かっているさ」  カエル顔の医者は、照明も|点《つ》けずに真っ暗なままの診察室で、静かに言った。  彼の表情は、|誰《だれ》にも見えない。 「僕だって、ここまで力をつけた君に何ができるのか、本当は分かっているんだよ?」  でもね、と医者は語る。 「それでも、あの子|達《たち》は僕の患者なんだ」 『……、』 「そして僕は医者なんだ。アレイスター、君が何者であれ、ここを曲げる事はできない。アレイスター、分かるだろう? 僕の覚悟がどんなものか」  カエル顔の医者は、受話器を握る手に力を込める。  低く、静かな声で、彼は続けてこう言った。 「かつて僕に命を救われた、君ならば」  真っ暗な診察室に、沈黙が満たされる。  カエル顔の医者も、アレイスターも、しばらく何も言わなかった。  やがて、アレイスターはポツリと|呟《つぶや》いた。 『……あの時の私は、本当に死にかけていた』  医者は、その言葉に顔をしかめた。  恩を売るようなこの状況そのものに、胸を痛めているように。 『イギリスの|片田舎《かたいなか》だ。国家宗教の|魔術師《まじゆつし》討伐組織に追われていた私は、裂けた袋のようになって転がっていたな。それを|繋《つな》ぎ合わせ、英国という国家から|匿《かくま》い、生命維持装置を与え、日本という場所を紹介し、学園都市という仕組みを作る手伝いをしてくれたのは、|全《すべ》て貴方[#「貴方」に傍点]だった』 「……、」 『後悔しているか』 「本気で尋ねているのかい?」 『遠隔操作で生命維持装置を止めるなら今しかないぞ』 「僕を|馬鹿《ばか》にするならいい加減にして欲しい」  そうか、とアレイスターは小さく笑ったようだった。 『私は、そう言ってくれた|貴方《あなた》をも敵に回さねばならないのだな』 「……、」 『十字教の中でも厳格と言われた一派、世界最高と言われた黄金の|魔術《まじゆつ》結社、|他《ほか》にも国家から家族まで、私は今まで様々なものを敵に回してきたが……まさか、ここに来てまだ失うものがあったとはな』 「意思は、変わらないのかい?」 『貴方は私の理由を知っているはずだ』 「……、そうだね」 『私は止まれない。もうその段階は過ぎている』  きっぱりとした決別だった。  それは|哀《かな》しい。なまじ、最初から敵ではなかったが|故《ゆえ》に。  アレイスターは最後にこう言った。 『お別れだ。優しい優しい私の敵』  それで、通話は切れた。  最後の|繋《つな》がりであった細い線が消失し、後には単調な電子音しか残らなかった。  カエル顔の医者は、たっぷり一〇秒は固まっていた。  ゆっくりと、受話器を置く。  照明もない真っ暗な診察室で、彼は小さく息を|吐《つ》いた。 (忘れていないかい、アレイスター)  カエル顔の医者は、窓の外に目をやった。ここからでは見えないが、そちらの方角には窓のないビルが建っているはずだ。  彼の背中は小さかった。  |貫禄《かんろく》も何もない、ちっぽけな背中の男は、静かに思う。 (君だって、僕の患者の一人だっていう事を)  この日、学園都市は正式に魔術集団の存在を肯定した。  学園都市の外———ローマ正教には『魔術[#「魔術」に傍点]』というコードネームを冠する科学的超能力開発機関があり[#「というコードネームを冠する科学的超能力開発機関があり」に傍点]、そこから|攻撃《こうげき》を受けたのだという報告書をまとめ、その日の内に世界各国のニュース番組で取り上げられた。  一方、ローマ正教は学園都市の内部で『天使』の存在を確認。十字教の宗教的教義に反する|冒漬的《ぼうとくてき》な研究が行われているとして、ローマ教皇自らが学園都市を非難した。  互いは互いの主張を『|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい』と一切認めず、そして自らの主張のみを相手に|叩《たた》きつける。そこには一切の|譲歩《じようほ》や妥協といった色は見られず、むしろ争いが激化するのを望んでいるような動きさえ受け取れた。  争いが、始まろうとしていた。  学園都市とローマ正教の正面対立。  世界で三度目になるかもしれない、大きな大きな戦争が。 [#改ページ]    あとがき  一冊ずつ読んでいただいている|貴方《あなた》へ、ありがとうございます。  一気にまとめて一二冊も読破した貴方へ、本当にありがとうございます。  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  これにて衣替え終了です! それにしても、今回はバトルばかりでしたね。ほのぼのシーン一切なし。あっちを兇てもこっちを見てもケンカだらけですが、たまにはこういう殺伐とした|雰囲気《ふんいき》もアリかな、と思います。  それぞれ二組存在する主人公と敵キャラは、お互いが|完壁《かんぺき》に正反対の道へ向かうように書いてみました。しかし今回の主人公が入れ替わっていたら、敵キャラの対応もまた変わっていたかもしれないな、と思います。もちろん、それ以前に勝負にならなかった可能性もありますが。  今回のオカルトキーワードは『天使』。ですが、これまでのように明確な『|魔術《まじゆつ》の話』『科学の話』という訳でもありません。単に視点が二つ、事件が二つに分かれていたのではなく、そもそもお互いの領域を区切る壁を|曖昧《あいまい》にしてみました。  機会とお暇がありましたら、 体どこにどれだけの壁があったのか、そしてその壁の内のいくつが曖味化してしまったのか、などを調べてみるのも面白いかもしれません。壁の数は組織間の防壁の数とも表現できますので、実はあまり触れていない『当作品世界全体の大きな動き』が|掴《つか》めると思います。  イラストの|灰村《はいむら》さんと担当の|三木《みき》さんには感謝を。当シリーズにおいてコメディ一辺倒、バトル一辺倒という構成は結構冒険だったかなと思いますが、お付き合いいただき、ありがとうございました。  そして読者の皆様にも感謝を。コメディを期待していた方には頭が上がりませんが、今回の冒険にここまでお付き合いいただいて、本当にありがとうございました。  では、今回はここでページを閉じていただいて、  できるだけ早く次のページを提供できれば良いなと思いつつ、  本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。  彼らの道が再び交差するのはいつの日か[#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録12 鎌池和馬 発 行 2007年4月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 久木敏行 発行所 株式会礼メディアワークス 平成19年4月28日 入力・校正 にゃ?